Chapter 2: 春・小樽編
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「えらく薄着だな」
「走って汗かきましたし、大丈夫です」
コートを羽織り襟巻きさえ着けてはいるものの、寝間着の下の素足に冷たい空気が入り込んでくる。燃え盛る兵舎の側にいるせいで走ってかいた汗もまだ引いていないが、もうしばらくすれば体がすぐに冷えてしまうだろう。私の肩に置かれたままの中尉の手が、肩と二の腕にかけて往復するようにさする。
「月島軍曹、名前を馬で送ってやれるか」
「はい」
鶴見中尉がそう指示し、月島さんは通り向こうに小走りで駆けて行く。向かう方向には、何人かの兵士が厩屋から避難させた馬数頭の手綱を引っ張って、炎におびえる馬をなんとかなだめようとしていた。
これから兵士たちはどうなるのだろうか。小樽の兵舎を失ったのだから、もしかしたら旭川に戻るつもりなのかもしれない。そうなったら、さすがに私は出入りすることができなくなるのだろう。暗い顔をして黙る私に気付いたのか、中尉が安心させるように告げる。
「そう心配するな」
「…これから、どうするんですか?」
「使えそうな物件の当てがある。ここより広いぞ」
「じゃあ、旭川には戻らないんですね」
「まだ"任務"は終わっていないからな」
月島さんが大人しくなった馬を一頭引いてこちらに向かって歩いてくる。中尉と私から少し離れた場所でまず馬を静止させ、馬の首側から左足を鐙に乗せてぐっと真上に飛び上がると、馬の背の上を大きく横切るように右足を向こう側にすばやく移動させてまたがり、騎座に腰を下ろした。すばらしい身のこなしに思わず、すごい、と小声で漏らしてしまった。
中尉に背中を押されて、月島さんと馬の方に近付く。それにしても近くで見る馬は巨大で重量感があり、騎座の高さは私の背ほどありそうだ。
「お、大きいですね」
「一人では乗れんだろうから足を担いでやろう」
実は馬で送ってもらえると聞いた時、私は時たま町で見かける『馬に乗った人とその馬の手綱を引いて横を歩く人』の図を頭に思い描いていた。先程月島さんがひらりと馬に飛び乗った時その姿にときめきながらも、内心なぜ月島さんが上に乗るか、と疑問に思ったりもした。しかしどうやら私も乗るらしいのだ―つまり月島さんとタンデム。
「小銃があるので前に乗って下さい」
月島さんは騎座の上で腰の位置を後方へずらして前にスペースを作った。確かに月島さんは歩兵銃を背負っているので、私が後ろに乗ると邪魔になりそうだ。まず、月島さんから背を馬の側面に付けて立つように指示される。言われた通りにくるりと振り返って馬の側ぎりぎりに立つと、さらに、両腕を挙げて下さい、と言われたので、訳が分からないながらも軽くばんざいする。すると、背後の高い位置に座っている月島さんが上体をこちら側に倒して左腕を伸ばしてきた。月島さんの左手が、私の左脇の下から前に回り込んできてそのまま右脇の下あたりをぎゅっと掴んだ。つまり、月島さんが私の胸の辺りを後ろから腕でホールドしている状態である。ちょっと、当たってるんですけど月島さん!
「手を下ろして腕を掴んでいて下さい。一二の三で引っ張り上げます」
鶴見中尉が私の足元にしゃがみ込み、私の右足を軽く二回叩いた。
「こちらの膝を軽く曲げなさい」
言われた通りに右足の膝を軽く曲げると、中尉の手が私の膝を上に向かって支えるように置かれる。
「三で、こっちの足で地面を蹴るんだ」
左足をペチリと叩かれた。背後で月島さんが、せーの、とカウントを始める。
「一、二の、三!」
三で胸に回された月島さんの腕が私をぐっと引っ張り上げ、鶴見中尉が私の右膝を押し上げた。同じタイミングで地面を左足で蹴って飛び上がる。流れるようにおしりが騎座の上に届き、浅く横座りした状態で止まった。
「わ、本当に乗れた」
人に支えられればこんなに高く飛び上がれるのかと感動していると、左右のバランスが崩れたのが不愉快だったのか、馬が居心地悪そうに足踏みした。不意打ちの振動にずり落ちそうになったが、胸に回されていた月島さんの腕がシートベルトになって、何とか落馬を免れた。思いっきり右のおっぱいを握られた気がするが、非常時なので恥ずかしさをぐっと堪える。
「早く跨がって下さい。落ちますよ」
月島さんにもたれ掛かり、馬の首を蹴らないように注意しながら脚をそっと開いて右足を移動させる。しかし、裾の長い寝巻きとコートのせいで上手く脚が開けない。腹筋をフル活用して中途半端に上げた右足の位置をキープしながら、背後の月島さんに助けを求める。
「こ、これ以上開きません…」
月島さんが今度は右腕を私の背後から伸ばし、脚が開くのを邪魔しているコートの裾を掴んで大胆に捲り上げ、寝巻きの合わせ目を横に広げるように生地を引っ張る。中途半端に掲げられた私の右ふとももが大きく露出した。
「ちょっ…月島さん!」
「いいからそのまま足を下ろしなさい」
やけに乱暴な同乗者に向かって声を上げるが、逆に叱られてしまった。馬をびっくりさせないようにゆっくりと、しかし急いで右足を反対側に下ろす。ようやくきちんと跨がることができたが、ふともも半ばから下が露出しきっている。現代的感覚でいえばそこまで恥ずかしくはないが、こちらの感覚ではおそらく破廉恥極まりないはずだ。なにより寒い。
なんとかコートの裾をもう少し下ろそうともがくが、あまり動かないで下さい、と背後からまた叱られた。すると鶴見中尉が自分のコートを脱いで私に手渡した。
「これを掛けなさい」
「…助かります」
素直に受け取り、腰から膝にかけてを隠すように掛ける。
「明日正午にそのコートを病院まで届けに来てくれるか」
「どちらの病院ですか?」
「前に通ったのを覚えてるか?あの坂道の所の」
「ああ、あの二階建ての大きな病院ですね」
鶴見中尉がこちらを見上げて、目を細めるようにして微笑んだ。
「よく休みなさい、名前」
「はい、おじさま」
月島さんが、では参ります、と言って馬の腹を蹴る。上下に揺れながら進み出した。
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あともう数十メートルで家に到着するが、月島さんは不自然に一言も喋らない。
「あの、やっぱり怒ってますか」
馬の蹄が雪を踏む音が等間隔で響く。ここしばらく私を避けるような素振りを見せている月島さんに思い切ってはっきり質問した。
「はい」
右耳元で返事が聞こえた。なにせ一人乗り用の騎座に無理やり大の大人が二人座っているので、私の上体後ろ半分と月島さんの前半分はぴったりくっついている。汗が引き始めた体は、今のところ月島さんからの熱で温度を保てている。
「わかってます。忠告、全部無視しちゃいましたから」
それ見たことか、と月島さんは思っているに違いない。兵士と関わり合いを持つべきじゃなかったことも、今日何があろうとも兵舎に来てはいけなかったことも、すべて月島さんは警告してくれていた。それを裏切って勝手に傷付いたような顔をしても、彼からすれば当然の結果だろう。
「それは別にいいんです」
意外な返事が返ってくる。どうやら月島さんが言わんとするところは、また別の部分にあるらしい。とっさに数週間分の記憶を辿るが、今兵士たちの顔を思い出そうとするとどうしても心が傷んで、続けることができなかった。
ちょうど自宅の前に到着し、月島さんが先に一人でひらりと馬から飛び降りる。そのまま手綱を玄関のひさしの柱に括り付けた。
「まず左足を鐙に乗せて、右足を後ろから周して降りて下さい」
まず鶴見中尉のコートを肩から羽織り、言われた通りに左足をペダルのような所に乗せ片足立ちの状態になり、右足をゆっくり後ろ向きに跨がせる。もう着物の裾を気にしてもいられないので、いくら足が見えようがバランスを取ることだけに集中した。うまく右足をこちら側に持ってくることができたが、自分がまだ十分高い位置で片足立ちしていることに気が付く。飛び降りることをためらっていると、月島さんが下からこちらに前にならえをするように腕を伸ばしてきた。
「受け止めるので、さっさと飛んで下さい」
やはり月島軍曹、かなりご立腹の様子である。ロマンティックなこのシチュエーションも今日の軍曹にかかれば只の荷物おろしだ。意を決して後ろ向きに飛び降りる。足が地面に着く直前でウエストから腰辺りを後ろから抱きしめるようにして受け止められ、ワンクッション置いてから地面に下ろされた。にやける顔を見られなくてよかった、とホッとした瞬間、急に神経が切れてしまったかのように、私の両膝が崩れ落ちる。驚いて、わっ、と声を上げる私に、離されようとしていた月島さんの腕が再度ウエストをぎゅっと締め付ける。
「どうしたんですか」
「なんか、脚が…どうしちゃったんだろう」
月島さんに支えられながらなんとか自力で立とうとするも、まるで脚がゴムになってしまったみたいに力が入らない。腰が抜けた、という表現が頭を過ぎったのは、十秒ほど経ってからだった。
「失礼」
月島さんが私を支えたまま少し腰を落としたかと思うと、両膝の裏に腕を入れて、私の両脚をぐっと持ち上げる。上体がひっくり返るような感覚に、ヒャッ、と情けない声を漏らすが、私の背中はもう片方の腕に支えられていた。どうやら私は今月島さんに横抱きにされているらしい。
「中に入りますよ」
困惑で黙る私に気を払う素振りも見せず、そのまま玄関の引き戸の前まで移動する。開けて下さい、と言って戸口の前で立ち止まる。言われた通りに体をよじらせて戸をスライドさせる。玄関の中に入り、くるりと体を回転させて同じように戸を閉めさせられる。玄関の一段上がったところに下ろされた頃にはようやく私も口が利けるようになっていたので、ありがとうございます、と小声で礼を言った。月島さんが私のすぐ横に腰掛け、ブーツを脱ごうと筒口に手を伸ばす。
「月島さん、ここで大丈夫です」
「どうやって部屋まで戻るおつもりですか」
「…這って行きます」
「やめなさい」
月島さんは私の静止を物ともせず、そのまませっせとブーツを脱いでいる。ぼーっとその仕草を眺めていると、あなたも脱いだらどうですか、とお声がかかり、ようやく自分もブーツを脱がないといけないことに気がつく。両足の編み紐を解ききったところで、そういえば靴下を履いていないことを思い出し、ピタリと手を止める。汗かいたし、臭かったらどうしよう、と血の気が引く思いがした。すると横から、手まで動かなくなったんですか、と月島さんの手が私のブーツに伸ばされる。靴底を掴むと、そのまま足から引き抜かれてしまった。やばいやめて嗅がないで月島さん!目を瞑って顔を反らした私に、月島さんが言った。
「あなたは…またそうやって足を冷やすようなことを」
あらわになった私の素足を、以前のように鷲掴みにした。私は上半身を飛び上がらせる。ちょっと湿ってるんだからやめて触らないで月島さん!
「…今日は大丈夫のようですね」
にぎにぎと私の足の温度を確かめながら呟いた。ようやく開放された私は、心労と動悸でぐったりしながら再び抱え上げられ、自室へと送り届けられた。
多少空が白み始めてきているのか、部屋はほの明るい。布団の上にゆっくり下ろされた。月島さんは部屋の端に歩兵銃を立て掛けた。まず羽織っただけの鶴見中尉のコートは軽く折りたたんで布団の横に置いておく。そして元々着ていた自分コートを脱ごうと前を開けると、中の寝間着は信じられない程乱れていて、慌ててコートの前を合わせ直した。月島さんが分かりやすくそっぽを向く。馬に乗った時はあれだけ乱暴に胸を触ったり着物を引っ張っておいて、今更何なんだ、という思いが過ぎった。
「…私はこれで失礼します」
「月島さん、待って」
バツが悪そうに踵を返そうとする月島さんを呼び止めた。私の中のもうひとりの私が、理性的な私を押し込めて喋っているような感覚だった。
「後ろを向いてていいから、ここにいて下さい」
月島さんがこちらに背を向けたまま障子の直ぐ側に腰を下ろした。そういう風に受け取っていいんですか。私はあえてゆっくりとコートを脱ぎ、乱れた寝間着の胸元や足元を時間を掛けて直し始める。布擦れの音が部屋に響く。月島さんは、振り向かない。
「もういいですよ」
月島さんが肩越しにこちらをそっと確認し、きちんと着直された私の寝間着を見てからこちらに向き直った。もし、私が寝間着を脱ぎ去って、そう声を掛けていたら、あなたはどうしていましたか。腰が抜けて抵抗できない私を、あなたはどんな風に。
「どうして怒っているのか、聞かせてくれませんか」
月島さんは居心地悪そうに一度咳払いをして、少し考えた後、一言一言区切るように答えた。
「警告だけで、満足していた自分に、怒っています」
意外な答えが返ってきたものだ、と私は心の中で驚き、そして歓びが溢れてくるのを感じた。この人は、私が傷付いたことに傷付いてくれているのだ。
「月島さん、こっちに来て下さい」
月島さんは畳から立ち上がるため片膝を突いたところで、迷ったように一度動きを止めた。私はもう一度、月島さん、と彼を呼んだ。月島さんは立ち上がり、布団の側まで来ると、私を見下ろした。
「傍に座って下さいな」
月島さんを見上げ、にこりと微笑む。月島さんが布団の直ぐ側に腰を下ろした。軍帽のつばで影になった目元から表情があまり読み取れないが、私の言うことを聞いてくれて、そして傍に居てくれている、それだけで私の胸はいっぱいだった。でもそれは、少し嘘、本当にして欲しかったことは口に出せない。
私はゆっくり月島さんの方に体をねじり、肩に左手を置いて、その左頬に口付けた。唇の触れる"情愛"のキス。月島さんなら反応して避けれたはずなのに、そのまま動かずにいてくれたことが本当に嬉しかった。
「英国風の、"親愛"のご挨拶ですよ」
月島さんの左手が、彼の肩に置かれた私の手に重ねられる。月島さんは、私を見ていた。こんなに近い距離で月島さんの目を見るのは初めてだった。他の人よりほんの少し明るいブラウンに、どことなくカーキのような緑を感じる。そのきれいな瞳は、私を見ていますか。そして映る私が涙を流していることに、あなたは気付いていますか。
「泣くな」
月島さんはぶっきらぼうに親指で私の下瞼を拭った。この何もかも不安定な世で、あなたを愛し始めること程、美しく、悲しいことなんてないんです。
「私が眠るまで、手を握っていて下さい」
私は上体を布団の上に倒して頭を枕に乗せた。月島さんが掛け布団を掛けてくれる。隙間から左手を出すと、彼が無言で手を乗せた。
「おやすみなさい、月島さん」
「おやすみ、名前」