オルヴォワールも言えぬまま
玄関先の銀木犀が四度目の花を咲かせた頃。
その日、研究室を出るとヒカルからメールが入っていた。
駅で待ってます、なんて珍しい。
受信してからそう時間は経っていなかったので、簡単に今から向かいますとだけ返信を送り、スマホをリュックの横ポケットに突っ込んで軽やかに歩き出した。
「お疲れさま」
「お、おぅ……お疲れ」
指定された駅に到着すると、大学を出たときの空はまだ綺麗なオレンジ色だったのに、すっかり紺色に変わっていた。
改札の前で広告の貼られた柱に寄りかかって腕を組むヒカルの姿を見つけて声を掛けた。
「ごめん、急に呼び出して」
「全然平気。今日は約束とかなかったし」
並んで歩き出すと、彼はどこか目的を持って歩いているようで、自然と決まった方向に向かっていく。
横断歩道をいくつか渡り、しばらく大通り沿いを抜けて、レンガで作られたショッピング施設の前に辿り着いた。
そこでは、少し早めのクリスマスマーケットを模した小さな催し物が行われている。
「わぁ……すごい綺麗だね!」
連なる電球にライトアップされたマーケットは見ているだけでも心が躍る。
ひとまず見渡して、最初に目についたブースに向かい、ホットワインを二つ注文した。
紙コップに入った、温められた赤ワインは、口に含むと軽く冷えた身体にアルコールを運んで寒さを吹き飛ばしてくれる。
美味しいねと笑顔を向けると、ヒカルも表情を緩ませた。
〇●〇
しばらくマーケットをゆっくりと見て回り、ひと通り見終わったところで休憩を兼ねて、少し離れた場所に置かれたベンチに腰を降ろす。
喧噪を避けるように作られたこの場所は、ぽつぽつと間を空けてカップルが何組か同じように座っていた。
「はぁ~……楽しかった!」
「思ったよりもちゃんとしてたな」
「この前雑誌で特集されてたから、気になってたの。連れてきてくれてありがとう!」
さっきのホットワインがほどよく回って、気温が下がって息が白くなってきていても気にならない。
見上げた星空も、いつも以上に綺麗に見えた。
ここのところ卒論も大詰めでかなり張り詰めた生活をしていたから、こうしてゆったりとした時間を過ごすのはずいぶんと久しぶりな気がする。
ヒカルはひとつ息を吐き出して、一口だけ残っていたホットワインを飲み干した。
「……あの、さ……」
不意に真剣な眼差しを向けられて、背筋がしゃんと伸びる。
紙コップを持つ手に彼のそれが重ねられて、ますます身動きが取れなくなった。
次第に縮まっていく二人の距離。
思わず反射で目をつぶってしまったけれど、はっと我に返って目を開き、慌ててヒカルから一人分の距離を取った。
「……ごめん……」
無意識のうちに涙がこぼれて、それを知られたくなくて、気づいた瞬間に拭い去る。
きっとあのまま目を閉じていれば、わたしはいつもみたいにヒカルとキスしていた。
でも、本能的にそれではいけないと思った。
絞りだすようにこぼれた声はひどく掠れている。
嗚咽のせいで肩の震えが止まらない。
「……ごめん……」
なんとかそれだけをもう一度残して、わたしはその場を立ち去った。
どのみち帰る家は同じなのだけれど、一刻も早く彼の前から離れたかった。
ここにいてはいけないと思った。
来る時は心躍らせて通った道を、今は泣きじゃくりながら逆に駆け抜ける。
頬を撫でていく秋風は、まるで頬を切り裂いていくように冷たく、痛かった。
その日、研究室を出るとヒカルからメールが入っていた。
駅で待ってます、なんて珍しい。
受信してからそう時間は経っていなかったので、簡単に今から向かいますとだけ返信を送り、スマホをリュックの横ポケットに突っ込んで軽やかに歩き出した。
「お疲れさま」
「お、おぅ……お疲れ」
指定された駅に到着すると、大学を出たときの空はまだ綺麗なオレンジ色だったのに、すっかり紺色に変わっていた。
改札の前で広告の貼られた柱に寄りかかって腕を組むヒカルの姿を見つけて声を掛けた。
「ごめん、急に呼び出して」
「全然平気。今日は約束とかなかったし」
並んで歩き出すと、彼はどこか目的を持って歩いているようで、自然と決まった方向に向かっていく。
横断歩道をいくつか渡り、しばらく大通り沿いを抜けて、レンガで作られたショッピング施設の前に辿り着いた。
そこでは、少し早めのクリスマスマーケットを模した小さな催し物が行われている。
「わぁ……すごい綺麗だね!」
連なる電球にライトアップされたマーケットは見ているだけでも心が躍る。
ひとまず見渡して、最初に目についたブースに向かい、ホットワインを二つ注文した。
紙コップに入った、温められた赤ワインは、口に含むと軽く冷えた身体にアルコールを運んで寒さを吹き飛ばしてくれる。
美味しいねと笑顔を向けると、ヒカルも表情を緩ませた。
〇●〇
しばらくマーケットをゆっくりと見て回り、ひと通り見終わったところで休憩を兼ねて、少し離れた場所に置かれたベンチに腰を降ろす。
喧噪を避けるように作られたこの場所は、ぽつぽつと間を空けてカップルが何組か同じように座っていた。
「はぁ~……楽しかった!」
「思ったよりもちゃんとしてたな」
「この前雑誌で特集されてたから、気になってたの。連れてきてくれてありがとう!」
さっきのホットワインがほどよく回って、気温が下がって息が白くなってきていても気にならない。
見上げた星空も、いつも以上に綺麗に見えた。
ここのところ卒論も大詰めでかなり張り詰めた生活をしていたから、こうしてゆったりとした時間を過ごすのはずいぶんと久しぶりな気がする。
ヒカルはひとつ息を吐き出して、一口だけ残っていたホットワインを飲み干した。
「……あの、さ……」
不意に真剣な眼差しを向けられて、背筋がしゃんと伸びる。
紙コップを持つ手に彼のそれが重ねられて、ますます身動きが取れなくなった。
次第に縮まっていく二人の距離。
思わず反射で目をつぶってしまったけれど、はっと我に返って目を開き、慌ててヒカルから一人分の距離を取った。
「……ごめん……」
無意識のうちに涙がこぼれて、それを知られたくなくて、気づいた瞬間に拭い去る。
きっとあのまま目を閉じていれば、わたしはいつもみたいにヒカルとキスしていた。
でも、本能的にそれではいけないと思った。
絞りだすようにこぼれた声はひどく掠れている。
嗚咽のせいで肩の震えが止まらない。
「……ごめん……」
なんとかそれだけをもう一度残して、わたしはその場を立ち去った。
どのみち帰る家は同じなのだけれど、一刻も早く彼の前から離れたかった。
ここにいてはいけないと思った。
来る時は心躍らせて通った道を、今は泣きじゃくりながら逆に駆け抜ける。
頬を撫でていく秋風は、まるで頬を切り裂いていくように冷たく、痛かった。