Chapter 2: 春・小樽編
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「お嬢様」
優しく揺り起こされる。瞼を閉じていても分かるくらい部屋が明るい。薄目を開けると、視界の端にシヅさんが映った。
「…シヅさん、おはようございます」
むくりと起き上がって部屋の中をくるりと見渡した。月島さんは、まあ当たり前だが、もう居なかった。
「月島様なら、私が朝参りました時に入れ違いで帰られましたよ」
シヅさんは毎日六時に家に来る。私が眠る頃、少し辺りが明るくなってきていたから、おそらく五時半頃だったはずだ。月島さんはあれから三十分も傍に居てくれたらしい。以前家に来た時のように、もしかしたらうとうとしていたのかもしれない。
「月島様に、お嬢様を十時に起こすよう頼まれたんです。何かご予定がおありですか?」
深夜から明朝の出来事を頭の中で振り返る。一コマ一コマが静画で写真のように切り替わり、まるで五年前に起こったことのように感じるくらい現実味がない。あれ、どうして月島さんは私を十時に起こすよう言ったんだろう。記憶を辿るため、再び部屋の中を見回す。
「…あ、おじさまのコート。正午に届けに行かないといけないんです」
布団の横に置かれたままの鶴見中尉のコートが目に入った。そうだ、私はこれを病院まで届けないといけないんだった。布団をめくり立ち上がろうとすると、太ももからふくらはぎにかけて鈍いだるさが走った。昨日の雪道全力ダッシュが効いたらしい。おしりが布団の上に再着地する。
「お嬢様、昨晩は…怖かったでしょう」
自分の肩が無意識にぴくりと反応するのを感じた。あの担架に乗せられた遺体がフラッシュバックのように目の奥に一瞬映った。シヅさんが私の背を右手で優しく撫でてくれる。シヅさんの自宅は同じ町内だったし、朝月島さんから火事についての事情は聞いていたのだろう。
「…平気です。ちょっと髪が煙臭いけど」
笑って誤魔化すと、シヅさんが私の頭を両手で、わしり、と掴み、くんくんと匂いを嗅いだ。
「明日、シヅと一緒に銭湯に参りましょうね。今日のところは、念入りに梳かして香油を付けて差し上げますから、さあ起きて下さい!」
腕を引っ張り上げられ、鏡台の前に座らされる。三編みにしていた髪を解き、ゆっくりと丁寧に櫛が入れられる。
「お嬢様の御髪は本当におきれいですね」
「お手入れするのが好きなんです」
時たま頭皮に当たる唐櫛の感覚が心地良い。振り返らずに、そのままシヅさんに話しかけた。
「シヅさん、私のこと名前で呼んで下さいますか」
「あら、もちろんですとも。私には娘がいませんから、とっても嬉しいですわ」
名前さん、と楽しげに名前を呼ばれた。心が温まると同時に、"鶴見中尉の従姪"としての自分を再度強く自覚した。
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私の今日の髪は、シヅさん謹製"英吉利(いぎりす)結び"である。耳の高さで一つに束ねた髪を毛先まで三編みにし、それを根本からくるくる巻いて作るシニヨンだ。華やかでボリュームのある仕上がりに、さらに深紅の薔薇を模した花飾りの櫛まで差してある。娘さんのいないシヅさんは、いつか一人息子のお嫁さんの髪をこんな風に結ってあげることを夢見ていたそうだが、息子さんは旅順で戦死なさったそうだ。鶴見中尉の隊、だったそうだ。
家を出て、一人病院まで三十分程の比較的長い道のりを歩く。昨日焼けた兵舎がある通りを避けるために、少し遠回りするのだ。急な坂道を滑らないように気をつけて下っていると、坂の下の方から登って来た人力橇のお兄さんが私に声を掛けてきた。
「そこのお姉さん、乗って行かれますかい?」
現代であれば、それこそこの悪路を三十分も歩くくらいならタクシーを掴まえていただろう。しかし、今は鶴見中尉からお小遣いを頂いている身。
「いえ、結構です。手持ちが無いので…」
「お代なんていいんですよ!さあ、乗った乗った」
せっかくの親切を無下にするのも悪いし、さらに筋肉痛の脚を考えると、願ってもみない提案だった。それじゃあお言葉に甘えて、と橇に飛び乗った。
「お姉さん、この辺の人ですか?」
「あ、いえ、東京から」
行き先の病院名を伝えると、お兄さんはこの急な雪道の坂をまるで舗装された道を走るかのように駆け下り始めた。太ももとふくらはぎの筋肉がオリンピックのスケート選手のように張り出ている。
「へぇー!どおりで、都会的できれいな方だと思って声をかけたんですよ」
お兄さんは間髪を入れずに、お名前は、年齢は、結婚しているのかなどを矢継ぎ早に問立てた。
実は以前シヅさんに年齢を聞かれた時、特に何の腹積もりも無く正直に実年齢を答えたことがあったのだ。すると、シヅさんは数秒固まり、言い辛そうに私の両手を握り、大丈夫ですお嬢様のことですものきっとすぐ素敵な人が見つかります、と憐れみの視線を送られたのだった。恥じることなどなにもない、大卒で社会人歴数年目、大学卒業以来かれこれ彼氏がいないことを馬鹿にされたことはあれど、結婚していないことを責められたことは一度も無い私だったが、この明治の世、この年で未婚でいることは女性としてかなり負い目を感じるポイントであるらしかった。ただ、シヅさんはそう言った後、首をかしげながら私の頬を指先で突いて言った。
『それにしても、お嬢様のお肌はそのお年には見えませんね』
『あはは、大丈夫ですよ、そんなに傷付いてないですから…』
『いえ、シヅは本気で申し上げてるんですよ!二十一歳程でしょうかね、そうですよお嬢様、これから殿方の前では二十一歳で通すのです。わかりましたか?』
そのやりとりを思い出した私は、人力橇のお兄さんに笑顔で、二十一歳です、と伝えたのだった。なけなしのプライドにちょっと傷が付いた気がした。ただ肌年齢だけで言えば、現代の高機能スキンケアに甘やかされた私の肌は、きっとこの時代の同年代の人たちよりかは確かに整えられているのかもしれない。あ、そういえば夏になったら日焼け止めはどうしたらいいんだろうか。買い出しに帰れたら便利なんだけどな、なんて都合の良いことを考えた。
「へえ、まだ良い人はいないんですかい?」
「は、はい、最近まで英国に留学していたものでして」
へえー!とお兄さんは高い声を上げる。そのままノリの良いこのお兄さんとのお話は弾みに弾み、気付いた頃には病院まで着いてしまっていた。当初の予定より十分以上早い到着だった。お兄さんが私の手を取って橇から降りるのを手伝ってくれる。無事に地面に足を着け、お礼を述べようと顔を上げると、お兄さんは顔に貼り付けた笑みをそのままに、私の手を離そうとしなかった。
「ご親切にどうも…あの、手を」
「名前さん、お代は体で払って下さいよ」
「…は?あの、ふざけないで下さい」
「冗談ですよ、じゃああの頬に接吻するやつ、やって下さいよ」
お兄さんは指先で自分の頬を指差して、西洋では気軽にするんでしょう、とにやけた笑顔で言い放つ。じゃあお金払いますから、と強めの口調で言いかけた瞬間、坂のせいで道より高い所にある病院の入り口から、月島さんの大声が響いた。
「何をやっている!」
人力橇のお兄さんは飛び上がって私の手を離すと、二・三歩後ずさりした。
「その方が第七師団将校のご親族と知っての狼藉か!」
ひっ、と情けない声を漏らし、お兄さんは慌てて橇の引き手を抱え、坂を下りていった。軟派なやつめ。私はその尻尾を巻いて逃げていく後姿を見送ると、くるりと振り返って月島さんに手を振る。
「ありがとうございましたー!」
そんな私を見て、月島さんは目を細めてため息をついた。あのお兄さんはちょっと不愉快ではあったが、月島さんに"モテちゃって困るワタシ"を見せつけることができて、満更でもないのであった。
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月島さんの案内で、階段を登って二階に上がる。廊下突き当り一番奥の病室の扉を月島さんが開けると、肩越しにベッドサイドの椅子に腰掛ける鶴見中尉が目に入った。
「鶴見中尉殿、お連れしました」
「ご苦労」
こちらをちらりと見て鶴見中尉が応えた。私はベッドの上に寝そべったままの男の顔を見やった。フェイスラインから頭頂部にかけてをぐるぐる巻にするように包帯が巻かれたその顔を最初は認識できなかったが、数秒間見つめる内に、それが見知ったかたちであることに気付く。
「…尾形上等兵殿?」
そう言われてみれば、ここしばらく彼の姿を兵舎で見かける機会が無かった気がする。まさかこんな大怪我をして入院していたとは、普段の飄々とした姿から想像さえしていなかった。
「名前、良く休めたかい」
「はい、おじさま。あ、これ、昨日のコートです」
鶴見中尉の元に歩み寄りコートを手渡そうとすると、後ろのベッドに投げておくよう言われたので、パイプの部分に掛けておく。月島さんが、椅子をもう一脚隣の病室から運んできてくれたので、礼を言って鶴見中尉の隣に腰掛けた。横から鶴見中尉が私の英吉利結いと薔薇の飾りに指先で優しく触れ、洒落ているな、と褒めてくれた。ありがとうございます、と返す前に、さて、と話し始めたので、そのまま私は黙ることにした。
「二週間前に顎と腕を負傷した状態で、近郊の山中で発見された」
「…誰が、そんなことを」
「その後、玉井伍長を含む四名も付近へ捜索に出たきり帰ってきていない」
まだ熱が下がっていないのだろう、尾形上等兵は目を瞑ったまま浅く間隔の短い呼吸をしている。巻かれた包帯で分かりにくくはあるが、両顎やリンパのあたりがかなり腫れているようだ。こんな重篤な怪我を負った人を目の当たりにするのは生まれて初めてだった。あまりの痛々しさに目を逸らす。
「二階堂洋平一等卒を殺害した男と、同一犯である可能性が高い」
あの白い靴下がまた目の奥に映される。逸らした目をさらにギュッと瞑った。残像が消えたのを確認して、恐る恐る目を開ける。
「…それで、どうして兵隊を狙った殺人なんかが?」
「新しい兵舎に案内しよう。そこで詳しく話す」
鶴見中尉は椅子から立ち上がり、私の背を軽く二回叩いた。私は着いたばかりなのに、もう移動するらしい。最初から尾形上等兵が入院していることを伝えてもらっていれば、何かお見舞いの品でも持って来ることができたのに。病室から出て行こうとする鶴見中尉と月島さんを尻目に、私はこっそりベッドの側に寄ると、肩の下あたりまで下ろされていた尾形上等兵の掛け布団を首の方まで掛け直してあげた。この時代はまだ室内を満遍なく暖める暖房器具が無いので、病院内であろうと少し冷え込んでいる。ドアの外から、行きますよ、と月島さんの声が聞こえた。はい、と大きな声で返事をし、くるりと出口の方に向き直った時、おしりに何かが触れた気がして、もう一度尾形上等兵の方に向き直る。特に何かが動いた形跡も無く、尾形上等兵も眠ったままだった。