第3章
――…聞こえてくるサイレンを背に、ブラックはコガネシティを後にした。夜闇に紛れていくうちに、穏やかな静けさに包まれていく。
森閑とした空気にほっと息を吐き出し、ブラックは昼間の事を回想した。
無事にロケット団が捕まり、ブラックはコガネシティの路地裏に身を潜めた。辺りをよく見回し、ようやくメガニウムをボールから出した。
首を傾げるメガニウムの顔をブラックは真っ直ぐと見つめる
そして静かに言った。
「お前はアイツの元へ帰れ」
メガニウムは驚愕した。すぐさまブラックに抗議の声を上げる。どうして、せっかくまた一緒に戦えたのに、そう言いたげな鳴き声に彼はそっと目を伏せた。
「……お前は、アイツの所に居た方が」
しあわ、
喉まで出かかったその言葉を、彼はぐっと飲み込んだ。
「……合っているだろう」
メガニウムはそれでも首を振り続ける。ブラックの胸元に鼻づらを押し付ける。その頭を彼が撫でる事はなかった。けれども行き場を失ったかのように彼の手は泳いでいた。
「……今はまだ」
振り絞るような声だった。
「よく分からん。お前をどう扱えばいいか。……どう、接すればいいか」
だから、
「アイツの所に行け。……今はまだ」
最後の言葉は取って付けたようだった。それでも消え入りそうな声でそう呟けば、メガニウムはようやく彼から離れた。
そして一鳴きも上げずに離れていった。少しずつ少しずつ、明るい大通りへ足を進める。
それでいい、ブラックはその背中をじっと見つめている。するとメガニウムは不意に振り返った。そしてニッと、意地悪そうな、それでいて清々しい笑みを投げた。
「ふっ、さっさと行け」
思わずブラックも笑みを返した。笑ったと共に、その笑いの意味を理解しかねている自分を感じ取った。
理解を拒んでいると言ってもいい。あのドラゴン使いの言葉の意味も、本当は――…。
***
ラジオ塔ハイジャック事件。マスコミによって付けられたその言葉は瞬く間にジョウト地方に広がった。しかしこの事件が誰によって収束されたかは、大半の人間は知る由もない。マスコミはこの大事件を、ロケット団の残党を壊滅させた勇気ある少年を取り上げようと、ドキュメンタリーまで作ろうとしていたのに。大手テレビ局、新聞社にかかってきた一本の電話がそれらを闇の中に放り込んでしまった。「謎のマント男と少年が解決!? ラジオ塔ハイジャック事件の真相!」などというタイトルを掲げたのは結局三流のゴシップ誌だけで、世間がそれに注目する事はなかった。
『皆さま、今日も素敵な一日をお過ごしください! 以上、DJのクルミでした!』
事件解決から数日が経ち、ラジオからは聞きなれた爽やかな音楽が流れてくる。コガネシティはすっかり日常を取り戻していた。
「……ああ、ご苦労。あの子たちをあまり騒がせてはいけないからな」
早朝、コガネ大学病院の外でワタルは一本の電話をかけていた。ポケギアからは疲れ切った声が返ってくる。電話の相手はポケモンリーグ広報部の最高責任者だ。各マスコミに事件の真相を流さないよう圧力をかけて回り、疲れ切っているのだ。
電話の相手に再び労いの言葉をかけると、ワタルは通話を切った。そしてゆっくりと振り返ると、病院の玄関からこちらに走ってくる姿が見えた。
昨日包帯やら絆創膏が取れたばかりの、ゴールドだった。
「ワタルさん! 行っちゃうのか?」
ゴールドの問いにワタルは静かに微笑んだ。
「長い間仕事を放ってしまっていたからね。帰らないとなんだ」
「そっか……。寂しいな」
ゴールドは肩を落とすも、すぐさま奮い立たせるように顔を上げる。
「でもまた会えるよ! きっとそうだ!」
「ああ、きっと君は……」
そこまで言って、ワタルはふっと笑みを止めた。
そしてその瞳に、あらゆる戦いを勝ち抜いてきた強者の光が宿る。
「……ゴールド。ポケモンマスターへの道は長く険しいという」
「え……?」
きょとんとするゴールドだったが、向けられる瞳の真剣さに思わず息を飲んだ。
「それでも、君は目指すのか?」
澄み渡った空気に響く。そこに立っているのはいつもの気さくなワタルではない。数多の戦いを潜り抜けてきた猛者そのものだ。そんな彼から発せられる言葉はずっしりとゴールドにのしかかる。しかしそれでも、彼はは何者にも屈しない黄金の瞳を返すのだ。
「あったりまえさ!」
その元気な返答にワタルは静かに笑みを浮かべる。
「……そうか、そうだよな。諦めるくらいなら、最初から夢なんて見ないよな」
ワタルはゴールドの肩を強く叩いた。
「ならば俺達はきっとまた会える。待っているよ、ゴールド!」
「ああ! またね、ワタルさん!」
そうして彼は去っていった。マントを鮮やかに翻し、カイリューの背に乗って飛び去っていく。結局ゴールドは彼の素性は一つも知らなかったけれど、胸の奥には確かな予感があった。今よりももっともっと強くなったら、きっとまた会えると。ワタルに会う運命だと。
病院で朝食を終えたゴールドとクリスは、早速本来の目的地へ向かった。
「本当に良かったの?」
コガネの街を歩いている中、クリスは隣のメガニウムに問いかけた。
「ブラックの所に戻らなくて」
事件が終わってからクリスはゴールドからこのメガニウムとブラックの関係を教えてもらった。それでも尚、彼女はメガニウムを気遣っている。
「勿論私たちは嬉しいわ、メガニウムと旅ができて。でも……」
その先をメガニウムは言わせなかった。甘えるように鼻づらを彼女の背中に押し付ける。この話はもう終わり、と言わんばかりに。
仕方なさそうに息を吐くクリスに、ゴールドはふと首を傾げた。
「そういやクリスってブラックと会った事あったっけ? ブラックもクリスの事、知っているみたいだったけど」
素朴な問いの後、ゴールドは複雑な表情を浮かべた。
「あいつ……、いつもは極悪非道の暗黒の貴公子って感じなのに」
「なにそのめちゃくちゃな呼び名」
「でも今回は、なんというか、雰囲気が違ったな。おいらやクリスを助けてくれたし」
「……」
「ん? クリス?」
急に黙り込んだクリスの顔をゴールドは覗き込んだ。何かを思い出すような素振りを見せて、それでもクリスはふっと笑みを浮かべた。
「きっと……根は悪い子じゃあないのよ」
「えー? そうかなぁ?」
「ふふ、きっとそうよ」
ねーメガニウム、とクリスは笑いかければメガニウムも明るい声を上げる。
「えーなんだよー二人とも」
その楽しそうな様子に思わずゴールドも笑みをこぼし、皆は走るように目的地へ向かった。
もう随分昔の事のように思えるが、ゴールド達がコガネシティに向かった最もたる理由はコレだ。PCCの玄関をくぐると、大勢の研究員が慌ただしく走り回っている。
「おお、ゴールドにクリスちゃん。おはようさん」
奥からエーフィとブラッキーと共に現れたのはマサキだった。
「おはよう! マサキさん」
「おはようございます」
「怪我の方はもうええみたいやな。慌ただしいてごめんな。まあ、こっちにおいで」
マサキに連れられて奥へ進むと、見たことの無い大きな機械がいくつも稼働している。研究員たちはそれらに向かって慌ただしくデータを取ったり、キーボードで打ち込んでいる。
部屋の中央のスクリーンには、眼鏡の女性が映し出されている。
「お待たせ、マコモさん。どうやろうか?」
『ええ、もう問題ありません』
マコモと呼ばれた女性は手元の資料を見ながら続ける。
『Cギアを対象者の頭部に装着してください。後はシンクシステムが自動的に発動します。ただ、夢の完全な映像化、とはいきませんわ。間に合わせることができなくてごめんなさい』
「ええよ、安全面を最優先にしてもろうたんや。後はこちらで対応するわ。ホンマにありがとうな」
『いいえ、こちらも使用データを取らせていただきますもの。有り難い限りです。それではご健闘を』
通信は切れ、スクリーンはブラックアウトした。マサキはゴールドとクリスに向き直り、コードが繋がれたヘルメットのような機械を手に取った。
「これはCギアってゆうてな。これをポケモンが装着して眠ると、その夢を映像化できる優れものや。まあ今回はどこまで再現できるか分からへんけど、堪忍やで」
「それはいいけど、これでピカチュウの過去が分かるの?」
ゴールドはピカチュウの入っているボールを取り出した。マサキがそれに頷くと、奥からスリーパーがやってきた。
「こいつが使う“さいみんじゅつ”は研究用にちょっと特殊でな。人やポケモンに使用する事で過去の記憶を遡れるんや。人間の催眠療法でも似たようなもんがあるけどな」
「それでピカチュウががくしゅうそうちを使われた経緯を探る訳ですね」
「そうや」
それで、とマサキはゴールドに再び向き直る。
「この実験をやるにあたって親トレーナーと、ポケモンの承認が必要なんや。……ゴールド、ピカチュウ」
彼が真剣な眼差しを送ると、ゴールドはピカチュウをボールから出した。ピカチュウはゴールドの肩に乗り、二人は無言で見つめ合う。
そしてお互いにふっと笑った。
「もやもや分からないままっていうのは、もう勘弁だもんな」
にっと二人が笑い合い、いよいよ実験は始まる。
「ほな、始めるで」
マサキの合図にスリーパーは頷いた。台の上でCギアを装着したピカチュウの肩を、スリーパーは安心させるように叩いた。そして手に持つ振り子がゆらり、ゆらりと動き始める。その動きに合わせて、ピカチュウの体が左右に揺れ始めた。ゆっくりと振れ幅が大きくなる体。やがて両の瞼が落ちていく。台に敷かれた毛布の上に、ピカチュウはゆっくりとその体を倒した。
「ピカチュウ……」
ゴールドの呼び声にもはや答えない。ピカチュウは穏やかに寝息を立てるだけだった。それに合わせて、頭部のCギアが光り出す。
「シンクシステム、起動確認。モニター出します」
一人の研究員がそう言うと、中央のスクリーンが数枚の画像を映し出された。
「伝説のポケモンだわ」
クリスが思わず呟いた通り、その画像が伝説・幻と呼ばれるポケモン達の目撃写真だ。
マサキはスリーパーを従えて、ピカチュウに近寄った。
「ピカチュウ、思い出してほしい。君はいつどこで、何の為に、どのポケモンの情報を覚えたのか」
マサキの言葉に呼応するようにスリーパーの持つ振り子が揺れる。ピカチュウの瞼が僅かに動き、スクリーン上に赤い点が出現した
。
「ピカチュウの脳波を分析し、赤い点に連動。過去の記憶がスクリーン上の画像と一致するかどうかを調べるんや」
点が向かったのは、あるポケモンの画像だった。乱列するその中から一枚、点が止まった物は。ポケモンサミットで撮影された写真、エンテイの物だった。点はエンテイの画像に留まり、動かなくなった。他の画像には目もくれずに。
「まさか……」
マサキはすぐに研究員に指示を出し、エンテイの画像だけ残して他のポケモンの画像は下げてしまった。そして新たに数枚、画像を出す。
マサキの予想通り、赤い点はすぐさま二枚の画像に向かっていった。38番道路で撮影されたスイクンの画像と、カサドシティで撮影されたライコウの画像だ。点はこの二枚の間を往復している。
「どうしたの? マサキさん」
「もしかしたらピカチュウは、この三匹の情報しか……」
「え?」
首を傾げたゴールドだったが、低い唸り声に体を飛び上がらせた。視線を移すと、台の上で眠っているピカチュウが地を這うような唸り声を上げている。
その唸り声に呼応するかのように、赤い点が激しく動いた。点が向かう先は、青く美しく輝く体。キキョウシティで撮影されたそのポケモンは。
「フ、フリーザー!?」
ゴールドの脳裏に甦るのは、もう遠い昔の記憶。キキョウジムでフリーザーとまみえたあの激戦だ。
(そういえばピカチュウがやってきたのってあの時……)
次の瞬間、鋭い金切り声が部屋中に響いた。
「ピ、ピカチュウ!?」
眠りについているはずのピカチュウは、金切り声を上げながら悶えている。まるで目の前に敵が居るかのように、体を揺さぶっている。
バチッ、微かなその音をマサキは聞き逃さなかった。
「シンクシステム、解除!」
彼に言われて研究員が慌ててシステムを終わらせたのと、眠ったピカチュウから凄まじい電撃が発せられたのはほぼ同時だった。
「きゃあ!?」
クリスを下がらせたゴールドはピカチュウに近寄った。
「ゴ、ゴールド!?」
「ピカチュウ! しっかりしろー!」
マサキの制止を振り切り、ゴールドはピカチュウを抱き上げた。しかし案の定。
「うぎゃああああ!!?」
凄まじい電撃がゴールドの体を走り、ゴールドは情けない声を上げながら床に倒れてしまった……。
黒焦げになった髪を整え、ゴールドはソファに項垂れていた。実験はピカチュウの暴走により中断。研究員たちは電撃による機材の被害を確認する為に忙しく走り回っている。ピカチュウはマサキ達に連れられ医務室へ、ゴールドとクリスは一旦PCCのロビーに返された。
数十分後、マサキはようやく二人の前に姿を現した。ソファから飛び上がったゴールドをなだめながら、三人は奥の医務室へ向かう。医務室ではポケモン用のベッドの上でピカチュウが静かに眠っていた。その穏やかな表情にゴールドとクリスは取り敢えず安堵の息を吐いた。
「ピカチュウの体に異常は見られへん。さっきの電撃も、衝動的にやってしもうただけなんやろう」
「よかったぜピカチュウ~……」
ゴールドはピカチュウに駆け寄り、眠るその額を優しく撫でる。
さて、とマサキはある資料を二人に見せた。
「実験の結果を報告しよか」
医務室に置いてあるホワイトボードにマサキは何枚かの紙を張り付けていく。
「ピカチュウが反応したんは、エンテイ、スイクン、ライコウ。所謂三聖獣と呼ばれる伝説のポケモンや」
「ポケモンサミットでおいら達を助けてくれたポケモン達だ」
ゴールドの呟きにマサキは小さく頷いた。
「他にもホウオウやルギア、ジョウト地方にゆかりがある伝説のポケモンの写真も見せたけど、何も反応あらへん。そこで一つの可能性が生まれてきた」
マサキはボードに張ってある三枚の画像を、マジックペンで囲んでしまった。
「ピカチュウが記憶している情報は、この三聖獣に関する事のみ」
「ええ!?」
驚く二人だったが、すぐに反論を口にする。
「だ、だっておいら、ピカチュウと一緒にフリーザーに会ったんだぜ!?」
「ルギアにだって遭遇したわ! あれにピカチュウは関係なかったんですか!?」
「わいもそう思っていたんやけどな」
違ったんかもしれへん、マサキは神妙な面持ちだった。
「ピカチュウが覚えている目撃情報はあくまで三聖獣だけ。後の縁は、ゴールド、君が導いたもんや」
最強のトレーナーの前に伝説のポケモンは舞い降りる、あるジムリーダーの言葉がゴールドの頭をよぎった。ルギアやフリーザーと出会ったのは、自分が引き寄せた縁だったのか?
困惑して黙り込む二人に、マサキは更に報告を重ねる。
「もう一つ、ピカチュウが反応を示したもんがある。思わず放電してしまうほど強烈な存在」
彼が新たに張り出したのは、青く輝く大鳥の姿だ。
「フリーザー。何故かこのポケモンに対して、ピカチュウは異常な反応を示した」
確かにピカチュウが暴走しだしたのはこの画像に集中した時だ。しかしクリスは首を傾げる。
「でも、ピカチュウは一度キキョウジムでフリーザーと戦っているんですよね。だったらその時の記憶と混同してしまったんじゃあ」
「……いや」
その隣でゴールドが静かに呟く。
「……ピカチュウはフリーザーを一目見た時から、敵意むき出しだった」
まだ駆け出しトレーナーだった頃、最初のジムでゴールドは絶対絶命のピンチだった。突如現れた伝説の鳥ポケモンに、もはや手も足も出せなかった。そんな時、天から落雷と共に落ちてきたのがピカチュウだ。そしてピカチュウは初対面のはずのゴールドに勢いよく飛びつき、ゴールドも微かな懐かしさを感じていた。
しかしそれはすぐに鋭い闘争心にかき消されてしまった。ピカチュウはフリーザーを視界にとらえると、凄まじい速さで向かっていったのだ。今更そんな事を思い出し、ゴールドは感情を押し殺すように言う。
「ピカチュウはフリーザーのことを知っていたんだ。ずっと前から。戦うべき相手だって」
「そんなことが……」
ゴールドの言葉にクリスは思わずピカチュウを見やった。穏やかそうなこの寝顔が、一体どれほどまで敵意に染まったのだろう。俯いてしまった二人の肩を、マサキは優しく叩いた。
「今回の実験で分かった事はこれだけや。機器の整備もあるから、同じ実験はもう期待しやんといてくれ。堪忍な」
「……いえ」
首を振るゴールド。そしてクリスと同じようにピカチュウに目をやれば、今まで共に過ごしてきた日々が鮮やかに甦る。
最初はちょっと生意気でマイペースだった。けれど本当はこんなに人懐こくて仲間思いなのに。そんなピカチュウが、伝説のポケモンと戦わなくてはいけないなんて。そんな未来がこのピカチュウには待っているのか?
彼の脳裏に鋭く映し出されたのは、フリーザーに一人で立ち向かい、疲弊したピカチュウの姿だった。
(……ピカチュウ!)
固い決心と共に唇を噛み締めると、ゴールドは顔を上げた。
「おいら、絶対にピカチュウの謎を解明してみせる!」
森閑とした空気にほっと息を吐き出し、ブラックは昼間の事を回想した。
無事にロケット団が捕まり、ブラックはコガネシティの路地裏に身を潜めた。辺りをよく見回し、ようやくメガニウムをボールから出した。
首を傾げるメガニウムの顔をブラックは真っ直ぐと見つめる
そして静かに言った。
「お前はアイツの元へ帰れ」
メガニウムは驚愕した。すぐさまブラックに抗議の声を上げる。どうして、せっかくまた一緒に戦えたのに、そう言いたげな鳴き声に彼はそっと目を伏せた。
「……お前は、アイツの所に居た方が」
しあわ、
喉まで出かかったその言葉を、彼はぐっと飲み込んだ。
「……合っているだろう」
メガニウムはそれでも首を振り続ける。ブラックの胸元に鼻づらを押し付ける。その頭を彼が撫でる事はなかった。けれども行き場を失ったかのように彼の手は泳いでいた。
「……今はまだ」
振り絞るような声だった。
「よく分からん。お前をどう扱えばいいか。……どう、接すればいいか」
だから、
「アイツの所に行け。……今はまだ」
最後の言葉は取って付けたようだった。それでも消え入りそうな声でそう呟けば、メガニウムはようやく彼から離れた。
そして一鳴きも上げずに離れていった。少しずつ少しずつ、明るい大通りへ足を進める。
それでいい、ブラックはその背中をじっと見つめている。するとメガニウムは不意に振り返った。そしてニッと、意地悪そうな、それでいて清々しい笑みを投げた。
「ふっ、さっさと行け」
思わずブラックも笑みを返した。笑ったと共に、その笑いの意味を理解しかねている自分を感じ取った。
理解を拒んでいると言ってもいい。あのドラゴン使いの言葉の意味も、本当は――…。
***
ラジオ塔ハイジャック事件。マスコミによって付けられたその言葉は瞬く間にジョウト地方に広がった。しかしこの事件が誰によって収束されたかは、大半の人間は知る由もない。マスコミはこの大事件を、ロケット団の残党を壊滅させた勇気ある少年を取り上げようと、ドキュメンタリーまで作ろうとしていたのに。大手テレビ局、新聞社にかかってきた一本の電話がそれらを闇の中に放り込んでしまった。「謎のマント男と少年が解決!? ラジオ塔ハイジャック事件の真相!」などというタイトルを掲げたのは結局三流のゴシップ誌だけで、世間がそれに注目する事はなかった。
『皆さま、今日も素敵な一日をお過ごしください! 以上、DJのクルミでした!』
事件解決から数日が経ち、ラジオからは聞きなれた爽やかな音楽が流れてくる。コガネシティはすっかり日常を取り戻していた。
「……ああ、ご苦労。あの子たちをあまり騒がせてはいけないからな」
早朝、コガネ大学病院の外でワタルは一本の電話をかけていた。ポケギアからは疲れ切った声が返ってくる。電話の相手はポケモンリーグ広報部の最高責任者だ。各マスコミに事件の真相を流さないよう圧力をかけて回り、疲れ切っているのだ。
電話の相手に再び労いの言葉をかけると、ワタルは通話を切った。そしてゆっくりと振り返ると、病院の玄関からこちらに走ってくる姿が見えた。
昨日包帯やら絆創膏が取れたばかりの、ゴールドだった。
「ワタルさん! 行っちゃうのか?」
ゴールドの問いにワタルは静かに微笑んだ。
「長い間仕事を放ってしまっていたからね。帰らないとなんだ」
「そっか……。寂しいな」
ゴールドは肩を落とすも、すぐさま奮い立たせるように顔を上げる。
「でもまた会えるよ! きっとそうだ!」
「ああ、きっと君は……」
そこまで言って、ワタルはふっと笑みを止めた。
そしてその瞳に、あらゆる戦いを勝ち抜いてきた強者の光が宿る。
「……ゴールド。ポケモンマスターへの道は長く険しいという」
「え……?」
きょとんとするゴールドだったが、向けられる瞳の真剣さに思わず息を飲んだ。
「それでも、君は目指すのか?」
澄み渡った空気に響く。そこに立っているのはいつもの気さくなワタルではない。数多の戦いを潜り抜けてきた猛者そのものだ。そんな彼から発せられる言葉はずっしりとゴールドにのしかかる。しかしそれでも、彼はは何者にも屈しない黄金の瞳を返すのだ。
「あったりまえさ!」
その元気な返答にワタルは静かに笑みを浮かべる。
「……そうか、そうだよな。諦めるくらいなら、最初から夢なんて見ないよな」
ワタルはゴールドの肩を強く叩いた。
「ならば俺達はきっとまた会える。待っているよ、ゴールド!」
「ああ! またね、ワタルさん!」
そうして彼は去っていった。マントを鮮やかに翻し、カイリューの背に乗って飛び去っていく。結局ゴールドは彼の素性は一つも知らなかったけれど、胸の奥には確かな予感があった。今よりももっともっと強くなったら、きっとまた会えると。ワタルに会う運命だと。
病院で朝食を終えたゴールドとクリスは、早速本来の目的地へ向かった。
「本当に良かったの?」
コガネの街を歩いている中、クリスは隣のメガニウムに問いかけた。
「ブラックの所に戻らなくて」
事件が終わってからクリスはゴールドからこのメガニウムとブラックの関係を教えてもらった。それでも尚、彼女はメガニウムを気遣っている。
「勿論私たちは嬉しいわ、メガニウムと旅ができて。でも……」
その先をメガニウムは言わせなかった。甘えるように鼻づらを彼女の背中に押し付ける。この話はもう終わり、と言わんばかりに。
仕方なさそうに息を吐くクリスに、ゴールドはふと首を傾げた。
「そういやクリスってブラックと会った事あったっけ? ブラックもクリスの事、知っているみたいだったけど」
素朴な問いの後、ゴールドは複雑な表情を浮かべた。
「あいつ……、いつもは極悪非道の暗黒の貴公子って感じなのに」
「なにそのめちゃくちゃな呼び名」
「でも今回は、なんというか、雰囲気が違ったな。おいらやクリスを助けてくれたし」
「……」
「ん? クリス?」
急に黙り込んだクリスの顔をゴールドは覗き込んだ。何かを思い出すような素振りを見せて、それでもクリスはふっと笑みを浮かべた。
「きっと……根は悪い子じゃあないのよ」
「えー? そうかなぁ?」
「ふふ、きっとそうよ」
ねーメガニウム、とクリスは笑いかければメガニウムも明るい声を上げる。
「えーなんだよー二人とも」
その楽しそうな様子に思わずゴールドも笑みをこぼし、皆は走るように目的地へ向かった。
もう随分昔の事のように思えるが、ゴールド達がコガネシティに向かった最もたる理由はコレだ。PCCの玄関をくぐると、大勢の研究員が慌ただしく走り回っている。
「おお、ゴールドにクリスちゃん。おはようさん」
奥からエーフィとブラッキーと共に現れたのはマサキだった。
「おはよう! マサキさん」
「おはようございます」
「怪我の方はもうええみたいやな。慌ただしいてごめんな。まあ、こっちにおいで」
マサキに連れられて奥へ進むと、見たことの無い大きな機械がいくつも稼働している。研究員たちはそれらに向かって慌ただしくデータを取ったり、キーボードで打ち込んでいる。
部屋の中央のスクリーンには、眼鏡の女性が映し出されている。
「お待たせ、マコモさん。どうやろうか?」
『ええ、もう問題ありません』
マコモと呼ばれた女性は手元の資料を見ながら続ける。
『Cギアを対象者の頭部に装着してください。後はシンクシステムが自動的に発動します。ただ、夢の完全な映像化、とはいきませんわ。間に合わせることができなくてごめんなさい』
「ええよ、安全面を最優先にしてもろうたんや。後はこちらで対応するわ。ホンマにありがとうな」
『いいえ、こちらも使用データを取らせていただきますもの。有り難い限りです。それではご健闘を』
通信は切れ、スクリーンはブラックアウトした。マサキはゴールドとクリスに向き直り、コードが繋がれたヘルメットのような機械を手に取った。
「これはCギアってゆうてな。これをポケモンが装着して眠ると、その夢を映像化できる優れものや。まあ今回はどこまで再現できるか分からへんけど、堪忍やで」
「それはいいけど、これでピカチュウの過去が分かるの?」
ゴールドはピカチュウの入っているボールを取り出した。マサキがそれに頷くと、奥からスリーパーがやってきた。
「こいつが使う“さいみんじゅつ”は研究用にちょっと特殊でな。人やポケモンに使用する事で過去の記憶を遡れるんや。人間の催眠療法でも似たようなもんがあるけどな」
「それでピカチュウががくしゅうそうちを使われた経緯を探る訳ですね」
「そうや」
それで、とマサキはゴールドに再び向き直る。
「この実験をやるにあたって親トレーナーと、ポケモンの承認が必要なんや。……ゴールド、ピカチュウ」
彼が真剣な眼差しを送ると、ゴールドはピカチュウをボールから出した。ピカチュウはゴールドの肩に乗り、二人は無言で見つめ合う。
そしてお互いにふっと笑った。
「もやもや分からないままっていうのは、もう勘弁だもんな」
にっと二人が笑い合い、いよいよ実験は始まる。
「ほな、始めるで」
マサキの合図にスリーパーは頷いた。台の上でCギアを装着したピカチュウの肩を、スリーパーは安心させるように叩いた。そして手に持つ振り子がゆらり、ゆらりと動き始める。その動きに合わせて、ピカチュウの体が左右に揺れ始めた。ゆっくりと振れ幅が大きくなる体。やがて両の瞼が落ちていく。台に敷かれた毛布の上に、ピカチュウはゆっくりとその体を倒した。
「ピカチュウ……」
ゴールドの呼び声にもはや答えない。ピカチュウは穏やかに寝息を立てるだけだった。それに合わせて、頭部のCギアが光り出す。
「シンクシステム、起動確認。モニター出します」
一人の研究員がそう言うと、中央のスクリーンが数枚の画像を映し出された。
「伝説のポケモンだわ」
クリスが思わず呟いた通り、その画像が伝説・幻と呼ばれるポケモン達の目撃写真だ。
マサキはスリーパーを従えて、ピカチュウに近寄った。
「ピカチュウ、思い出してほしい。君はいつどこで、何の為に、どのポケモンの情報を覚えたのか」
マサキの言葉に呼応するようにスリーパーの持つ振り子が揺れる。ピカチュウの瞼が僅かに動き、スクリーン上に赤い点が出現した
。
「ピカチュウの脳波を分析し、赤い点に連動。過去の記憶がスクリーン上の画像と一致するかどうかを調べるんや」
点が向かったのは、あるポケモンの画像だった。乱列するその中から一枚、点が止まった物は。ポケモンサミットで撮影された写真、エンテイの物だった。点はエンテイの画像に留まり、動かなくなった。他の画像には目もくれずに。
「まさか……」
マサキはすぐに研究員に指示を出し、エンテイの画像だけ残して他のポケモンの画像は下げてしまった。そして新たに数枚、画像を出す。
マサキの予想通り、赤い点はすぐさま二枚の画像に向かっていった。38番道路で撮影されたスイクンの画像と、カサドシティで撮影されたライコウの画像だ。点はこの二枚の間を往復している。
「どうしたの? マサキさん」
「もしかしたらピカチュウは、この三匹の情報しか……」
「え?」
首を傾げたゴールドだったが、低い唸り声に体を飛び上がらせた。視線を移すと、台の上で眠っているピカチュウが地を這うような唸り声を上げている。
その唸り声に呼応するかのように、赤い点が激しく動いた。点が向かう先は、青く美しく輝く体。キキョウシティで撮影されたそのポケモンは。
「フ、フリーザー!?」
ゴールドの脳裏に甦るのは、もう遠い昔の記憶。キキョウジムでフリーザーとまみえたあの激戦だ。
(そういえばピカチュウがやってきたのってあの時……)
次の瞬間、鋭い金切り声が部屋中に響いた。
「ピ、ピカチュウ!?」
眠りについているはずのピカチュウは、金切り声を上げながら悶えている。まるで目の前に敵が居るかのように、体を揺さぶっている。
バチッ、微かなその音をマサキは聞き逃さなかった。
「シンクシステム、解除!」
彼に言われて研究員が慌ててシステムを終わらせたのと、眠ったピカチュウから凄まじい電撃が発せられたのはほぼ同時だった。
「きゃあ!?」
クリスを下がらせたゴールドはピカチュウに近寄った。
「ゴ、ゴールド!?」
「ピカチュウ! しっかりしろー!」
マサキの制止を振り切り、ゴールドはピカチュウを抱き上げた。しかし案の定。
「うぎゃああああ!!?」
凄まじい電撃がゴールドの体を走り、ゴールドは情けない声を上げながら床に倒れてしまった……。
黒焦げになった髪を整え、ゴールドはソファに項垂れていた。実験はピカチュウの暴走により中断。研究員たちは電撃による機材の被害を確認する為に忙しく走り回っている。ピカチュウはマサキ達に連れられ医務室へ、ゴールドとクリスは一旦PCCのロビーに返された。
数十分後、マサキはようやく二人の前に姿を現した。ソファから飛び上がったゴールドをなだめながら、三人は奥の医務室へ向かう。医務室ではポケモン用のベッドの上でピカチュウが静かに眠っていた。その穏やかな表情にゴールドとクリスは取り敢えず安堵の息を吐いた。
「ピカチュウの体に異常は見られへん。さっきの電撃も、衝動的にやってしもうただけなんやろう」
「よかったぜピカチュウ~……」
ゴールドはピカチュウに駆け寄り、眠るその額を優しく撫でる。
さて、とマサキはある資料を二人に見せた。
「実験の結果を報告しよか」
医務室に置いてあるホワイトボードにマサキは何枚かの紙を張り付けていく。
「ピカチュウが反応したんは、エンテイ、スイクン、ライコウ。所謂三聖獣と呼ばれる伝説のポケモンや」
「ポケモンサミットでおいら達を助けてくれたポケモン達だ」
ゴールドの呟きにマサキは小さく頷いた。
「他にもホウオウやルギア、ジョウト地方にゆかりがある伝説のポケモンの写真も見せたけど、何も反応あらへん。そこで一つの可能性が生まれてきた」
マサキはボードに張ってある三枚の画像を、マジックペンで囲んでしまった。
「ピカチュウが記憶している情報は、この三聖獣に関する事のみ」
「ええ!?」
驚く二人だったが、すぐに反論を口にする。
「だ、だっておいら、ピカチュウと一緒にフリーザーに会ったんだぜ!?」
「ルギアにだって遭遇したわ! あれにピカチュウは関係なかったんですか!?」
「わいもそう思っていたんやけどな」
違ったんかもしれへん、マサキは神妙な面持ちだった。
「ピカチュウが覚えている目撃情報はあくまで三聖獣だけ。後の縁は、ゴールド、君が導いたもんや」
最強のトレーナーの前に伝説のポケモンは舞い降りる、あるジムリーダーの言葉がゴールドの頭をよぎった。ルギアやフリーザーと出会ったのは、自分が引き寄せた縁だったのか?
困惑して黙り込む二人に、マサキは更に報告を重ねる。
「もう一つ、ピカチュウが反応を示したもんがある。思わず放電してしまうほど強烈な存在」
彼が新たに張り出したのは、青く輝く大鳥の姿だ。
「フリーザー。何故かこのポケモンに対して、ピカチュウは異常な反応を示した」
確かにピカチュウが暴走しだしたのはこの画像に集中した時だ。しかしクリスは首を傾げる。
「でも、ピカチュウは一度キキョウジムでフリーザーと戦っているんですよね。だったらその時の記憶と混同してしまったんじゃあ」
「……いや」
その隣でゴールドが静かに呟く。
「……ピカチュウはフリーザーを一目見た時から、敵意むき出しだった」
まだ駆け出しトレーナーだった頃、最初のジムでゴールドは絶対絶命のピンチだった。突如現れた伝説の鳥ポケモンに、もはや手も足も出せなかった。そんな時、天から落雷と共に落ちてきたのがピカチュウだ。そしてピカチュウは初対面のはずのゴールドに勢いよく飛びつき、ゴールドも微かな懐かしさを感じていた。
しかしそれはすぐに鋭い闘争心にかき消されてしまった。ピカチュウはフリーザーを視界にとらえると、凄まじい速さで向かっていったのだ。今更そんな事を思い出し、ゴールドは感情を押し殺すように言う。
「ピカチュウはフリーザーのことを知っていたんだ。ずっと前から。戦うべき相手だって」
「そんなことが……」
ゴールドの言葉にクリスは思わずピカチュウを見やった。穏やかそうなこの寝顔が、一体どれほどまで敵意に染まったのだろう。俯いてしまった二人の肩を、マサキは優しく叩いた。
「今回の実験で分かった事はこれだけや。機器の整備もあるから、同じ実験はもう期待しやんといてくれ。堪忍な」
「……いえ」
首を振るゴールド。そしてクリスと同じようにピカチュウに目をやれば、今まで共に過ごしてきた日々が鮮やかに甦る。
最初はちょっと生意気でマイペースだった。けれど本当はこんなに人懐こくて仲間思いなのに。そんなピカチュウが、伝説のポケモンと戦わなくてはいけないなんて。そんな未来がこのピカチュウには待っているのか?
彼の脳裏に鋭く映し出されたのは、フリーザーに一人で立ち向かい、疲弊したピカチュウの姿だった。
(……ピカチュウ!)
固い決心と共に唇を噛み締めると、ゴールドは顔を上げた。
「おいら、絶対にピカチュウの謎を解明してみせる!」