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【外伝】ポケモン博士と安楽椅子探偵

 その坂を上ると、ちょうど真ん中の辺りでくらくらと目が眩むのだそうだ。
何ということは無い、一見平坦なその坂は、実は道の真ん中あたりでくぼんでいる。上下左右に揺れる視界に脳が酔ってしまうのだ。
故にその坂は眩暈坂と呼ばれている。


 宇津木(うつぎ)はその家へ向かう道のりで、決まって目眩を起こす。
 足を止めた。それもいつもの事だ。あと少しで登り切るというところで彼はいつも一休みを入れる。ふらつく頭を上げ、目的の家の影を見つけるのだった。


 エンジュシティの外れの地区だ。観光客向けの舗装道から外れ、左右を竹に囲まれた野道を少しだけ進む。一軒の家屋に行き止まった。
竹の合間から差し込む陽の光が、瓦屋根の藍色を際立たせる。玄関や縁側のガラス戸は丁寧に磨かれ、奥の障子の白さがよく見えた。モノクロの和風家屋の庭には使い慣らされた原付バイクが駐車されており、それが一層の異彩を放っていた。
宇津木(うつぎ)は鍵の掛かっていない玄関の戸を開けた。渇いた木の滑る音がする。
部屋の奥からふわりと風が流れてきた。嗅ぎなれない独特の香り、すりたての墨の香りが緑の匂いに混流している。
香りと共に想起するものは、この家の主にして彼の友人、そして、宇津木の胸にある奇怪な出来事を解き明かしうる物知りの顔だった。
宇津木とその友人との関係は、奇妙なまでに「友人」と呼ぶより他はない。だが二人がどのようにして出会い、どのようにして交流を結んだか、宇津木はいつも曖昧にしか思い出せない。
二人は幼馴染だったのか。同じ学び舎の生徒だったか。素晴らしい好敵手だったか。同じ女性を愛した恋敵だったか。はたまた、ただ道を聞かれて答えただけの間柄だったか。宇津木にとっては全てが外れのようでもあり、全て当てはまるようでもあった。
とにかくはっきりしていることは、お人好しで面倒事に巻き込まれやすい宇津木は、困りごとがあればこの友人を訪ねるということだ。
 宇津木は慣れた足つきで和風家屋を進んだ。友人に連れ合いはいない。もちろん宇津木にもいない。ポケモン研究者の学生結婚は今時珍しくはないが、ともかく宇津木には縁がない。その家にはドーブルが一匹、家主と共に暮らしているのみだ。
ひたり、ひたり、と床板の冷たい感触が足裏から伝わる。墨の香りが濃くなる。

「明智(あけち)」

彼は家主を呼んだ。

「明智、居るかい」
「――ああ、居るとも」

家の中央、書斎から、真っ直ぐと声が返ってきた。
 書斎の襖を開ける。墨の香りが、それ以外の空気を全て黒く染めたように立ち上がる。
 襖に向かって正面に位置する机。硯を置き、そこで規則正しい動きで墨を摺っているのは、墨のように鮮やかな黒い着流しを着た男だった。
 床には出来上がったばかりの書が渇かされ、壁にはいくつもの掛け軸がつるしてある。
 モノクロを連想させる部屋の中央には家主が座っている。彼は黒い着物とは真逆に、明るい茶の髪を持ち、垂れ目と高い鼻立ちを持っていた。
 男は手を止め、顔を上げた。伏せた目が真っ直ぐと宇津木の顔を見つめた。

「君は相変わらず奇妙な事を持ち込んでくる、宇津木くん」

家主は口の端だけで笑う。

「そんなに話のネタを持ってくるのは、君か、でなければ三流雑誌の記者だな。差し詰め私は三流編集長だ。さあそんな所で突っ立っていないで座りたまえ」

そうは言うが、家主は客人に座布団も茶も用意しようとしなかった。
 宇津木は畳にそのまま胡坐をかいた。

「聞いてほしいことがあるんだ、明智」

机に両手をつく。二人はじっと向き合った。


「人はポケモンを産むことができるのか?」

     ***

 視線が重なる。
 鹿威し(ししおどし)が一度鳴った。
 二度目に重ねるように明智は答える。

「ポケモンの誕生の秘密はいまだ解き明かされていない。そうだね?」

宇津木くん、と家主は続ける。

「仮にもポケモン研究家の端くれである君が、ただの書家である門外漢の私にそれを聞いた時点で、その質問への答えは決まっているよ」
「それは?」

宇津木の声は弾んでいるようで、震えているようだった。彼は期待の目を友人に向ける。


 友人は宇津木の顔を一瞥した。

「そんなことを私が知る訳がない」

抑揚なく、さっぱりと言い放った。あまりに潔い答えなものだから宇津木は飲み込むことができず、しばらくの沈黙のあと、ようやく肩を落とした。

「そう」

と漏らし、視線を机に落とす。
 がっかりとする友人へ、明智はなだめるように言う。

「君は相変わらずうっかりしているね。話の順序を考えたまえ。まずは経緯を話すのが筋ってもんだろう」
「あ、ああ、そうだ。そうだったね」

宇津木は眼鏡を掛け直した。ようやく家主は座布団を彼に勧め、彼はそれに座り直して、ここに来るに至った経緯を話しだした。

「そもそもこれは、僕が友人から相談を受けたことから始まった。その友人は僕に会うなり真剣な眼差しで切り出した。ポケモンの転生は可能なのか、と――……」
「ポケモンの転生とは妙なことだ。そういう聞き方では、まるで人間の転生は可能であるようじゃないか。宗教での輪廻転生はよくあることだが、科学的実証はまだされていないんだ」
「あ、ああ。その通りだよ。だから僕はこう答えたんだ。僕の専攻はポケモンの進化であって、宗教学は素人だと」

当時の事を思い出した宇津木は困り顔で頭を掻いた。明智はそらみろ、と肩をすくめる。

「君がここに来たのと変わりないじゃないか。門外漢に質問をしに来るとは、その友人もよほど余裕が無かったのだろうね」
「そうだね……、今振り返るとそうだったのだろう。まあ、とにかくその友人……、名前は工藤というんだが、工藤は真面目な顔で首を振った。そんなことは分かっているが君しか頼れないんだ、と言って話を続けた」

宇津木は工藤を真似ているのか、声を低くして続けた。

「亡くなったポケモンを転生させる、そんな宗教があるんだ」
「ほう」

明智は左手で顎を撫でた。

「工藤は……早い話がその宗教に勧誘されていた。そして彼の方も、半信半疑だった。言葉の通りだ。心の半分では疑っていても、もう半分では信じていたんだ。信じたかったのだろう」
「それは何故?」
「工藤は2ヶ月前にパートナーのポケモンを亡くしている。正確に言うと一年ほど前に行方不明になった。そして、ええっと、亡骸が実家近くで発見されたんだ。それが2ヶ月前だ」
「工藤氏はポケモンを蘇らせてくれるのであれば、その宗教を頼りたい。しかしどうにも胡散臭い。少しでもポケモンに詳しい君にその宗教が本当であるかどうかを確かめてほしかった。そういう訳だね?」
「ああ。その宗教……、名前を、ホウオウの巫女だ」
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