Chapter 3: 夕張編
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「もうすっかり良さそうだね」
あれからきっかり三週間。医者が私の肘を掴んで、揺らしたり回したりして肩関節に痛みが無いかを確認した。
「明日から仕事に戻れるかい」
「はい!勿論です」
退屈を持て余したこの三週間からようやく抜け出せそうだ。礼を言って診察室の外に出る。外のベンチで月島さんが待っていてくれた。
「どうでしたか」
「明日から仕事に戻っていいそうです!」
「それは良かったですね」
看護婦詰所に差し掛かると、四人の先輩ナースが窓口から身を乗り出してこちらを見る。
「鶴見さん、肩どうだった?」
「明日から仕事に戻ります。ご迷惑おかけしてすみませんでした」
「気にしないでいいのよ。また明日ね」
私達がまた歩き始めても、先輩ナースたちは動くものを目で追う猫のように私達を見つめていた。もしかして、誰かが月島さんを狙ってる?
「月島さん、早く行きますよっ」
「?押さないで下さい」
月島さんの背中を後ろから両手で押し、出入り口へと速歩きする。後ろで先輩ナースたちの、きゃーっ、という声が聞こえた。月島さんには手出し禁止ですからね、先輩方。
「先輩方にあんまり愛想振り撒かないで下さいよ」
「一言も喋ってませんが」
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指で患者リストをなぞりながら、包帯交換の必要な患者の部屋番号を確認する。リストの途中で見知った名前―二階堂浩平が二重線で消されているのを見つけ、顔を上げて隣の先輩ナースに尋ねる。
「先輩、この二階堂さんって退院されたんですか?」
「ええ、その人なら先週退院したわね」
「…分かりました」
棚の中から二階堂一等卒のカルテを探し出し、中を確認する。
「頭部裂傷と…両耳介の欠損?」
私が家に閉じこめられている間にやはり色々事は進んでいたらしい。カルテを持つ手に力が入り、慌てて皺を伸ばした。
もう一度リストを確認し、包帯交換のセットが入ったバスケットを抱えて詰所を出る。二〇四号室、この一等卒の名前は兵舎で耳にしたことがある。腹部の銃弾摘出手術後に容態が悪化し、回復しているものの入院が長引いているようだ。入院開始日は二階堂一等卒と同じ日付だった―同じ現場に出て負傷した可能性が高い。
「包帯交換しますね」
着物の前を開けてもらい、ベッドにしゃがみこんで古い包帯を外していく。この兵士は私があの鶴見名前だということに気付いているようで、恐縮して気恥ずかしそうにしている。
「誰に撃たれたんですか」
「…それは、お教えしかねます」
「尾形上等兵ですか」
「、どこでそれを…」
あの男、逃走したのはやはり裏切ったからだったか。療養中ずっと考えていたことを再び頭の中で繰り返す。あの逃走劇の後、すぐに月島さんは私の家に来た。言い方は悪いが―のん気だとしか思えなかった。鶴見中尉が小樽を出ており実質指揮を任されていたのは月島さんで、上等兵が病院から脱走したとなれば私の家にくる余裕など無かったはずだ。さらに、二階堂一等卒とこの兵士の入院日は、尾形上等兵が逃走した日の二日後。鶴見中尉が積丹から戻った後に捜索を開始し、偶然にも見つけました、と言うには出来すぎた話―密偵を付けて追わせていた可能性が高い。つまり、鶴見中尉と月島さんはこれを先読みしていたのだ。
「その後、奴は捕まったんですか」
「いえ…そのまま逃亡を続けているようです」
左肩に熱が集まっていくのを感じる。あの男、やはり気に食わない。兵士が困ったように、どうか口外されないように、と小首を垂れる。ご安心下さい、と笑いかけ、処置を進めた。
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「あら、おじさま?」
もうすぐ四時という頃に詰所へ戻ると、廊下のベンチに鶴見中尉が腰掛けていた。やぁ、と軽く右手を上げる。
「どこかお怪我でも?」
「至って健康。今日は月島の代わりに君を迎えに来た」
珍しいこともあるものだ。急いで着替えて廊下に戻ると、鶴見中尉はベンチから立ち上がり左腕をウエストの位置で軽く曲げると、私に目配せをする。
これは、腕を組みなさい、ということだろうか。素直に自分の腕を中尉の左腕に絡ませる。
「どうしたんですか」
「名前、これから"デート"に行こう」
まさかのデートのお誘いであった。
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「これ…いや、こっちが…まあお似合いですよ!」
時刻は五時半、洋服店で店員にサイズを測られたり衣服をとっかえひっかえされたりしながら、私は腹を空かせていた。
「いや、やはりさっきの薄緑の方が良かったな、もう一回着て見せてくれ、名前」
「イヤです、疲れました。もう行きましょうよ」
女子たるもの、ショッピングはもちろん大好きだ。現代では着たこともないような裾の長いドレス、繊細なパフスリーブ、華やかな帽子にテンションは上がるものの、もうかれこれ一時間半も試着に時間を費やしているのだ。鶴見中尉からゴーサインが出た数着がカウンターの上に積まれている。
鶴見中尉が急に思い出したように店員を呼び止める。
「婦人用の乗馬服はあるか」
「はい、英国で仕立てられたものがございますよ」
お持ちいたします、と言って店員は裏に引っ込んでいった。
「また私のコートを取られては困るからな」
小花柄のドレスを着たまま腕を組み、むすっとする私に鶴見中尉が振り返り、からかうように言った。
「もう馬に乗らなければいいんでしょ」
「いや、乗る予定はあるぞ」
今度は乗馬でも習わせるつもりなのだろうか。正直あまりこれ以上英国帰り設定を引っ張りたくないのだが。
「夕張に行く」
「…そうですか、行ってらっしゃい」
「今度は君も連れて行く」
え、と口を開く直前に、奥から店員が綿布のカバーに覆われた服を抱えて戻ってくる。ハンガーを衣装掛けに引っ掛けてカバーを外すと、黒いテーラードジャケットが姿を現した。別のハンガーに掛かっていたスカートからも同じようにカバーが外される。特筆すべきはこのふくらはぎ丈のスカート、生地の下には共布のズボンが隠れており、二重構造になっているのだ。
「これ、本当に女性用なんですか?」
「ええ。最近西洋では女性も跨って乗馬される方が増えているらしいんで、仕入れてみたものの、やはり日本ではまだ馴染みがないようで…」
ハハハ、と店員は乾いた声で笑いながら試着室のカーテンを閉めた。なるほど、この時代では上流階級の女性が乗馬する際は脚を広げずに、横座りで乗るのがお上品とされているようだ。急にあの日月島さんに脚を開かされた情景を思い出し、人知れず恥ずかしくなる。しかしこの乗馬ズボンがあれば、いざという時もあんな思いをせずに済む筈だ。
カーテンを勢い良く開け放ち、腰に手を当ててポーズを取る。
「おじさま、これにしましょう」
「良いじゃないか、似合ってるぞ」
店員が私の背後に周り、ジャケットのウエスト部分にピンを打っていく。
「奥様は洋服がお似合いになる体つきでいらっしゃる」
「…あ、いえ、奥様じゃ、」
「先程のドレスも自然に着こなしていらっしゃっいましたもの、ねえご主人様もそうお思いでしょう?」
店員が鶴見中尉の方に同意を求めようと振り返った。鶴見中尉は微笑みを浮かべて何も言わずにこちらを見ていたが、その目はただ宙を見つめているようにも見えた。