Chapter 2: 春・小樽編
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「月島軍曹殿!!」
堺町通りの後始末を任されている月島軍曹の元に早馬の兵士が駆け寄ってきた。素早く敬礼すると、報告を始る。
「病院より兵舎に入電、先程尾形上等兵が病院より逃走―三島一等卒がそのまま追跡を開始しましたッ」
「分かった、積丹の鶴見中尉殿に電報を急げ。二階堂一等卒についてもだ」
「はッ」
鶴見中尉が予想していた通りに事は運んでいた。電報の指示をすると、報告に来た兵は直ちに急いで去るかと思いきや、そのまま月島軍曹の側に立ったままである。月島軍曹は怪訝な視線を兵士に送る。
「どうした、早く行け」
「あともう一点、名前さんの事なのですが…逃走する尾形上等兵と接触し、病院内で負傷した模様です」
「…容態は?」
「只今診察中ではありますが、軽傷のようです」
月島軍曹は辺りを見渡す。土方歳三の一件からもう数日が経過し、現場の調査もし尽くした。残るは建物や瓦礫の処理のみである。他の兵士と警察に任せても問題はないだろう、と判断した月島軍曹は、早馬の兵士に更なる指示を与える。
「病院に電話して、診察が終わったら病院で待つよう鶴見さんにお伝えしろ。俺が直ぐ出る」
「はッ」
ここ堺町通りから病院へは徒歩で二十分程。重い小銃は現場の兵士に預け、ベルトに差した拳銃を確認して病院へと出発した。
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「肩関節脱臼、全治三週間ですね」
それは、もう、痛かった。外れた関節を元にはめ直したのだ。涙目で荒い息を上げる私の背中を先輩ナースの一人が宥めるように撫でてくれた。
「腕つりで固定して、なるべく動かさないように。また一週間後に来なさい」
医者は同情するような素振りも全く見せず、淡々と私に言い放った。
「…休職ですか?」
「当たり前でしょう」
明日からはしばらく療養生活が続きそうだ。医者は椅子から立ち上がって、先輩ナースに着替えを手伝ってから腕つりを付けるよう指示し、診察室を出て行った。
「着物と荷物持ってきてあげたから、さっさと着替えましょ」
先輩ナースとブラウスのボタンを外してくれる。小声で、ありがとうございます、と呟いたが、やはりはっきりお礼を言おうと決めて顔を上げる。
「あの、本当にありがとうございます。良くしていただいて」
「…あのねえ、怪我人にまで冷たくするほど腐っちゃいないわよ」
それにね、と先輩ナースが続ける。
「いるのよ、私達に酷い態度とる軍人さん。そういうのは私達みんなで守り合わないといけないのに…悪かったわね」
さ、早く右腕抜きなさい、と促され、身を捩ってブラウスの袖口から腕を引き抜いた。鶴見中尉の命で始めた看護の勉強だったが、この時になってようやく自らのやりがいを見つけることができたのだった。
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普段着に着替え終わり左腕を布で吊ってもらうと、先輩ナースに荷物を持って貰いながら診察室の外に出た。廊下のベンチに座っていた一人の兵士がこちらを見て立ち上がった。
「鶴見名前さん?」
両頬に特徴的なほくろがある、見たことのない兵士だ。
「あの、失礼ですがどちら様ですか」
「宇佐美と申します、月島軍曹からあなたをご自宅まで送るように言われました」
物腰の柔らかい穏やかそうな兵士である。先輩ナースに微笑みかけて荷物を受け取り、私に向かって、さ、参りましょう、と言った。兵舎では見かけたことがない顔だが、月島さんに頼まれたということなら、まあ信用していいんだろう。
「じゃ、鶴見さん、ゆっくり休むのよ」
「ありがとうございます」
宇佐美さんの後をついて廊下を出口に向かって歩く。
「災難でしたね、脱臼ですか?」
「はい、戻す時すっごく痛かったです」
「ハハ、外まで声聞こえてましたよ」
軽口を叩きながらも嫌味がない。正面玄関に差し掛かり、ドアを押さえてもらっている間に先に通らせてもらう。
「そういえば名前さんは、鶴見中尉殿のご親戚なんでしょう?」
坂道を下りながら、宇佐美さんが肩越しに振り返り、一瞬目が合う。なんだか寒気のような感覚がした。
「はい、おじさまの従兄弟が私の父です」
「へえ、お父上は鶴見中尉殿の
初対面で妙に突っ込んでくるな、この人。こういう時の為に、鶴見中尉と打ち合わせして事前に考えておいた壮大な設定がある。
「おじさまのお父上の弟が、私の祖父です。父の代から東京に移り住んだので、あまり本家の方々とは関わりがないのですが」
宇佐美さんはこちらには振り向かず、へえ、と声だけで返事した。これで納得してくれただろうか。
「では何故名前さんは今鶴見中尉殿の元に?」
「少し前に英国から単身帰って参りました。家族はみなまだ向こうにいるので、日本ではおじさま以外に頼れる人がいなくて」
「どうして単身帰国を?なぜ?」
首筋に汗が伝うのをはっきりと感じた。この宇佐美という兵士、何故こんなに私を質問攻めにするのだろう。まさか、私を疑っている?彼は立ち止まり、答えない私の方に再びゆっくりと振り返ると、さらにもう一つ質問する。
「もしかして、鶴見中尉殿目当てで帰国されたんでは?」
『答えろ』と脅すような目をしていた。その雰囲気に気圧されて、私も立ち止まってしまう。答えなければ、何か。
「…恋に、破れました」
「え?」
「向こうでお慕いしていた方が結婚したんです」
右手で口元を隠しながら伏し目で答えた。ヨヨヨ、という感じである。宇佐美さんはそんな私を見て大きく数回瞬きすると、なーんだ、と言って前を向き、再び坂を下り始めた。新しい設定を作ってしまったので、鶴見中尉とまた口裏を合わせておかないといけない。
しかしこの兵士、失恋して単身帰国した乙女のストーリーを、なーんだ、で済ませるなんて。
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月島軍曹が看護婦詰所窓口のガラス戸を叩く。数人いる看護婦が一斉に窓口を見やり、その内の一人がガラス戸を開けた。
「鶴見名前さんはどちらか」
「あら、少し前に帰りましたが」
名前の診察が終わっても病院に引き留めておくよう連絡を入っていたはずだっだ。月島軍曹が眉を顰めると、丁度よく廊下の曲がり角から兵士がフラフラと詰所の方に歩いてくる。
「おい、そこの」
「ヒッ、月島軍曹殿ッ」
その兵士が月島軍曹を認識した瞬間、怯えたような声を上げ、全身を緊張させて敬礼をした。
「鶴見さんに病院で待つよう伝えろと連絡が入っていたはずだが」
「…その、丁度入れ違いになっていたようで、入電があった時にはすでにお一人で帰られた後でした…」
「鶴見さんは兵隊さんに付き添われて帰りましたよ」
急に背後から声がして月島軍曹が振り返ると、詰所の中にいた看護婦全員が窓口の内側に押しかけており、窓口から廊下の方に体を乗り出した一人の看護婦があっけらかんと言い放ったのだった。
「…どういうことだ?」
「申し訳ありません月島軍曹殿ッ!!入れ違いになったと報告するよう自分は命令されたのですッ」
「おい待て、誰が鶴見さんを連れて帰ったんだ」
月島軍曹が兵士に詰め寄る。
「宇佐美上等兵殿でありますッ」
「それを先に言わんかッ!」
月島軍曹は即座に踵を返し、全速力で出入り口の方へ走り去っていった。途中カルテを見ながら歩いて来た医者と接触しかけるが、奇声を発して医者が飛び退いたため、事無きを得たようだ。廊下に散らばったカルテを踏み付けながらも月島軍曹は止まらず、蹴り上げられたカルテが宙を舞った。
「…ふぅーん、おもしろくなりそうじゃない」
「恋の三角形ってやつ!?」
窓口の看護婦たちは月島軍曹の背中を見送りながら、新たなドラマの予感に胸を弾ませるのであった。
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「…宇佐美さん、ちょっと止まって下さいます?」
もう自宅の側まで来たというのに、足首がどうも痛む。尾形上等兵に突き飛ばされた時に挫いてしまったのだろうか。軽く腰を落として右足首に手を伸ばす。
「足が痛みますか?」
「ちょっと…挫いちゃったのかもしれません」
つま先を地面に当てて足首を回すように解すと、少しましになった気がした。
「おんぶしましょうか」
「いえ、大丈夫です、ほらあそこに見えてる家が自宅ですから」
通りの奥に見える家屋を指差すと、宇佐美さんもそちらを見る。
「へえ、あれが鶴見中尉殿のご自宅かぁ」
どことなくうっとりしたような声音で言う。この人も鯉登少尉と同じく、鶴見中尉にぞっこんな人なのだろう。そう考えれば先程の質問攻めにも合点が行く。
「捻挫程度なら、厚めの包帯で関節を固定すると良いですよ。家に着いたら診てあげます」
僕柔道をやっていたんで、と宇佐美さんが親切にそう言って下さったので、軽く足を引きずりながら自宅に急ぐことにした。
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月島軍曹は走る。病院から鶴見中尉の自宅は男の足で徒歩二十分程、走れば十分を切る。
春も近くなってきた今日この頃、地面に積もる雪は日に日に薄くなってきており、人の往来が多い道は土と雪が入り混じって泥のようになり、靴や着物の裾を汚す。月島軍曹の軍靴と白い脚絆はどろどろに汚れていた。
ようやく家の前に到着し、数秒立ち止まって呼吸を整えると、錠が掛かってないのを確認してから引き戸に手をかける。どうやらもう帰宅しているらしい。玄関には名前の黒いブーツと軍靴が揃えて置いてあった。宇佐美上等兵は中に上がっているようだ。月島軍曹が、ごめんください、と声を上げようとしたその瞬間、家の中から名前の悲痛な声が聞こえてくる。
「や、やめて下さい宇佐美さんっ、ちょっ…イヤ、痛い、離してえっ!」
月島軍曹は、一瞬で横隔膜から脳天にかけてが沸騰するのを感じた。汚れきった軍靴のまま玄関を上がり、大股で廊下を歩きながらベルトの拳銃を引き抜く。中で人影が揺れる居間の障子を、スパァン、と引き開け、中に向かって拳銃を向けた。
「宇佐美ィ!!」
シヅさんの家まで届くんじゃないか、というくらい大声を出した月島軍曹が見たものとは、畳の上で揉み合う一組の男女…などではなく、畳の上で逃げ腰で座る名前と、その右足を引っ掴んで包帯を巻く宇佐美上等兵の姿だった。
銃口は明らかに宇佐美上等兵の方へ向いていたが、名前は目を見開いて恐る恐る吊っていない方の手を挙げて降参の意を示した。一方宇佐美上等兵はちらりと月島軍曹を見やり、あれ、来ちゃいましたか月島軍曹殿、とさらりと言った。
「…何をやっている」
「名前さんの足首の手当ですよ、見て分かりませんか」
「つ、月島さん…それしまって下さい…!」
怯えたように涙目の名前が手を顔の横辺りに挙げたまま、月島軍曹に拳銃を下ろすよう懇願した。月島軍曹は大きくため息をつき、拳銃をベルトに戻す。
「なんで拳銃なんか…」
「あなたが紛らわしい声を出すからだッ」
とばっちりを食らった名前は目を白黒させて数秒考え込むと、ようやく"紛らわしい声"の意味が分かったのか、顔を赤くしながら目を逸した。
はい、終わりましたよ〜、と軽い口調で宇佐美上等兵が名前の足首から手を離す。包帯が足の甲でクロスし足首と踵を固定するように巻かれていた。
「じゃあ僕はこれで。名前さん、お大事に」
宇佐美上等兵が立ち上がり、居間の出入り口―月島軍曹が立つ方向へ近付いていく。すれ違いざまに宇佐美上等兵が月島軍曹に向かって小声で言い放つ。
「えらくお気に入りじゃないですか」
そのまま通り過ぎ、廊下に出た。瞬き一つしない月島軍曹が居間の方に顔を向けたまま口を開く。その目は名前を見ていた。
「宇佐美上等兵」
「はい?」
「廊下の掃除をしてから帰れ」
「は?掃除?…うわっ、汚っ」
月島軍曹を呆然と見つめる名前は、胸の辺りで血の気が引くのを感じていた。もう一人の"上等兵"。名前は心の中で唱えた。
「(…月島さんに叱られる!)」