ヒカルの碁
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<片翼の天使 前>
いつもよりも遅く終わった手合いの帰り道。
なんとなく家に帰る気分になれず、かと言って誘う相手も生憎今日はいない。
普段なら聞く前に声をかけてくる和谷も進藤も、そういえば地方での指導碁のため遠征の真っ最中だ。
仕方なく夜の帳の降りた街をふらふらと歩いていると、ふと目についた看板があった。
古ぼけたそれはぎしぎしと音を立てて、今にも外れそうである。
こういった店にはあまり入らないのだが、これも何かの巡り合わせかもしれない。
不協和音を立てるドアをなんとか開けると、そこは僅かな灯りしか点いていない、小さなバーだった。
営業しているのかすら疑わしかったが、カウンターにはバーテンダー服を身に纏った初老の男性が小気味良いリズムでシェイカーを振っている。
その向かいには、ワインレッドのパーティードレスに身を包んだ女性がひとり。
客はそれだけだった。
「……すみません、いいですか?」
恐る恐る尋ねてみると、マスターは意外にもにこやかにどうぞとカウンター席へ案内してくれたので、やや緊張気味に彼女からひとつ席を空けて座った。
こういう場所ですんなりいつもの、などと注文できれば多少は様になるのだろうが、如何せんそうはいかない。
控えめな声でカンパリオレンジをとマスターに注文すると、隣からくすりと笑い声が聞こえた。
「……ふふっ、ごめんなさい。」
「え、あ……変、ですか……?」
「ううん、ずいぶん可愛らしいもの頼むのね。」
そう言って、自身のグラスに唇を寄せる彼女。
艶めいたその行為から慌てて目を逸らし、こくりと流れていくレモンイエローのカクテルに視線を落とす。
めざとくそれに気づいて、これはサイドカーよとまた笑った。
度数が強いのでフルーティで飲みやすいので、女性向けなのだと教えてくれたが、女の子をお持ち帰りするためのカクテルだったりして、と最後に悪戯っぽく微笑んだのには、一瞬くらりと目眩がした。
オフショルダーのドレスはざっくりと露わになった肩から鎖骨にかけてのラインを余計に美しく見せている。
そのせいなのか、はたまた女性慣れしていないことを看過されて、わざと揶揄うように距離を詰められたからなのか。
「見慣れない顔ね。ここへは初めて?」
「えぇ、まぁ……」
「そう……じゃぁ、カンパイしましょ。」
何にどうカンパイなのかは皆目検討もつかないが、こちらのそんな困惑は御構い無しで彼女は楽しそうにグラスを傾けてきた。
からん、と乾いた心地よい音が小さく響く。
「あなた、名前は?」
「あ……い、伊角……慎一郎、です……」
「慎一郎くん、ね。あたしは千颯。」
それが、彼女との始まりだった。
●○●
会うのは決まって、あのバーだった。
約束こそしないものの、訪れた時には必ず彼女がいた。
とりとめのない話をしては、頭がぐらぐらするまで飲まされた。
それなのに彼女が酔いつぶれた姿は終ぞ見たことがない。
顔色ひとつ変えずに何杯もカクテルを煽っていた。
ただ、笑顔の奥に時折すっと焦点を失ったような眼差しになることは何度もあった。
その時はさすがに彼女も酔っているのだろうと解釈していたが、あの日を迎えた瞬間、何かが壊れたような気がした。
「……あれ?」
いつものようにバーを訪れたが、マスターの前は空席になっていた。
たまたま遅れたり、来ない日もあるだろうとは思っていたが、そんな日が数ヶ月続いた頃にはさすがに疑わざるを得なくなった。
「彼女なら、しばらく来ないと思いますよ。」
淡々と抑揚のない声でマスターは鋭利に言い放った。
「どういう……こと、ですか?」
仕事みたいなもの、とは言うもののそれにしては、随分歯切れが悪い。
詰め寄るように前のめりになると、一瞬言い淀んでから、マスターはほんの少しだけ彼女のことを語り始めた。
その中に、羽振りこそ良いがあまり良くない噂の多い者と関わりがあるのではという話もあった。
それは、つまり。
何やらいやな予感が込み上げてきて、居ても立っても居られず店を飛び出した。
行く宛てなどないし、外は季節外れの大雨だ。
出来れば杞憂に終わって欲しいものだが、可能性はどれくらいあるのだろう。
どうか無事でと願いながら、しらみつぶしに夜の街を駆けた。
●○●
そして、見つけた。
土砂降りの雨に打たれながら、路地裏でひっそりと膝を抱えて座り込んでいる千颯を。
小さく名前を呼ぶと、ゆっくり視線が向けられ、それが交わると不思議そうな表情になった。
「……し、……ちろ……くん……?」
どうしてここに?と言わんばかりだ。
いつも綺麗にふわりと揺れていた髪も服も乱れに乱れ、所々には亀裂が入っている。
ぐちゃぐちゃになったワンピースの袖から伸びる腕にも、出来てからそう時間の経っていない複数の痣。
それだけ見れば、ここで彼女に何が起きたのか聞くまでもない。
「……っ!」
何を言ったらいいのか、どうしたらいいのか、全くわからない。
ただただ、衝動的に傘も投げ捨てて抱きしめた。
飛びついたといった方が正しいのかもしれないが。
一瞬びくりと震える肩。
だが、抵抗はしない。
「…………帰ろう。」
耳元でそう告げると、千颯は小さく頷いた。
自宅に戻ると、まずは急いで彼女を暖かい風呂に入れ、そしてベッドに寝かせた。
「何も考えなくていいから、ゆっくり休めよ。」
「……ん……ありがと……」
安心しきったように目を閉じると、数分もしないうちに小さく寝息を立て始めた。
ほっと胸を撫で下ろす。
これが例え束の間の休息だとしても、彼女が心おきなく休めるのならばそれでいい。
「……おやすみ」
極力音を立てぬよう静かに寝室のドアを閉め、回復を待つことにした。
それからしばらくして。
彼女が目を覚ました頃にはすっかり時間も経ち、日付も更新された後の夜だった。
さすがに気になって様子を見にきたところで丁度気がついたらしい。
「おはよう……って言ってももう陽は暮れてるけど。」
「え、そんなに寝てたんだ……?」
「よく寝られたか?」
「……ん……まぁ……」
とはいえ、まだだいぶ寝ぼけているようで、半身こそ起こしたものの眠そうに瞼を擦っている。
いつものバーで見ていた彼女はメイクもきちんと施して品の良さそうな服を纏っていたのに、今は打って変わって化粧ひとつしていないし、服も風呂上がりに貸しただぼだぼの着古したグレーのスウェットだ。
ここまで無防備な姿は逆に新鮮だった。
「……聞かないの?」
「なにを?」
「あたしが昨日……なんであそこにいたのか、とか……」
少し怯えたような表情が見て取れたので、同じくベッドに腰掛けて、優しく頭を撫でてやる。
「別に、話したくなければ無理には聞かないよ。」
「……あっそ……」
ぶっきらぼうに言い放って視線を逸らされてしまうけれど、少しの沈黙を挟んだ後、千颯は話しを始めた。
「独り言だから、聞かなくてもいいよ。」
窓の外を焦点の定まらない瞳で見つめながら、自らの境遇をぽつりぽつりと吐き出し始めた。
幼い頃に母親を亡くし、絵に描いたような暴君の父と過ごしていたこと。
物心着く頃には、彼女が母親譲りの容姿端麗だったせいで父親の仲間内やその関係者の慰みモノにされてきたこと。
「要するに……都合のいい商売道具にされてた……んだよね」
思い返せば、千颯の笑顔も、この何かを諦めたような表情ばかりだった。
その意味をようやく理解した。
心と自分を殺して、間違っているとわかっていても周りの大人の言いなりになるしか、生きる術を知らないのだ。
「こんな風に頭、撫でてもらったの……初めて」
その小さな背中に、どれだけの枷を背負ってきたのだろう。
何も出来ない無力さだけが込み上げてくる。
どうしてもっと早く彼女を見つけることが出来なかったのか、と。
「……ごめん。」
「なんで慎一郎くんは謝る必要なんてないのに……」
またそうやって、無理して笑顔を作ろうとする。
そんな声を震わせてまで笑ってほしい訳じゃない。
「もう、いいんだ。泣いて、いいんだよ。」
泣きたいなら、泣けばいい。
辛いなら、辛いと言えばいい。
怖いなら、怖いと言えばいい。
それは難しいことじゃない。
強く、包み込むように千颯を抱きしめた。
戸惑いこそすれ、伝わるぬくもりが心の何かに触れたのか、ひくひくと肩を震わせる。
ぐしゃりと服を掴んで、小さく嗚咽を洩らしている。
我慢しなくていいとゆっくり頭を撫でてやると、ようやく彼女をは頬に涙を伝わせた。
子供のようにわんわん泣きじゃくり、ずっと心の奥に隠してきた、言葉にならない声を全て吐き出すように。
「……こんなに泣いたの、初めて、かも……」
ひとしきり涙を流し終えた彼女は、ぼんやりと天井を眺めながらぽつりと呟いた。
「随分すっきりした顔になったな。」
「やめてよ……こんな不細工な顔……」
わざと揶揄うように笑うと、珍しく頬をぶぅっと頬を膨らませて胸元に顔を埋めてくる。
そんな千颯を愛おしそうに包み込んだ。
「……心臓の、おと……聞こえる……」
「そりゃぁ、生きてるからな。」
「……ん……安心、する……」
泣き疲れたせいだろうか、そのまますぅっと目を閉じて、規則的な寝息を立て始めた。
きっと、本当は甘えたがりの普通の女の子なのだろう。
それが、いろいろな境遇が重なって、必死に心を殺して強くなるしか生きていく術がなくなってしまった。
戦わなければならなかった。
「もう、頑張らなくていいよ。」
その言葉が届いたかどうかはわからないが、彼女の明日が少しでも明るくならんこと願いながら、静かに瞼を閉じた。