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ちょっとした小咄

例えば、チューリップの芽を雪から護りたいと思う気持ちとか
捨てられた子猫を冷たい雨から護りたいと差し伸べる気持ちのようなものでも



を忘れる




「参りましたね」

目の前に広がる光景に、弓弦は重くため息を吐いた。
突然の通り雨。それの所為で世界は隅々までじっとりと濡れている。
そして運が悪いことに、どうもこの雨はしばらくやむつもりがないらしい。
ばらばらと、地面を叩きつける雨音、跳ねる水。なかなか雨脚は強い。

「今日は雨は降らないといっていたのですけどね」

天気予報ですら報じなかった急変だ。
今弓弦がいる駅のショッピングセンターに幾つか緊急用のビニール傘を取り扱っている店舗もあったが、軒並みSOLD OUTとなっていた。
しかもすぐに済むだろうと思っていたため、携帯電話も家に置いて来てしまっていた。
濡れて帰ってもいい、たかが10分程度の道のりだ。
しかし、弓弦が躊躇しているのは腕に中にあるものに理由があった。

『スコーンが、食べたいんだけど』

夕食が終わって、片付けをしていた時のことだった。
宿題に取り組んでいる主が、徐にそういった。

『スコーン、ですか』
『そう、今近くの駅に英智様が好きなスコーン屋さんが来てるんだって。宿題終わったら一緒にfineの企画書作るでしょ?夜食に一緒に食べながら作ろうよ』
『そうはいっても今日の熱量、炭水化物、脂質共に規定量摂取済みですよ』
『固いこと言わないの!英智様が好きなスコーン食べたら英智様みたいな凄い発想が下りてくるかもしれないじゃん』

そう押し切られたのが約30分前。
そしてこの場所に来て少し並んで、購入したのが今弓弦の腕の中にあるものである。
紙袋に入って、薄いビニール袋に入ったそれはまだ温かいらしく、袋の中はすこし水滴がついている。
これをうまくジャケットでくるんで走ることはできなくもない。
しかし、頑張っても少し濡れてしまうだろうし、湿気てしまいそうだ。
うちの料理人は優秀だから上手く、トースターで元の姿に戻してはくれるだろうが、ただ何となく憚られた。

(雨から何かを護るというのも、中々自分らしくないですけどね)

姫宮の家に来る前は、雨なんてどうってことなかった。
寧ろ雨はどちらかといえば好都合だった。
音も気配もかき消される、匂いも流される。
下着までじっとり濡れても尚、ターゲットを仕留めるために雨の中に身を置いたものだった。
何かが濡れることも、誰かが濡れることも、ましてや自分が濡れることも全く厭わなかった。
そんな自分が、たった数個のスコーンが濡れることに悩んでいるなんて。
茨あたりに知られたら、寧ろ過去の自分に知られたらきっと眉を顰められるだろう。
あの過去を、疎ましく思っているわけでもない。それでも今、あの時の自分に戻りたくないのもまた事実で。

(とはいっても、いつまでもこうしている訳にはいかない、ですね)

よし、と弓弦は自分の羽織っていたジャケットを脱ぐと、スコーンが入った袋をそれで包んだ。
そして隙間がないようにすると、腕にしっかりと抱え、雨の降りしきる夜の闇へと一歩踏み出した。
腕に当たる雨粒はすこし、冷たい。しかし我慢できない温度でもない。

と、その瞬間だった。

「弓弦!!」

暗闇を切り裂く、高い声。
そして次の瞬間、どんと自分の体が押され、後ろによろける。
何だと思う前に、腕を取られ、引っ張られ、そして屋根のある場所へと連れていかれた。
その腕を掴んでいたのは―。

「ぼ、坊ちゃま?何故ここに」

桃色の髪をして自分より、頭一つ分ほど背が低い少年―弓弦の主である姫宮桃李だった。
桃李は少し怒った顔をして弓弦に険しい視線を向けていた。

「執事長が、凄い雨降ってきたけど弓弦が傘持っていないっていってたから、持って来たんだよ」
「え」
「全く主に傘を持ってこさせるなんてダメな執事だよね、弓弦は」
「わ、私は」
「来てよかったよ。お前、濡れて帰ろうとしたでしょ?馬鹿じゃないの、こんな寒いのに雨にぬれたりしたら風邪ひくでしょ」
「も、申し訳ありません、でした」
「ふふん、特別に許してやろう~」

そういうと桃李は嬉しそうに笑う。そして弓弦の手を引きながら言った。

「ほら帰るよ、弓弦」

僕、早くスコーン食べたいんだから。

そして彼が持つ一つの傘に一緒に入る。
再び、雨が容赦なく二人を狙ってくるが、それは撥水性のある布に防がれる。
雨を防いでいる、なんて意識するのは、もっと言えば護られるなんて思うのはいつ以来だろうと思う。
そんな小さな幸せを、この生活を始めてから弓弦は日々思い知らされるのだった。
はじめは鬱陶しいと思っていた、この小さな主に。

「坊ちゃま」
「なに」
「ありがとうございます。弓弦は幸せ者でございます」
「ふふん、そうだろう?お前は良い主を以て幸せ者だよ~」
「でも、夜道は危ないですから、一人で出歩いてはいけませんよ」
「ん、僕がこんな大雨の中、一人で歩いてきたと思ってるわけ?」

車で来たよ、と彼が言う先には見慣れた姫宮の車。
そこには楽しそうに笑う運転手と、少し怖そうな顔をしている執事長の姿。
これは、帰ったら怒られ、揶揄されるのだろう。そう思うと少し気が重い。
しかし。

「英智様の好きなスコーン、楽しみだなぁ~」

楽しそうな彼の笑顔を思うと、どこか報われる気がするのだから―――。




差し伸べられる彼の優しさの一つ一つに
自分は少しずつ癒されていく


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姫宮主従。
二人は二人でいることで(もちろん他のメンバーの存在も大きいですが)成長していく感じが凄く好きです。
大人になった時の二人を妄想するのが楽しくも切ない。どっちの道に進むのかしら…!
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