Chapter 2: 春・小樽編
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先程の病院から長い坂を下ると、商店などが立ち並ぶ比較的通行量の多い通りに出る。その通りを西に向かって数分歩くと、その賑やかさは鳴りを潜めはじめる。そこに新しい兵舎の建物はあった。木の塀で囲まれた敷地は、以前の兵舎より二周りほど大きい。建物の入り口付近には運搬用の馬橇が何台か止まっており、火を免れた荷物や食料などを新しい兵舎へ運び入れているようだ。それにしても、昨日の今日でよく都合の良い建物を手配できたものだ。やはり軍という存在は絶対的なのだろうか。
私達に気付いた兵士たちが、姿勢を正して鶴見中尉と月島さんに向かって敬礼をする。鶴見中尉は、ご苦労、と言って右手を上げながら、兵達の合間を通り過ぎ玄関に入った。
「私もお手伝いしましょうか、大きいものでなければ運べますよ」
「兵達が恐縮するからやめておきなさい」
鶴見中尉に早く中に上がるように促される。急いでブーツを脱ぎ、端に寄せて廊下に上がった。建物の中は以前の兵舎とよく似た雰囲気で、おそらくここも商店だか問屋だったのだろう。続いて鶴見中尉も履物を脱いで上がったが、月島さんはそのまま玄関に立ったままだ。
「では月島軍曹、頼んだぞ」
「はい、到着され次第部屋へお連れします」
また誰かが訪ねてくる予定があるらしい。鶴見中尉はそのまま私を二階に連れて行き、廊下突き当り一番奥の部屋に向かう。ここも前の兵舎と同じく、板張りの洋室だった。この時代の建築物は二階奥の部屋を位の高い部屋にするのが一般的なのだろうか。
部屋の中には応接用にテーブルセットや棚、ちょっとした調度品などが既に置かれていた。新しい物にも見えないので恐らく建物の持ち主がそのまま残していった物なのだろう。椅子に掛けるよう促され、大人しく座った。
「"任務"について話しておこうと思う」
鶴見中尉がジャケットの留め具を一つ一つ外し、両手で開いて前を広げる。昨日の妙な柄のベストが現れた。ついに、と心の中で呟き、私は膝の上で拳を握りしめた。
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一言で表すと、混沌、である。戦争の傷跡・刺青の囚人・アイヌの金塊、そしてその金塊を手に入れて北海道を独立させる。まるで作り話の世界みたいだ、と頭の中で呟いた後、その自分の言葉に驚愕し、気付いた。まさにそうだ、こんな話現代で聞いたことがない。教科書でもネットでも本でも、こんなことが本当に起こっていたならば後世に伝わっていたはずだ。『1869年、戊辰戦争は函館で終結し、新政府軍は日本列島の統一を果たした。』センター試験対策の参考書の一文はそれで終わっており、その後は大陸・半島・ロシア・西欧諸国との国際関係中心の話題になり、太平洋戦争開戦までは国内でそこまで大きな動乱などなかったはずだった。
「名前」
名前を呼ばれ、現実の世界に引き戻される。鶴見中尉が私を正面から見つめていた。
「君はこれを知っていたか」
頭の中を見透かされた気分だった。
「…いいえ」
「君の知る歴史ではないと」
意を決して口を開く。
「あなたが知りたい未来は、私が知っている過去ではないのかもしれません」
この発言は、私にとってこの時代で生き残る最後の切り札を投げ捨てたようなものだった。未来を知っているという事実だけが私の身の安全を保証する唯一の理由であって、更に彼らの機密に深く触れてしまった今、この大前提をひっくり返せば私の身に何が起こるかはある程度検討がついていた。
「君には利用価値が無いと、そう言っているのかね」
「その通りです」
伏せていた目を上げると、鶴見中尉はまだ私を見つめていた。
「何故それを今私に伝えた?このまま黙っていても分からぬものだろう」
「いずれ矛盾が出ます。その時にずっと裏切っていたと思われるくらいなら―」
「今殺されてもいいと?」
心臓が爆発したかのように強く打ち、途端に手が震えだす。浅く早く口から空気を出し入れするだけで精一杯で、目を瞑って小さく一度頷いた。やはり温情で見逃してくれるつもりはないようだ。生き残ったとしても、追放されてしまえば、どこかで体を売って食い繋いでいくくらいしかできないだろうが。
「私を、処分しますか。おじさま」
椅子の脚が板張りの床の上を滑る音がして、そのまま、ぎぃぎぃ、と床が鳴る音がこちらに近付いてくる。私は無謀にも、自分がどんな方法で殺されるのかを知って死にたいな、と馬鹿なことを考え、うっすら目を開けた。鶴見中尉が床に片膝を突いて私の側にしゃがんでいた。手袋を着けた右手が私に向かって伸びてくる。ああ、絞め殺されるのか、とあきらめて再び目を瞑った。さよなら、月島さん。
「目を開けなさい、名前」
優しい声音で言われ、手袋の感触が私の頬を覆った。
「誰が君を殺すものか」
恐る恐る目を開ける。鶴見中尉が私の頬を撫でながら宥めるように言う。
「早とちりをするな。君が知る過去が、この先の未来と違うのは想定内だ」
言っている意味が分からず、ぽかんとしたまま鶴見中尉を見返した。
「日露戦争を君は知っていたね」
「…はい、それは教科書にも載ってましたから」
「この時点で、君の知る過去は、今この時代から見た過去と一致している」
「…そう、ですね」
もちろんこの時代にはタイムトラベルなどのSF的発想はまだ存在しない。このような概念的推論を予備知識も無くやってのける鶴見中尉は相当頭がいいに違いない。私の方がついて行けなかった。
「君がここに来たことで、ここから先の未来が変化する可能性はないか」
バタフライ・エフェクト、という言葉が頭を過る。私が目を見開いたのを確認した鶴見中尉の眉間から、どろっとした透明の液体が垂れた。
「おっと」
「…大丈夫ですか」
内ポケットからハンカチを取り出していそいそと眉間あたりに押し当てるが、今回は中々止まらないらしく、ハンカチが吸い取れなかった水分が口元の方まで流れてきている。私は着物の胸元から自分のハンカチを取り出して、髭を拭いてあげる。
「お髭に垂れてますよ」
「すまんな。頭蓋骨と前頭葉の一部が損傷してるんだ」
ハンカチで液体を拭い取るように動かしていた私の手がピタリと止まる。え、一体何なんだ、この汁。
その時、こちらに向かってくる足音が廊下の方から聞こえ始める。先程月島さんが言っていた誰かが到着したのだろうか。ドアが力強くノックされ、室内の金属がビリビリ振動しそうなくらい大きな声がドアの向こうから発される。
「鶴見中尉殿!!鯉登、旭川より到着致しましたッ!!」
鶴見中尉は私の持つハンカチの下で、入れ、とくぐもった声を発した。ドアが開かれ、色黒の若い将校がこちらに向かって、ビシッ、と音がする勢いで敬礼をする。彼はまず私の前に跪いた鶴見中尉を見て口を半開きにした後、油の差さっていない機械のような動きで首を動かし、鶴見中尉の髭をハンカチで押さえる私を見た。私が、あの、と発した声に被せるように、月島ァ!!と彼は叫び、後ろに控えていた月島さんににじり寄った。
「聞いてないぞ月島ッ! 鶴見中尉殿はいつのまにご結婚されていたのだッ、何故言わなかった月島ァ!」
月島さんに耳打ちでそう言うが、ほぼ地声なので内容はこちらにも丸聞こえである。月島さんも眉間に皺を寄せてうるさそうにしている。
「おおい鯉登少尉」
鶴見中尉がハンカチを内ポケットにしまいながら立ち上がる。私、この自分のハンカチどうしたらいいんだろう。着物の中に戻したくないんだけど。
「勘違いするな、彼女は私の親戚の娘だ。紹介しよう、名前だ」
会釈でもした方がいいかと思い椅子から立ち上がると、隣で鶴見中尉が私にしか聞こえないくらいの小さな声で、上手くやりなさい、と囁いた。"上手く"というのが具体的にどういうことなのかが分からないが、とりあえず愛想良くしておけ、という意味なのだろう。作戦コード・ロイヤルファミリー、再発動である。
「お初にお目にかかります、鯉登少尉殿。わたくし、鶴見名前と申します」
着物の端を掴み、片膝を少し曲げてにこりと笑う。鯉登少尉の側まで近付き、少し背伸びをして両頬に付かないように軽く、ちゅっ、ちゅっ、と音だけを立てた。
英国の親愛のご挨拶です、と続けようとしたその瞬間、前触れもなく鯉登少尉の体がぐにゃりと胴を反らせるようにして床に崩れ落ちた。思わず、ヒッ、と声が漏れて二・三歩後ずさる。
人が急に倒れたというのに、二人は一歩も動かずに白目を向く鯉登少尉を距離を取ったまま見下ろしている。何が起こったというのだ。
倒れた鯉登少尉の口から小さく掠れた声で、めめんよか…、と聞こえた。なんだ、小さな声も出せるんじゃないか、この人。