Chapter 2: 春・小樽編
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ぱちぱち、と小気味の良いそろばんを弾く音が部屋に響く。中学に上がるまでずっと教室に通い続けて習っていたそろばんだが、それ以降一度も使うことはなかったし、使う日がくることになるなどと想像すらしていなかった。現代で主流のものと違い、ここで使うのは五の珠が一つ、一の珠が五つある古いタイプのそろばんだ。誰に見られるわけでも注意されるわけでもないので、一番下の一の珠は無視して使っているが、本当はどんな風に使うのか気になるところではある。
鉛筆で小計を帳簿に書き込み、またそろばんに戻り、を繰り返す。多数ある項目の半分を埋めたあたりで鉛筆の先が丸くなり、数字の鮮明さが失われてきた。机の端に置かれているペン立て代わりの湯呑みから折り畳みの小型ナイフを抜き取り、メモ代わりに使っていた藁半紙の上で鉛筆の先を削る。先に木軸の部分を厚めに削って角度を付け、最後に芯の先を丁寧に尖らせる。現代のくるくる回す鉛筆削りしか使ったことのなかった私に、鶴見中尉が教えてくれた方法だ。
稀にふと、あの日この部屋で鶴見中尉と対峙し経験した生物としての本能的な恐怖について思い返すことがある。その恐怖心自体は鮮明に思い出すことができるのに、あの日からしばらくの間中尉を目にする度に背筋に走っていた冷たい感覚をもはや思い出せないことに気付いたのは、ごく最近だ。その冷たい感覚は、恐らくその恐怖心と鶴見中尉という存在をリンクさせる警報のような役割だったんじゃないか、と推論する。雪解けと呼ぶべきか、懐柔と呼ぶべきか。私が持つ現代を基点とした歴史や科学の知識を彼が利用しようとしているのは明らかだ。だからこそ、私は私が怖い。私がここで彼らの役に立てるならば、それならば、と日に日に強く思い始めている私が、怖い。
それにしても、最近、兵舎はやけに静かだ。日が出ている間は、当直明けで非番の兵士と見張りの兵士以外全員毎日外に出ている。ここ二週間程、鶴見中尉は週の半分も自宅に帰って来ていない。朝夕と、兵舎と自宅の行き来は鶴見中尉と一緒、もしくはお供という体の見張りの兵士をつけられていたのだが、それも先週頃からもはや有耶無耶になってきている。
そもそもこの兵舎も本来は兵士の寝泊まり専用に、元々商店だった建物を借り上げているだけらしい。というのも、第七師団の本部は旭川にあるそうで、任務のために鶴見中尉が自分の隊を引き連れて小樽に出張しに来ている、という状態だそうだ。先日中尉本人が、最近その任務に大きな進展があったのだと話してくれた。どのような任務かについては聞くことができなかったが。それまでは訓練場や士官用のオフィスがここには無いのが不思議だったが、それを聞いて合点がいった。ということは鶴見中尉のあの自宅も、おそらく仮住まいなのだろう。
椅子に座ったまま両腕を上げ、ぐっ、と背筋を伸ばす。空腹を覚えて壁掛け時計を確認すると、すでに12時を過ぎていた。朝シヅさんにこさえて貰ったおにぎりがあるのだ。
わくわくしながらお茶を淹れようと立ち上がると、何やら一階が騒がしいことに気が付く。誰かの怒鳴り声が聞こえ、慌ただしい足音が階段を上がってこちらに向かってくる。誰かが廊下で、おらんのか鶴見!と大声を出し、ノックも無しに部屋のドアが乱暴に開け放たれる。のしのしと我が物顔で部屋に侵入してきたのは、鶴見中尉と同じ軍服を着た、面倒くさそうな髭の男だった。
「月島!なんだこの女は!」
「和田大尉殿、こちら鶴見中尉のご親戚であります」
廊下で月島さんがハキハキと返す。
「鶴見め…小樽で何をこそこそやっているかと思えば、若い女なんぞを出入りさせてどういうつもりだ!?」
男はこちらに近付きながら、私に唾を飛ばす勢いで高圧的に怒鳴りつける。直立不動のまま動けず、廊下の月島さんに助けを乞う目線を必死で送るが、月島さんは何も言わずに首を左右に振った。それどういう意味ですか。死ねってことですか。
「この小娘を今すぐつまみ出せ!月島!」
この高圧的な男にお帰り頂くにはどうしたらいいのか。何か策が必要だ。ここで私は、会社の後輩の内の一人である、通称・オジサン転がしのエミリが去年の忘年会で見せたあのテクニックをなんとか思い出そうとする。
『部長ぉ知ってますー?最近はぁ、こうやってハート作るんですよぉ。ほらやってやってー!すごーい部長かわいー!一緒にセルフィー撮りませんかぁー?エミリそっちに行きますからぁ。…あー!ちょっと触っちゃだめですぅーもぉー部長ったらぁ。』
ちなみに、この後エミリは、新年早々証拠写真をコンプライアンスに提出し部長を早期退職に追いやったのは、また別のお話。
月島さんは圧倒的タテ社会の都合で今回は戦力外だ。どっちみち口で言っても効かなさそうな男なので、頭を撃ち抜くくらいでしか黙らせそうにないが。今回は私が月島さんを助けるターンのようだ。意を決して私はにっこりと笑みを作った。作戦コード・ロイヤルファミリー、開始である。
「わたくし、鶴見の従姪の名前と申します。お初にお目にかかります、和田大尉殿」
ロイヤルファミリーがよくやる、あのスカートの横を両手で少しつまみ、片足を曲げるあれををやる。男に何も言わせないよう、間髪を入れずに続ける。
「先日英国から戻ったばかりでして、今日は従叔父に挨拶に参りましただけなんですけど…こんな素敵な殿方に会えるなんて、私は本当に幸運ですわ」
もじもじしながら、わざとらしく和田大尉を見上げる。眉間にシワを寄せてうっすら目を見開き、そのまま黙っている。これは効いてるみたいだ。
極め付けに、和田大尉の至近距離まで近付き、軽く背伸びをして両肩に手を乗せると、ロイヤルファミリーがよくやる、あの唇は付けず音だけで両頬にキスをするあれを実践した。耳元で、英国風の親愛のご挨拶です、と囁く。大尉の肩が一瞬硬直したのが分かった。手応え、アリ。
手を離して一歩下がる。和田大尉は一度では飽き足らず五度程咳払いをした後、それ以上は何も言わず踵を返し、ドアを開けっ放しにしたまま廊下に出て行った。その背中に笑み送り、両手の中指を立てる。月島さんがその意味を理解していたかどうかは定かでないが、無表情のまま数秒私を見つめた。部屋から遠のいていく和田大尉が、月島!鶴見のところへ案内しろ!と怒鳴る。かしこまりました、と返事をして、月島さんも去っていった。
———
「撃て」
「はい!」
和田大尉の軍帽が吹っ飛ぶ。歩兵銃を下げ、うつ伏せに倒れた和田大尉の体を見下ろした。鶴見中尉の命令で、兵士達が死体から服を剥ぎ取っていく。
少し離れた場所で鶴見中尉を呼び、昼に兵舎で和田大尉と名字名前が接触していたことを念のため伝える。
「ほう。彼女はなんと?」
「鶴見名前ーあなたの従姪だと名乗り、"英国風の親愛の挨拶"とやらをしておりました」
「なるほど、面白い」
鶴見中尉が手袋を着けた指で顎髭を撫でた。
「彼女はすでに鶴見名前という役を無意識に受け入れ、その人物像に求められる行動を理解し、実践している。私達を仲間と認識し始めている、ということだ」
兵舎で兵士達と共に過ごした時間、鶴見中尉との家族ごっこ、そして仕向けられた俺への”感情”。すべてが彼女を金塊争奪戦の盤上へと抱え上げるためのお膳立てである。近い内に鶴見中尉は次の一手で彼女の”傷をえぐりにいく”。その瞬間に自分が立ち会うことになるであろうことを、今は考えたくなかった。