Chapter 1: 導入編
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「今年の新卒にすっごい背の高い男の子がいてさ」
金曜の夜は本音の時間。月イチで集まる大学時代の女友達と、新宿の焼き鳥屋でさらけ出す、色々溜まった女子達の心の化粧ポーチ。真っ黒でボサボサになったけど未だに使ってる綿棒とか、プリントが剥げきってどこのか分からないマスカラだとか、そういう類のモノ。どんなに素敵なメイクでいる人でも、そういうモノって入ってるものでしょう。
「すらっとしてて細くて、モデルみたいなの」
「うわ、いいなー、目の保養じゃん」
「ありがたやありがたや」
ビールジョッキ片手にしんみりと相づちを打つ。
「でも名前は、ムキムキにしか興味ないんでしょ」
「うん。Tシャツの袖に隙間ができないくらいの二の腕じゃないとダメ」
私の真剣な発言にどっと笑いが起きる。寡黙でムキムキだっけ?うける〜!と左隣の婚約者持ちが私の肩を叩く。押し黙る私を無視して、女子達は新しい話題に食い付いた。
「警察官とか自衛官とか、まあイイ体してるよね」
「脳科学的に、人は制服を着た人に好感を抱きやすいらしいんだって」
「え、ちょっと待って、サークルにいたくない?警察学校入るって言ってた人」
「倉持でしょ、あたしライン知ってるから合コン誘ってみてあげようか?」
みんなの視線が私に集まる。そんなきらきらした目をしたみんなには悪いが、私を大義名分にしてお膳立てしておきつつ、自分たちも美味しい所があればもちろんいただきますなコンパなんて、大層居心地が悪そうなのでお断りだ。
「そもそもコンパに来るような人じゃヤダ」
笑いの二波目が起きた。こっちは真剣なのに。
「そんな選り好みしないの。大学時代、結構名前のこと紹介してって頼まれたことあったんだから」
「倉持もあたしにそれ言ってきたことあったんだよ実は」
「ひゃー!ちょっと待ってそれ、今回芽生える系じゃない?」
「ちょっと待って、まずは名前のタイプの顔を聞こうじゃないの」
仕切り担当の子が、もう今すぐ倉持に連絡していい?と騒ぐ子を制止しながら私に尋ねる。
「んー…ギバちゃんとか」
第三波。また肩をバシバシ叩かれながら、左手首に着けたブレスレットを撫でた。そんな笑うことないじゃん、好きなんだもん、ギバちゃん。
−−−−−
また新しい週が始まり、未だに週末モードの頭は働かなければいけない体とうまく連動していない。お昼休みにコンビニで支払いをしている途中、ブレスレットがジャケットのボタンに引っかかって、留め具が壊れてしまった。古いこのブレスレットは、亡くなった母方の祖母がまだ北海道に住んでいた頃、祖母の家で見つけてからこっそり私が自宅に持ち帰ったものだったと記憶しているが、あまり詳しく覚えていない。本物かは分からないが、エメラルドの石と華奢なゴールドのチェーンのアンティーク風のそれは、幼い私の心を捉えたらしい。祖母が亡くなった折に、その幼い過ちを母に告白したのだが、母はそのブレスレットについて何も知らないようで、祖母が着けているのも見たことがないそうだった。
駅中にジュエリーショップがあったはずだから、帰り道に持って行こう。お財布と電話しか持ってきていないので、とりあえず失くさないように右ポケットへ滑り入れた。
オフィスに戻り席に着いた瞬間、つかつかと歩み寄ってきた主任が、積み上がった分厚いA4ファイルの束を私のデスクの上に音を立てて置いた。
「名字さん悪いね。これ、六階の資料室に戻しておいてくれない?」
朝イチで来ていた本部からの監査がようやく帰ったそうで、時代遅れの紙資料をあるだけ持ってこさせた挙げ句、ペラペラと数枚めくって、もういいよと下げさせたらしい。プラスチックのタグがついた資料室の鍵を受け取って右ポケットにしまい、気合を入れて立ち上がった。
五キロは軽く超えるであろうファイル五冊を抱えてエレベーターで資料室がある六階へ。このフロアには資料室とサーバールーム以外しかないので、人通りはほとんどない。
資料室のドアの前で、重いファイルを左腕だけで抱えバランスをとりながら、右手でポケットをまさぐり鍵を探す。キーホルダーの端っこを掴み、少し乱暴にポケットから引き抜くと、すっかり忘れていたブレスレットが鍵に引っかかって引きずり出され、そのまま床に落ちた。
つるつるとした床の上をブレスレットは少し滑り、目の前のドアと床の隙間に半分ほど入ったところで止まった。慌てて拾い上げようとしゃがむと、まあ予想通り、左腕からファイルがばさばさと床に落ちた。結局ドアの鍵を開けないといけないので、床に散乱したファイルはそのままに、ため息混じりにブレスレットを拾おうと手を伸ばす。
ところが、私の指がブレスレットに届く直前、するりと隙間の奥に吸い込まれていった。鍵のかかった、ほとんど誰も来ない資料室の中に。中に誰かいるのか、でも鍵は今自分が持っている一つしかないはずなのに。
動揺しながらも、とりあえずドアを開けて確認するしかないので、鍵を差し込み半回転させると、ガチャリと鍵が開く音がした。やはり鍵はかかっていたんだ。じゃあ、一体何がブレスレットを?心霊現象的な方向に持って行こうとする思考を無理やり切り替えて、何かの偶然で悪意なき誰かが中に居るだけなんだ、大丈夫、と鍵を引き抜こうとした直前、ドアノブがガチャリとひとりでに動く。そして私がそれに反応する間もなく、ドアが素早く内側に開かれる。
そこにいたのは、警察か軍隊のような制服を着た目付きの鋭い男だった。目と目が合う。男は一瞬目を少し見開いて驚いた風にも見えたが、すぐに元の警戒心が滲み出る表情に返った。風貌的に男は明らかにウチの社員じゃない。そしてあの胸板の厚さー違う、話が逸れた。まさか警察のガサ入れ?でも待って、何だろう、この感覚、胸の中で気道を鷲掴みにされた様に、呼吸が苦しくなる。ジャケットの上からでも分かる、二の腕の太さ。これってもしかして、と自問すると、あの日のあの子が言った言葉が蘇る。
『ひゃー!ちょっと待ってそれ、今回芽生える系じゃない?』
ちょっと待ってほしいのはこっち!だ。心の声と勝手に始まるフワフワした感覚と闘うため、目を合わせたまま百面相していると、男はその鋭い目付きのまま、ここで何をしている、と冷静かつ威圧的な口調で言った。え、その、あの、と口籠る私に被せるように、どこから入った、と男は続ける。ここまで面と向かって誰かから敵意を向けられたことは生まれて初めてで、かつその相手が成人男性という恐怖、しかしこの魅力的な胸板の持ち主はこの人で、我ながら複雑すぎる。上手く声が出せない。耐えきれなくなって目線を左下にずらすと、男の右手に私が先ほど落としたブレスレットが握られているのが視界に入った。どうやら、この男が部屋の内側から拾ったんだ、と現実逃避なのか妙に冷静な思考でひとりで合点した。答えろ!とピシャリと男が短く声を荒げたので、反射的に肩がびくりと跳ね上がった。
すると、部屋の奥から違う男の声が聞こえた。やめないか月島軍曹、お嬢さんが怖がっているじゃあないか。前に仁王立ちしている男の右肩の奥に、円卓に肩肘を突いてこちらを見る髭のある男性が見える。あの頭に着けている白いものは何だろう?マスク、はどちらかというと顔下半分を隠すものなような気がするし。天井から円卓の上に吊るされた古びたランプの灯りが、その辺りだけを薄明るく照らしている。左手に見える窓の外は真っ暗だった。
今は昼休憩直後のはず。第一ここ資料室のはずでしょう。一歩下がり、ドアの左上方に目をやる。このビルの中の全室はドアの左上方に何の部屋かを示すプラカードが付いているのだ。そこには『資料室』の表示があるはずだった。なければいけなかった。
気づけば廊下の風景は全く様変わりしており、床・壁・ドアすべて木造で、あまり明るくない電灯がぽつぽつと寒そうな廊下を照らしていた。今し方開かれたばかりの資料室のドアも、いつの間にか木の物に変わってしまっている。廊下にぶちまけたはずのファイルも、鍵穴に刺しっぱなしになってる鍵も忽然と消えていた。
驚愕、といった様相で無言のまま周囲を見渡す私を怪訝な表情で見つめる目の前の男は、少しためらいながらも、おい、どうした?と再び私に問いかけた。
私は夢でも見ているんだろうか。
−−−−−
懐から取り出した懐中時計を見て、もうこんな時間か、と鶴見中尉が仰ったので、馬車の準備をさせます、と椅子から立ち上がり、扉の方へ踵を返したその時だった。扉の向こうで何か軽いものが落ちる音がして、紐のような物の先端が扉と床の隙間からこちらに滑り込んできた。
扉の前でしゃがみ込み、その妙な物を拾い上げる。四寸程の長さの、金の鎖に緑の石がついた何か、装飾品のようだ。見るに舶来の物のようだが、一体誰が落としたのだろうか。
鶴見中尉が、どうした月島軍曹、と背後から声をかける。いえ、廊下で誰かが、と言いながら立ち上がって、扉を引っ張った。勿論ここは兵舎、さらに今は夜で、外部の人間が出入りする時間帯ではない。兵士の誰かが恋人にでも贈ろうとしていたこれを偶然扉の前で落としでもした、くらいしか考えられる筋書きがないため、扉の向こうに居る落とし主は"どの"兵士か、としか考えていなかった。
まさか、全く見知らぬ、しかも若い女がそこに居るとは寸分も考えていなかった。扉の取手に手を伸ばそうとしていたであろう女の手が反射的に引っ込められたあと、女はこちらを見る。何か言いたげに口を動かそうとする仕草が見られるが、言葉が出ないようだ。まるで、この部屋に誰かがいるとは微塵も予測していなかったかのように。
色んな可能性を考えてみる。兵士の親族であれど、関係者以外の兵舎への立ち入りは禁じられている。何より表の見張りが止めるはずである。関係者で考えられるのは、まれに出入りがある商店などの使いの者だが、時間が時間であるし、そもそも抑圧された男どもが共同生活を送るこの兵舎への使いとして、どんな店でも若い女は選びたがらない。
そこまで考えた所で、ようやくその女の妙な出で立ちに気がつく。男物のような背広と洋袴を着ているのだ。しかし男装という訳ではないのか、女は束髪で紅を着けている。では一体、どういう訳なのだ?
ここで何をしている。端的に尋ねてみる。女はもごもごと、あの、その、などと言い訳を考えているような素振りを見せ出した。怪しい。どこから入った、と続けると、女の目はついに泳ぎ出す。やはり怪しい。答えろ、とさらに続けると、女は目をギュッと瞑り、萎縮していた。
やめないか月島軍曹、お嬢さんが怖がっているじゃあないか。後ろから鶴見中尉が茶々を入れる。面白がっている表情が目に浮かぶため、あえて振り返りはしないが。女は、部屋の中の中尉の存在に今気付いたようで、ぼんやりと中尉を見やり、部屋の中をぐるりと見渡した後、急に焦ったように廊下や扉など周囲をきょろきょろと見回した。よくわからないが、何やら顔色が悪くなっている。まさか、脳に問題があるのか?遠慮がちに大丈夫かと声をかけると、まさに困惑、と表情が物語っていた。縋るような目付きが妙に心を揺さぶる。こう、捨てられた子犬を見る時の様な。いかんいかん。
女は震えた声で、絞り出す様に呟いた。
「ここ、どこですか?」
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