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オルヴォワールも言えぬまま

職場を出て、ふっと息をついた。
緊張感から解放された頬を、ひんやりとした風がふわりと撫でていく。
鞄から取り出した薄手のマフラーを巻いて歩き出そうとすると、後ろから声を掛けられた。

「あ、お疲れ様です」

声の主は職場の上司でもあるが、ここを出てしまえばその立場は彼氏に変わる。
空いた手は何も言わなくても自然と絡まる。
今日の夕食は何にしようか、などと他愛のない会話をしながら駅に向かっていると、信号で止まった時に彼が反対側の道路を指した。

「あの人、さっきからお前の方見てるけど……知りあい?」

その先を見て、小さくあっと声を上げた。
忘れるはずのない顔がそこあった。
どうして、ヒカルが、ここに。
身体が一気に固まって動けない。
信号が青に変わり、その人がこちらに向かって歩いてくる。
間違いなく、わたしを目指して。

「……よぅ、久しぶり」

数年ぶりに聞いた彼の声は、随分と大人になっていた。
身長もあの頃より少し伸びて、今では視線を上向かせないと目が合わない。

「……久し、ぶり」

ぎこちなく返事をすると、隣にいた彼がそっと耳打ちしてくる。
何か事情がありそうだし、ゆっくり話しておいで、と。
そう言って背中を押してくれた彼に感謝をして、わたしはヒカルと一緒に駅とは反対方向に歩き出した。

  〇●〇

近くのカフェに腰を落ち着かせて、数年ぶりに向き合って座る。
何から話せばいいのかわからなくて、黙って俯くことしかできない。
しばらくの沈黙が流れたのち、先に口を開いたのはヒカルの方だった。

「……さっきの人って……彼氏?」
「……うん。来月……結婚、するの」
「……そっか」

わたしの薬指に輝く銀の環からだいたいは予想していたようだが、わたしの言葉に決定打を打たれて、諦めたように自嘲する。

「やっぱ……そういうヤツ、いるよな……」

アイスコーヒーの氷がからんと乾いた音を立てる。
再びしばしの沈黙を挟んで、ヒカルはついに本題を切り出すことを決めたように、大きく息をついた。

「……なんであの時……黙って出てったのか……聞いてもいいか?」

やはり聞かれるならこれだろう、とは思っていた。
どう答えるのが正解なのか、考えたところで出てくるわけがない。

「……ごめん……自分勝手なことして」

これからの言葉は彼を傷つけるかもしれない。
嫌われてしまうかもしれない。
でも、それも仕方がないことかもしれない。
言葉を選びながら、それでいて正直に、かつての心情を話すことにした。
わたしはあの時、本当にヒカルのことは恋愛対象として見ていなかった。
手を繋いだのも、キスをしたのも、全部その場の空気に呑まれただけの、いわば若気の至り。

「だから……あのままじゃいけないって、思ったの……」

ヒカルが向けてくれている気持ちが本物だと気づいてしまった。
わたしの中途半端な気持ちでこれ以上思わせぶりなことをしてはいけない。
本音を言えば、もう少しあの家で一緒に過ごしたかったのだけれど。

「……なんだよ……嫌われたのかと……思った……」

わたしの話を全て聞き終えると、ヒカルは安堵のため息をついた。
そして、妙にすっきりしたような表情を向けてきた。

「あんな逃げ方、お前ずるすぎだろ」
「……ごめん」
「それだけは絶対許さないからな!」

でもそれ以外は全部水に流すと、ヒカルは言ってくれた。
笑って、すべてを許してくれた。

「……ごめんっ……」
「な、なんだよ……!なにも泣くことないだろ?!」

無意識に流れた涙は、感謝でいっぱいだった。
許されたのがほっとしたからではない。
ただただ、ヒカルの優しさがありがたかった。

  〇●〇

ひとしきり泣きじゃくって、ようやく落ち着いて店を出る頃にはすっかり夜も更けていた。

「こんな遅くまで引き留めて悪かったな」
「ううん。こっちこそ、本当にありがとう」

あれほど避けていたのに、今では今日会えて良かったとさえ思える。

「そういえば、まだ言ってなかったな」
「え?なにを?」
「結婚、おめでとう」

最大級の笑顔で向けられたその言葉に、また涙しそうになってしまった。
どうしてそこまで寛容になれるのだろう。

「……ありがと」
「それと……たまには連絡しても……いい?」

今度は友だちとして。
そうきちんと線引きをしてくれる。
もしかしたら、彼なりの心のけじめなのかもしれないとは思ったけれど、そこまで深読みするのもなんだか野暮なような気がした。

「もちろん!たまにじゃなくても。いつでも連絡して」

連絡先は変えてないから、と付け加えると、少し意外そうな表情が返ってきた。
正確には、変えられなかった、のだけれど。

「わかった!じゃぁ……またな」
「うん。またね」

わたしは右に、彼は左へと歩き出す。

進んでいく方向は違うけれど、確かに繋がっている何かを感じた。
冷たい風がひゅっと頬を掠めていく。
でも、不思議と寒さは感じなかった。
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