ヒカルの碁
name change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
ふと足を止めて見上げる、日本棋院の建物。
院生を辞めてからというもの、しばらくの間はいろんな気持ちが行ったり来たりしていて
心の整理がつかなかったこともあって、なんとなく避けていた。
気がつけば、あっという間に数年が過ぎていた。
懐かしいななんて言葉まで溢れてしまうくらい、ご無沙汰だ。
別に、用があったわけではない。
囲碁の世界から縁遠い生活をしている私にとっては、ここはもう別世界。
ただ、一つだけ。
ほんの小さな心残りがあったから。
「……なんて、そんな偶然あるわけないよね。」
やっぱりまだ足を踏み入れる勇気はなくて。
自嘲気味なため息とともに踵を返す。
と、その時。
「……奈瀬?」
不意に後ろから声をかけられた。
まさか、と反射的に振り返る。
どうして、なんで。
いろんな言葉が脳内を駆け巡る。
だって、ずっと会いたかった人がそこにいるのだから。
「い、伊角……くん……」
「やっぱり!久しぶりだなぁ!」
顔を綻ばせて駆け寄ってくる彼は、最後に会った時とぜんぜん変わってない。
それでも月日の流れを感じさせるように、
あの頃よりもずっと大人の顔をしていた。
「今日は……手合い?」
「いや、ちょっと用事があってたまたま寄っただけだよ。」
「そう、なんだ……」
上手く笑えているだろうか。
プロ試験に受からなくて諦めてしまったわたしをどう思っているんだろうか。
不安な気持ちが前に出てこないように、一生懸命笑顔を作る。
「奈瀬は?なんか用事?」
「ううん、わたしもたまたま近くを通っただけ。」
随分苦し紛れの言い訳だと自分でも思う。
それでも彼は優しいから、何も言わずにそうなんだと頷いてくれる。
曖昧な笑顔のままのわたしに、伊角くんは何かを察したのか
立ち話もなんだからと近くのカフェに入ろうと提案してくれる。
「へぇ……こんなところあったんだ。」
わたしが通っていた気付かなかったお店。
というよりは、敷居が高すぎて入れなかったお店。
こぢんまりとしているけれど、落ち着いていて上品でレトロな雰囲気がとてもいい。
いかにも彼が好きそうだなと思った。
「手合いの前とか、時々来るんだ。」
「へぇ……。」
「ここのコーヒー、すごく美味いよ。」
席に着くと、そのおすすめ通り、コーヒーを2つオーダーする。
前は缶コーヒーも飲めなかったのにねとお互いに顔を見合わせて小さく笑った。
それから、少しずつ思い出話や近況報告なんかをした。
プロになったみんなは相変わらず頑張っているらしい。
伊角くんも和谷も、ちょうどタイトル戦のトーナメントで大変な時期だとか。
そんな中でふと思い出したように、彼が口を開いた。
「そういえば、あの頃奈瀬って和谷のこと好きだったよな。」
「は?」
「違った?」
正直、そんな言葉が飛び出て来るなんて夢にも思わなかった。
だってあの伊角くんだし。
恋愛話から一番遠い存在だと思っていたのに。
それなのに、まさか図星を指されるなんて。
「……なんで……今更……」
「なんとなく、思い出して。」
「もー……伊角くんってそういうとこあるよね〜」
マイペースというか、なんというか。
「……うん、確かにそんな時期もあったよ。」
「そっか。」
「でも、あの時はそれ以前に碁のことでいっぱいだったから……」
多分、本気じゃなかった。
そう告げると、なぜか合点がいったような顔をされた。
「今は……違うよ。」
無意識に、言葉が出た。
「今なら……伊角くんと付き合ってみたかったなーなんて。」
こんなこと、言うつもりじゃなかったのに。
一度溢れてしまった言葉は取り消せない。
とんでもないことを口走ってしまったと、慌てて我に返るけどもう遅い。
恐る恐る彼の反応を窺うと……
「……いいよ。」
全てを見透かしたような表情で微笑みながら、確かに頷いた。
店の大きな古時計が、ぼーんと時間の流れを響かせる。
まるで何かが始まると告げるかのように。
Fin.
院生を辞めてからというもの、しばらくの間はいろんな気持ちが行ったり来たりしていて
心の整理がつかなかったこともあって、なんとなく避けていた。
気がつけば、あっという間に数年が過ぎていた。
懐かしいななんて言葉まで溢れてしまうくらい、ご無沙汰だ。
別に、用があったわけではない。
囲碁の世界から縁遠い生活をしている私にとっては、ここはもう別世界。
ただ、一つだけ。
ほんの小さな心残りがあったから。
「……なんて、そんな偶然あるわけないよね。」
やっぱりまだ足を踏み入れる勇気はなくて。
自嘲気味なため息とともに踵を返す。
と、その時。
「……奈瀬?」
不意に後ろから声をかけられた。
まさか、と反射的に振り返る。
どうして、なんで。
いろんな言葉が脳内を駆け巡る。
だって、ずっと会いたかった人がそこにいるのだから。
「い、伊角……くん……」
「やっぱり!久しぶりだなぁ!」
顔を綻ばせて駆け寄ってくる彼は、最後に会った時とぜんぜん変わってない。
それでも月日の流れを感じさせるように、
あの頃よりもずっと大人の顔をしていた。
「今日は……手合い?」
「いや、ちょっと用事があってたまたま寄っただけだよ。」
「そう、なんだ……」
上手く笑えているだろうか。
プロ試験に受からなくて諦めてしまったわたしをどう思っているんだろうか。
不安な気持ちが前に出てこないように、一生懸命笑顔を作る。
「奈瀬は?なんか用事?」
「ううん、わたしもたまたま近くを通っただけ。」
随分苦し紛れの言い訳だと自分でも思う。
それでも彼は優しいから、何も言わずにそうなんだと頷いてくれる。
曖昧な笑顔のままのわたしに、伊角くんは何かを察したのか
立ち話もなんだからと近くのカフェに入ろうと提案してくれる。
「へぇ……こんなところあったんだ。」
わたしが通っていた気付かなかったお店。
というよりは、敷居が高すぎて入れなかったお店。
こぢんまりとしているけれど、落ち着いていて上品でレトロな雰囲気がとてもいい。
いかにも彼が好きそうだなと思った。
「手合いの前とか、時々来るんだ。」
「へぇ……。」
「ここのコーヒー、すごく美味いよ。」
席に着くと、そのおすすめ通り、コーヒーを2つオーダーする。
前は缶コーヒーも飲めなかったのにねとお互いに顔を見合わせて小さく笑った。
それから、少しずつ思い出話や近況報告なんかをした。
プロになったみんなは相変わらず頑張っているらしい。
伊角くんも和谷も、ちょうどタイトル戦のトーナメントで大変な時期だとか。
そんな中でふと思い出したように、彼が口を開いた。
「そういえば、あの頃奈瀬って和谷のこと好きだったよな。」
「は?」
「違った?」
正直、そんな言葉が飛び出て来るなんて夢にも思わなかった。
だってあの伊角くんだし。
恋愛話から一番遠い存在だと思っていたのに。
それなのに、まさか図星を指されるなんて。
「……なんで……今更……」
「なんとなく、思い出して。」
「もー……伊角くんってそういうとこあるよね〜」
マイペースというか、なんというか。
「……うん、確かにそんな時期もあったよ。」
「そっか。」
「でも、あの時はそれ以前に碁のことでいっぱいだったから……」
多分、本気じゃなかった。
そう告げると、なぜか合点がいったような顔をされた。
「今は……違うよ。」
無意識に、言葉が出た。
「今なら……伊角くんと付き合ってみたかったなーなんて。」
こんなこと、言うつもりじゃなかったのに。
一度溢れてしまった言葉は取り消せない。
とんでもないことを口走ってしまったと、慌てて我に返るけどもう遅い。
恐る恐る彼の反応を窺うと……
「……いいよ。」
全てを見透かしたような表情で微笑みながら、確かに頷いた。
店の大きな古時計が、ぼーんと時間の流れを響かせる。
まるで何かが始まると告げるかのように。
Fin.