Chapter 1: 導入編
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私は椅子に座っている。正面には奇妙な額当てを着けた髭の男、そして右横から見下ろす鋭い目付きと良い胸板の男。
「あの、それで、ここはどこなんでしょうか?」
「ふざけているのか、話をはぐらかすつもりー」
「軍曹、よしなさい」
額当ての男が左手で軽く制すと、軍曹と呼ばれた彼は押し黙った。軍曹ってもしかして、自衛隊の人達なのだろうか?
「ここは陸軍第七師団二七聯隊の兵舎だ」
「陸、ぐん?あの、陸自ってことですか?」
「リクジとは何だね?」
話が噛み合わない。軍曹、師団、兵舎、そんな単語を口にするこの額当ての男が、まさか陸自を知らないはずがないじゃないか。
「日本に軍はないはずでしょう?」
「ほう、なぜそう思う?」
「だってアメリカに敗けて、日本は軍を持てないじゃないですか」
そう言い切った私の目を無表情で見つめたまま男は数秒黙り込み、急にジャケットの内ポケットからハンカチを取り出して眉間の辺りに押し当てた。押し当てたハンカチが汗を吸って、端からじんわりと色が変わっていくのが見える。汗にしてはやけに量が多い気がするが。男は、失礼、と上機嫌な声色で言い、ハンカチをジャケットの中に戻して、こちらに向き直った。
「日本はアメリカと戦って、敗けるのかね?」
その黒い瞳が、妙な直感をもたらした。これは夢じゃないかもしれない。
弾かれたように椅子から立ち上がって、窓際へ駆け寄る。軍曹が私を追いかけようとしたが、半歩踏み出した所でまた額当ての男に制され、立ち止まった。
外側が鉄格子に守られた窓に張り付く様に外を見る。どうやらここは2階のようで、見渡す一面に月の光と雪でうっすら青白く浮かび上がった背の低い町が広がっていた。高いビルもなければ、電飾の看板もない。一番明るい光源は今居るこの建物の入り口の側で焚かれた篝火で、降り積もった雪の上に見張り兵士二人の影を落としていた。窓ガラスに触れる手のひらが凍えるように冷たい。私の体温で発生した露が二筋、ガラスのへりに向かって垂れる。
額当ての男は静かに背もたれから背中を外し、テーブルの上に両肘を突くと、手の甲に顎を乗せた。白い額当ての縁から覗く二つの黒い目玉がこっちを見ていた。
「ところでお嬢さん、その首から下げた札を見せてくれないか」
札?自分の胸元に視線を落とすと、鳩尾の辺りで社員証が揺れていた。思わず右手でギュッと握りしめる。青いポリエステルの紐に、柔らかい透明なプラスチックのカードケース、中には全然気に入らない私の顔がはっきりプリントされた社員証。陸軍が存在し、かつアメリカとの戦闘をまだ知らないーつまり太平洋戦争より前の時代に存在するものではないことくらい、私にも分かった。
「これはっ」
「月島軍曹」
「はい」
あの人は月島軍曹というらしい。彼がこちらに歩いてくる。窓を背にした私の二十センチ程手前、かなり近い距離で立ち止まり、社員証を握りしめる私の両手辺りを見やった。鼓動が速くなるのを感じる。しかし今は恐怖が勝っている。
「渡しなさい」
無言で俯いたままの私に痺れを切らしたのか、首元の紐を両手で掴んで、意外にも優しい手つきで私の首から外した。先端の社員証はまだ私が掴んだままだ。
「渡しなさい」
語気が荒くなったわけでもないのに、プレッシャーを感じる。きっかり三秒で耐え切れなくなって、ふにゃりと両手から力が抜けてしまった。社員証はあっけなく取り上げられ、額当ての男の元へ運ばれる。
「ふむ、名字名前か」
社員証に書かれた私の名前を読み上げ、手袋を外す。ケースの部分を擦ったり、袋とじのフラップの部分を指で挟んだりしている。
「ゴムの様な手触りだが、ここまで薄く加工してあるのは初めて見た。そしてこのガラスの様な透明度ーしかし柔らかく割れたりしない。写真の印刷技術も素晴らしいな。緻密で鮮明な仕上がりだ。」
男の指は紐の方へ移動し、ライトに透かしたり、指で撫ぜたり、挙げ句の果てには頬にすり当てたりしている。
「絹の様に細やかな織目の割に強度も厚みもあるな。いやはや、素晴らしい。」
一通り私の社員証を堪能した男は、テーブルの上に社員証をパタリと置くと、窓際に立ち尽くしている私の方へと椅子の上で向き直り、にたり、と擬音がしそうな笑みを浮かべて私に言った。
「さて、名字名前さん、君は一体"いつ"から来たのかね?」
おそらくこの男は、少なくとも今私がここにいる"現在"よりも進んだ文明の社会、つまり未来から私が来たということに気付いている。オーパーツである社員証、そして私の証言。今更嘘をついたところで言い逃れはできないだろう。それに、まだこれがただの夢である可能性も否定できない。
「西暦2020年の東京です」
「なんと!百年も先から」
男が興奮したように笑う中、額当ての内側から眉間にドロリと汗のよりも粘度のある液体が垂れて落ちてきたのを私は見てしまった。おっと、と直ぐにハンカチを取り出して、また眉間に当てる。なんなんだこの人は。
「君には聞きたいことが山ほどあってね。どうだい、行く当ても無いだろうし、今日は私の家に来るといい。心配いらないぞ、客人としてもてなそう。」
不審者扱いで殺されないだけましなのかもしれないが、でもこの妙な男の自宅に連れ込まれるのは、どう考えても危険すぎる。非常にまずい。窓際を背にしたまま横歩きで壁沿いにドアの方へゆっくり進む。
「あの、お気持ちはありがたいんですが、結構です。それじゃあ私はこれで」
ドアまであと三メートルという所で、横歩きから競歩に切り替え、二人に背を向けた。我ながらなんというかっこ悪さだ。もし私にしっぽが生えていたら、間違いなく股下をくぐっておへそまで届いているに違いない。でも逃げられるかどうかではなく、この額当ての男と対面し続けることが怖くてたまらないだけなのだ。あと一メートル、ドアノブに向かって伸ばされた腕は月島軍曹のごつごつした手によって掴まれた。ぎりぎり痛くはないが、かなり強く掴まれているのが分かる。
「戻りなさい」
雪の降る夜、ろくに暖房も点いていないこの部屋で、私の背中に汗が伝う。ゆっくり月島軍曹を見上げた。また目が合う。この人に言われたら、言う通り以外になんてできないことを、再度自覚した。