Chapter 2: 春・小樽編
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そろばんの音、鉛筆が紙を擦る音、そして鶴見中尉が新聞をめくる音。今日も兵舎にあまり人は残っていないが、最近にしてはめずらしく中尉が部屋でゆっくりしている。
昨日からまとめている先月分の出納帳がもう仕上がりそうだ。借方1,502円63銭、貸方1,502円63銭、バッチリだ。パタンと帳簿の表紙を閉じ、立ち上がって鶴見中尉に手渡す。
「ご確認下さい」
「助かるよ」
小隊単位の会計を預かる三等計手が行なっているのは表向きの記帳で、私が任されているのは鶴見中尉が師団本部には知られたくない個人的な出納のごく一部の大まかな管理だ。
中尉は私が先ほど仕上げたばかりの月末試算表の項目を上から順に指で辿りながら確認し、最後の一行あたりを指先で、トントン、と叩いた。
「名前、いつもの団子を買ってきてくれないか」
ぬるくなったお茶をすする私に中尉が尋ねる。
「花園公園ですか?」
「そうだ。一人で行けるか?」
「もちろんです」
昨日からほぼずっと座りっぱなしだったので、ちょうど少し体を動かしたい所だった。コートと襟巻きを着け、巾着を左腕に掛ける。
「おじさま、お醤油五本でいいんですよね?」
ドアの前でそう確認すると、鶴見中尉は新聞から顔を上げ、自然な笑みを浮かべてこちらを見る。
「ああ。気を付けて行っておいで」
———
「お醤油のお団子、五本下さいな」
「はいよ」
ようやく私にも信用がついてきたのか、ここ最近は一人でのおつかいを頼まれるようになってきた。
小銭で先に支払いを済ませる。お店のおじさんは湯気の立つせいろの中から串団子を取り出して、手の平で支えた竹皮の上に置き、慣れた手付きでとろりとしたみたらしの餡をたっぷり掛ける。うっとりした私の目付きに気付いたおじさんは苦笑しながら言った。
「姉ちゃん、今こっから一本取って食べるかい?」
「いえ、これはおつかいなんです」
悔しげに首を振って答える。
「じゃあ一本奢るよ」
「いいんですか!」
五本入りの包みを受け取って巾着の中にしまうと、おじさんが差し出すおまけの串団子に手を伸ばす。
「本当にありがとうございます」
「オレべっぴんさんには弱いのよ。また来てな」
軽く頭を下げて露店を後にする。どこかに腰掛けて食べて行こうかと周りを見渡すが、今日は天気がいいためベンチの上は溶けた雪で湿っている。お行儀が悪いのは百も承知だが、食べながら歩いて帰ろう。餡を服に落とさないように小さく齧り取りながら歩みを進める。
人通りが多い道は雪がすでに踏み固められて歩きやすいが、今日のような暖かい日は表面が溶けてとても滑りやすい。先週派手に転んで右肘にできた大きな青痣はまだ消えていない。一歩一歩に集中して進んで来たため、兵舎の近くに到着する頃になっても、串には少し固くなった団子があと一粒残っていた。
兵舎の敷地に入る前に食べ切ってしまおうと、立ち止まって団子に齧り付き串から引き抜いた。もぐもぐと咀嚼していると、兵舎の敷地の門から月島さんが小走りで飛び出てきた。まさか私がすぐそこに居るとは思っていなかったようで、少し面食らった顔をして立ち止まった。私は秒で左手を口元に、裸になった串を持つ右手を背中に隠した。
「よかった、ちょうど戻ってきましたか」
どうやら私を探してくれていたらしい。返事をしたいが、固くなったお団子が口の中でまだボソボソしていてなかなか飲み込めない。左手で口を覆っているものの、もぐもぐと動く頬は隠しようがない。月島さんも私の口に何か入っていることに気付いたようで、そのまま聞いて下さい、と話し始めた。こくこく、と頷く。
「今日はこのまま自宅に戻って、そのまま指示があるまで自宅で待機していて下さい。くれぐれも兵舎には近付かないように」
ようやく口の中の団子を飲み込み終えた。それにしても急な話だが、幸いにもおつかいに出る時に必要な私物は持って来ているので、このまま家に帰っても問題は無さそうだ。また誰か偉い人でも来るのだろうか。
「では、これをおじさま…じゃなくて、鶴見中尉殿に渡しして下さいます?」
巾着の中からお団子の包を取り出して月島さんに手渡した。かなり急いでいるようなので、これ以上邪魔しないように早く退散したほうが良さそうだ。それでは、と言って会釈をすると、月島さんが、ちょっと、と私を呼び止めた。
「ここ」
月島さんが自分の口の横辺りを人差し指で指し示す。
「ついてますよ、餡が」
叩く勢いで口元を触ると、唇の左端にぬるっとした感覚があった。最悪だ。月島さんはそれ以上何も言わず兵舎の方へ戻って行った。なんだか最近、月島さんは私にそっけない。
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視線をテレビに戻すと、中継の映像がスタジオに戻り、テーブルの上に行儀良く両手を置いた女性アナウンサーが次のニュースを読み上げ始めた。このアナウンサーのメイクやヘアスタイルが、少し時代遅れのものであることに気が付く。
急に誰かの気配を感じて、部屋の反対側を見やる。ドアのすぐ横には固定電話が乗った台があり、そのすぐ前でこちらに背を向けた子供が誰かと電話していた。うん、わかった、すぐ行くね、とその子供は言って受話器を置く。子供がこちらに振り返る。五歳離れた私の兄だった。小学生くらいに見える兄は私に向かって、コウくんち行ってくるからおとなしくしとけよ、と告げた。
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夢の途中で目が覚めた。兄ちゃん、元気かな。布団の端をぎゅっと握りしめる。今夜は月が出ていて、縁側の廊下に面した障子から漏れる光で部屋の中はぼんやりと明るかった。再び眠りにつこうと目を閉じた時、遠くから早いペースで繰り返される鐘の音が鳴り響いた。何事かと布団から飛び起き、障子を開けて縁側の窓を見るが、こちら側は特にいつもと変わりない。部屋に戻って掛けてあったコートを寝間着の上に羽織ると、小走りで玄関に向かう。
草履をつっかけて外に飛び出す。北の方角の空が煌々とオレンジに光り、煙が立ち上っていた。きつい煙の匂いがここまで漂ってきているので、かなり近所のはずだ。延焼したりしないだろうかと不安になり、いざとなれば直ぐに避難できるよう荷物をまとめておくことにした。家の中に戻って引き戸を閉じる。ふと、玄関に鶴見中尉のブーツがないことに気が付いた。その瞬間、脳内のシナプスが勢いよく繋がり出す。北の方角・煙が上がっているのは兵舎の方だ。草履を乱暴に脱ぎ捨てて廊下を走り抜ける。一番奥の角部屋・鶴見中尉の自室の障子を音を立てて開け放つ。シヅさんが出て行く前に用意した布団はきちんと整えられたまま、手付かずの状態で畳の上に横たわっていた。
「帰ってきてない…」
開け放った障子はそのままにして玄関へ駆け戻り、今度はブーツを履いて家を飛び出した。
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雪に足を取られながら通い慣れた道を走る。兵舎に近付くほどに、道には周辺の民家から人が出てきており、煙が上がる方向を不安そうに眺めている。爆発音が響き、人々が一斉に声を上げる。私が走り抜けた後方から、おい姉ちゃん近付かんほうがいいぞ!と声がかかったが、無視して先に進む。
曲がり角を越え兵舎に面した大通りまで来ると、兵士たちが炎上する兵舎を見上げていた。限界になった足を止め、下を向いて膝に手を突き、肩で息をする私に気付いた何名かがこちらに駆けてくる。危ないので近付かないで下さい、と声を掛けられるが、言われなくてももう足が動かない。
「ここはいい、下がれ」
月島さんの声が聞こえた。兵士たちの軍靴が視界から出て行き、代わりに一組のブーツが私の正面に立つ。
「近付くなと言ったでしょう」
丸まって上下する私の背を月島さんの手がさする。少し呼吸が落ち着いたので上体を上げる。
「みなさん、無事、ですか」
月島さんは答えない。
「月島さん、みなさんは、無事なんです、か」
火の手が回り煙が充満する敷地内から、二人の兵士が担架を持って飛び出てくる。数人の兵士が駆け付け、建物から一刻も早く離れるよう担架を支えてて走る。火の粉が届かない場所まで来ると地面に担架が下される。担架の上に乗せられた体には、頭から膝下まで覆い隠すように煤で汚れた布が被さられており、はみ出した足は白い靴下を履いたままぴくりとも動かなかった。まるで目の中に接着剤を流し込まれたように、視線が釘付けになったまま動かせなかった。
「名前」
気付いた時には、鶴見中尉がすぐ隣に立っていた。
「鶴見中尉殿…ご無事で安心しました」
私の声は震えていた。鶴見中尉のコートとジャケットの前ボタンはすべて外されており、その下に妙な模様のベストを着込んでいる。中尉は私の両肩を掴むと私の体を正面に向けさせた。黒い二つの目が私をじっと見つめる。
「二階堂洋平一等卒が殺された」
じわりと視界が揺らぐ。あの煤だらけの布切れの下にいるのが、あの日私にふざけてみかんを投げて寄越した彼だとは到底信じられなかった。生きている人が、昨日話した人が、今日死ぬ。月島さんは正しかった。兵士と深く関わらない方がよかったんだ。彼らは、あの白黒映像の、あの歴史の教科書の、あの戦争をする兵隊なのだ。彼らは死んでしまうのだ。二階堂洋平一等卒も、鶴見中尉も、そして月島軍曹も。
「死なないで下さい」
収まりきれなくなった涙が下瞼を超えて頬へ流れ出た。鶴見中尉の両手が掴んだ私の両肩を、彼の体の方へと引き寄せる。肩から外されたその両手が私の背中に回される。
「君が私達を生かすんだ」
耳元で鶴見中尉が呟いた。中尉のコートの襟のファーが私の濡れた頬にくっ付く。中尉の胸元に左手を当て、人差し指の腹でベストの感触を確かめる。おぞましいほど慣れ親しんだその皮膚の感触に、あの冷たい感覚が背筋に走るのを私は期待していた。警告してくれ。愚かに懐柔された私に、警告してくれ。
手袋越しの中尉の手の平が私の背中をさするように温める。私は、占いは信じないタイプだ。でも、この人たちに幸運をもたらしたいと、そう私が決めたのだ。
「…鶴見中尉殿、襟に鼻水つけちゃいました」
「”おじさま”と呼びなさい、名前」