ヒカルの碁
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ニュースを横目で見ながら、少し皺の残る白いワイシャツに袖を通し、慣れた手つきでネクタイを締める。
プロになってもうすぐ二十年。
まさかこんなに長く続けられるなんて、もちろん目指してはいたけれど実現出来るとは思っていなかった。
とはいえ俺は、タイトル一つ取れぬままプロ棋士の肩書きを背負って講師や解説役を続けている。
同時期にプロになった連中は三つだか四つ目のタイトルを争っているというのに。
(あ、今日天気崩れないのか。よかった)
だが、案外今の生活が性にあっているような気もしている。
若い頃はとにかく強くなることに必死で、一つでも多く勝ち星をと躍起になっていたけれど、歳を重ねるごとにそういった競争心みたいなものは落ち着いてきて、子ども相手の指導碁や大盤解説をしている方が碁を打っていて楽しいと思えるようになった。
和谷には隠居するのはまだ早い、なんて笑われたけれど。
(コーヒーも飲んだし、そろそろ出るか)
ジャケットを羽織ってテレビを消し、革靴を履いて外に出る。
今日は季節外れの晴天らしい。
雲ひとつない、いい天気だ。
(千颯に会った日も、こんな天気だったな)
まだ鮮明に残る笑顔を思い浮かべて、少しだけ感傷に浸る。
どこで、何をしているのだろうか。
きっとお前のことだから、俺よりもずっと早く新しい幸せを手にしているだろう。
変わらずに笑っていてくれれば、それでいい。
(……頭ではわかっているんだけどな)
今になっても消せない電話番号。
もしかしたらもう変わってしまっているかもしれないのに。
万が一の奇跡を信じて、削除出来ずにいる。
(女々しい……よな……)
自嘲気味に零した笑みは、あっという間に地面に落ちて消えた。
『あ、もしもし?伊角さん?いまどこ?』
「さっき家を出て、もうすぐ駅。和谷、まさか寝坊……」
『してねーよ!』
電話口で膨れっ面を作っている相棒の顔が目に浮かぶ。
プライベートな約束ならともかく、仕事の予定ならよっぽどの事がない限りあいつが遅れるようなことをするはずがない。
そういうところは俺よりしっかりしてる奴だから。
『そうじゃなくて!今日終わった後なんだけど』
傾けていたはずの耳は、その仕事を一切やめた。
横断歩道の向こうに立つ、一人の女性を見つけてから。
まさか、と無意識のうちに零れて、スマホがするりと手から落ちた。
その場から動けない。
まるで身体が石にでもなったようだ。
《もし今度偶然出会った時に、お互いまだ一人だったら……
その時は諦めて、やり直そっか》
そう笑って別れた千颯の姿を思い出す。
あの時はそんな奇跡が起きるはずないと思っていたけれど。
彼女は今、俺の目の前に立っている。
横断歩道を挟んだ向こうに、立っている。
俺が見間違うはずが、ない。
「……千颯っ……!」
荷物は足元に投げ出して、信号が青になった瞬間駆け出した。
日頃の運動不足が祟って、ほんの少しの距離でも息が上がってしまうが、そんなことはどうでもいい。
彼女の元へ到着するや否や、人目もはばからずに強く抱きしめた。
「……久しぶり」
数年ぶりに聞く、千颯の声。
驚いた様子もあるけれど、どこか安堵しているようにも聞こえた。
「……会えるなんて、思ってもみなかった……」
「ごめん、約束破って」
「え?」
「会いに、来たの。慎一郎さんに」
それは、つまり。
皆まで言わずとも、もうわかる。
拒む理由は、どこにもない。
「そんなこと、どうでもいい」
いま、この瞬間、この腕の中に千颯がいる。
それだけで俺は、何よりも幸せだった。
「もう一度、俺の彼女になってください」
プロになってもうすぐ二十年。
まさかこんなに長く続けられるなんて、もちろん目指してはいたけれど実現出来るとは思っていなかった。
とはいえ俺は、タイトル一つ取れぬままプロ棋士の肩書きを背負って講師や解説役を続けている。
同時期にプロになった連中は三つだか四つ目のタイトルを争っているというのに。
(あ、今日天気崩れないのか。よかった)
だが、案外今の生活が性にあっているような気もしている。
若い頃はとにかく強くなることに必死で、一つでも多く勝ち星をと躍起になっていたけれど、歳を重ねるごとにそういった競争心みたいなものは落ち着いてきて、子ども相手の指導碁や大盤解説をしている方が碁を打っていて楽しいと思えるようになった。
和谷には隠居するのはまだ早い、なんて笑われたけれど。
(コーヒーも飲んだし、そろそろ出るか)
ジャケットを羽織ってテレビを消し、革靴を履いて外に出る。
今日は季節外れの晴天らしい。
雲ひとつない、いい天気だ。
(千颯に会った日も、こんな天気だったな)
まだ鮮明に残る笑顔を思い浮かべて、少しだけ感傷に浸る。
どこで、何をしているのだろうか。
きっとお前のことだから、俺よりもずっと早く新しい幸せを手にしているだろう。
変わらずに笑っていてくれれば、それでいい。
(……頭ではわかっているんだけどな)
今になっても消せない電話番号。
もしかしたらもう変わってしまっているかもしれないのに。
万が一の奇跡を信じて、削除出来ずにいる。
(女々しい……よな……)
自嘲気味に零した笑みは、あっという間に地面に落ちて消えた。
『あ、もしもし?伊角さん?いまどこ?』
「さっき家を出て、もうすぐ駅。和谷、まさか寝坊……」
『してねーよ!』
電話口で膨れっ面を作っている相棒の顔が目に浮かぶ。
プライベートな約束ならともかく、仕事の予定ならよっぽどの事がない限りあいつが遅れるようなことをするはずがない。
そういうところは俺よりしっかりしてる奴だから。
『そうじゃなくて!今日終わった後なんだけど』
傾けていたはずの耳は、その仕事を一切やめた。
横断歩道の向こうに立つ、一人の女性を見つけてから。
まさか、と無意識のうちに零れて、スマホがするりと手から落ちた。
その場から動けない。
まるで身体が石にでもなったようだ。
《もし今度偶然出会った時に、お互いまだ一人だったら……
その時は諦めて、やり直そっか》
そう笑って別れた千颯の姿を思い出す。
あの時はそんな奇跡が起きるはずないと思っていたけれど。
彼女は今、俺の目の前に立っている。
横断歩道を挟んだ向こうに、立っている。
俺が見間違うはずが、ない。
「……千颯っ……!」
荷物は足元に投げ出して、信号が青になった瞬間駆け出した。
日頃の運動不足が祟って、ほんの少しの距離でも息が上がってしまうが、そんなことはどうでもいい。
彼女の元へ到着するや否や、人目もはばからずに強く抱きしめた。
「……久しぶり」
数年ぶりに聞く、千颯の声。
驚いた様子もあるけれど、どこか安堵しているようにも聞こえた。
「……会えるなんて、思ってもみなかった……」
「ごめん、約束破って」
「え?」
「会いに、来たの。慎一郎さんに」
それは、つまり。
皆まで言わずとも、もうわかる。
拒む理由は、どこにもない。
「そんなこと、どうでもいい」
いま、この瞬間、この腕の中に千颯がいる。
それだけで俺は、何よりも幸せだった。
「もう一度、俺の彼女になってください」