Chapter 2: 春・小樽編
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「こら、立たんか鯉登少尉」
鶴見中尉がそう一言発すると、まるで先程崩れ落ちた動作から逆再生したかのように鯉登少尉がぬるりと立ち上がり、きらきらした目で鶴見中尉を見つめた。すごい体幹だ。
「名前、こちらは鯉登少尉だ。今日は旭川から物資を調達してきて貰った」
旭川―第七師団の司令部がある場所だ。昨日の火事でかなりの武器弾薬を無駄にしたようなので、おそらくその補填だろうか。
「…先程は差し出がましい真似をしてしまい申し訳ありませんでした、鯉登少尉殿」
私に近寄られたのがぶっ倒れる程ショックだったのか嫌だったようなので、うら若き乙女のプライドを傷付けられたのはこちらだが、念の為謝罪しておいた。鯉登少尉は、カッ、と目を見開き、また鼓膜を刺すような声で話始める。
「とんでんあいもはん!!おはんようなしとあえてうれしかおもっちょいもす、ちぃとたまがっただけじゃっできにしなぎたもんせッ!!」
…分からない。横に立つ鶴見中尉に視線を送って助けを求めるが、私にもさっぱりわからん、と匙を投げられた。
「名前に分かるように言ってくれ鯉登少尉」
「月島あッ」
鯉登少尉はごにょごにょとまた月島さんに耳打ちを始めた。無、という表情をした月島さんが、言われた事を標準語に翻訳する。月島さんには彼が何をいってるのか分かるらしい。
「とんでもありません、あなたのような方とお会いできて嬉しく思っています、少し緊張しただけなので気にしないで下さい、とおっしゃっています」
どうやら多少ウブなだけらしい。鶴見中尉、まさかこれを分かって私に色仕掛けをさせたのだろうか、しかも月島さんが見ている前で。
「…おじさま、私先に帰らせていただきます」
「そうかい、誰か供をつけさせよう―月島軍曹」
鶴見中尉が月島さんを呼ぶ。月島さんに送ってもらえるのだろうか、と心が一瞬沸き立つが、中尉はそれも分かっていたかのように私の期待を裏切った。
「下の兵に頼んでやってくれるか」
「はい」
落胆する私に中尉が、悪いな、と小声で囁いた。
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月島軍曹が部屋に戻ると、鶴見中尉と鯉登少尉がテーブルを介して向かい合って座っていた。入室するやいなや鯉登少尉に名前を叫ばれ、月島軍曹は鯉登少尉の側に移動する。何か言いたげな視線に腰を曲げて耳を近づけると、こしょこしょと耳打ちされる。まったく同じ言葉をそのまま声に出して繰り返し、"通訳"した。
「父から言付けを預かっております、と言ってます」
鶴見中尉は両手の指を組んでテーブルの上に軽く身を乗り出し、ほう、と一言漏らした。また鯉登少尉はこしょこしょと月島軍曹の耳元でまた何かを伝える。
「有事の際は大湊要港部・第四水雷艇隊が助力する準備はできている、とのことです」
「…何と頼もしいことか。恩に着るぞ、鯉登少尉」
花が咲くような笑顔で喜びを噛みしめる鯉登少尉を横目に、月島軍曹は函館の一件を思い出して目を伏せた。
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鯉登少尉はあの日小樽に一泊し、翌日明朝には旭川へ帰っていったそうだった。後日月島さんに聞いた話によると、彼は薩摩―鹿児島の出身で、父親は海軍少将、つまり御曹司だそうだ。道理であの方言。なぜ月島さんは薩摩の言葉が分かるのか質問したところ、私には普通に話すんですよあの人、とこっそり教えてくれた。お金持ちの方の考えることはよく分かりませんね、と答えておいた。
新しい兵舎にも慣れて来た頃、私は以前と同じように秘密の勘定の仕事を任されていた。バタフライ・エフェクトについては、あれ以降鶴見中尉と話すことは一切なかった。殺されずに済んだことは素直に喜ばしいが、物事が明らかになるにつれて更に鶴見中尉の謎が深まっていく。
「鶴見中尉殿、月島です。今よろしいですか」
ノックの音が二回響き、月島さんの声が廊下で響いた。鶴見中尉が、入れ、と声を掛ける。
「緊急のご報告があります、が」
月島さん私の方をちらりと見る。出て行った方が良いかと思い立ち上がると、鶴見中尉に片手で制された。
「続けろ」
「はい。隊の中で体調が思わしくない者が何名か出ています」
「何かの疾病か?」
「脚気の初期症状と思われます」
鶴見中尉がため息をついた。コチ、コチ、と柱時計の音だけが部屋に響く。脚気。下半身に神経症状が出るビタミンB1不足による症状。
「…あの、ひとつ質問があるんですが」
私はおずおずと片手を挙げて発言の許可を求めた。
「何だね」
「もしかして、火事のせいでお米以外の食料が不足していたり、します?」
「…確かに、その通りですが。それが何か」
月島さんと鶴見中尉が私を凝視している。何を隠そう、私の母は栄養士で、学校給食関連の会社で働いていたのだ。家で食事をする際、毎度栄養素や食材についてのうんちくを語っていた。あまり興味のなかった私はその道に進むことはなかったが、恐らく他の人に比べて知識は持っていると思う。
「脚気はビタミンB1不足によって起こる病気で、主な原因として白米やインスタント食品の摂り過ぎが挙げられますので、胚芽米、ごま、豚肉などの量を増やしバランス良く食べることで防ぐことができます」
人差し指を立て鼻高々に長文を言い切った私の脳裏に、バタフライ・エフェクトという言葉が再び過ぎる。心臓のリズムが、柱時計の音を追い越す。
「…鶴見中尉殿、垂れてます」
月島さんが言い辛そうに発言する。鶴見中尉は、ふふふ、と低い声で笑いながらハンカチを眉間当てた。
「炊事掛にはそのように伝えておけ」
「…びたみん?とやらをですか」
「胚芽米、ごま、豚肉だ」
鶴見中尉は月島さんを下がらせると、ハンカチをしまって私の方に振り返った。私の心臓が相変わらず早いリズムで打っている。何気ない私の発言が、今未来を変えてしまった気がする。鶴見中尉が、こちらに来なさい、と私を呼ぶ。足が独りでに動き出す。鶴見中尉が腰掛ける正面で立ち止まった私の手を優しく取り、自分の頬に当てた。
「よくやった、名前」
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二日ぶりに鶴見中尉が家に帰ってきた。夕食を済ませた後、中尉は離れにある風呂に向かった。鉄砲風呂という、湯船の端に鉄パイプが煙突のように立っていて、その中に薪を入れて湯を温めるこの時代の内風呂である。足を伸ばしてお風呂に入りたい私は、この内風呂は使わずに銭湯を利用している。鶴見中尉は額の怪我のせいで銭湯に行くことはあまりないのだろう。
シヅさんは夕食後の片付けを済ませ、鶴見中尉の自室に布団を用意した後、自宅へと帰って行った。私は自室で寝間着の襦袢姿で髪を梳かし、就寝の準備を始める。
廊下から、こちらに近付いてくる足音が聞こえる。鶴見中尉がお風呂から戻ってきたのだろう。足音は私の自室の前で止まり、名前、と私の名を呼んだ。
「はい、なんでしょうか」
「私の部屋に来なさい」
そう言って返事も待たずに足音はそのまま通り過ぎていった。私がこの家に居候を始めてから約一ヶ月と半、鶴見中尉は日が落ちた後に私を自室に呼んだことは一度もなかった。ふと邪な想像をして頭を振る。無い、それは無い。立ち上がり、長着を羽織るか迷った後、そのまま何も引っ掛けずに廊下に出た。
「入ります」
膝を突き一声掛けて、鶴見中尉の自室の障子を開ける。天井から吊るされたランプが煌々と部屋中を照らしており、私の想像がとりこし苦労であったことを悟った。
「こっち来なさい」
座卓の側に腰掛けた見慣れない和服姿の鶴見中尉が、正面の座布団を指差す。私は立ち上がって室内に入り、その座布団の上にゆっくりと正座した。
「名前、君には医学の心得があるのか」
「…ああ、いえ、あれは医学ではなく栄養学です」
「栄養学、か。おもしろい、現代で学んでいたのか?」
「私は少しかじっただけです。母が専門資格を持っていて、詳しいんです」
鶴見中尉は私から視線を外し、まあどちらにせよ、と言いながら風呂敷包みを手に取り、座卓の上に置いた。
「これを渡しておこう」
「なんですか、これ」
「開けてみなさい」
風呂敷の結び目を解いて広げると、中には純白の布―いや洋服が入っていた。ボタンのついたシャツに長いスカート、それに共布の頭巾のようなもの。
「…何かの制服ですか?」
「看護を学んでみる気はないか、名前」