オルヴォワールも言えぬまま
ヒカルとの生活もあっという間に三回目の秋を迎えようとしていた。
大学の図書館で卒論の資料を探していたら、一つの絵巻物に目が留まった。
庭先に色鮮やかな紅葉が描かれていて、それを眺めながら邸の中では真っ白な狩衣に烏帽子を被った男が小さな箱のようなものに手を伸ばしている。
少し前だったらそれが何なのか、まったく気づかなかっただろうけれど、その人は確かに囲碁を打っていた。
手の伸ばし方が同じだな、なんて頭の片隅にヒカルの影がちらつくことが多くなった。
とはいえ、わたしたちの関係に大きな変化はない。
強いて挙げるとすれば、お互いに触れる回数は増えたかもしれない。
あの時みたいに何となくソファに並んでテレビを見ているときに手を重ねてみたり、お酒の勢いでまたキスをしてみたり。
時にはそのまま同じ布団で寝ることもあるけれど、文字通り朝まで隣で眠るだけ。
だいたいはわたしの方が授業があるからと先に起きるが、最近は午後からの講義も増えてきたから一緒に朝寝坊することもある、そんな程度。
事情を知る数人の友人からは、それで付き合っていないというのがおかしいと散々言われているが、当の本人たちにまったく色恋沙汰の概念がないのだからどうしようもない。
これ以上進展したいかと言われても、よくわからない。
とにかくわたしは目の前に立ちはだかる卒論に向き合わねばならないのだ。
それどころじゃない。
忘れかけていた本来の目的を思い出し、再び資料に視線を落とした。
「この人……笑い方がヒカルに似てる」
気のせいと言われてしまえばそれまでだけど。
第一、平安時代に書かれた絵巻なのだから似ているはずがない。
わたしの頭が、勝手にヒカルとの共通点をこじつけたがっているのかもしれない。
ふるふると何度か頭を振って、余計な思考を飛ばす。
わたしはあくまで一緒に住んでるだけ。
それ以上の関係にはならない。
もう一度、強く心に刻んだ。
○●〇
「……進藤!」
はっと顔を上げると、盤面の向こうで和谷が物凄く険しい表情をしていた。
そういえば、今は彼と昼前に終わった対局の感想戦をしているところだった。
だが、頭の中ではちらちらと彼女のことが浮かんでは消え、浮かんでは消え。
すでに完結している碁石の道筋など考えるどころではなかった。
「……悪りぃ、えっと……なんだっけ?」
「さっきからずっと上の空だな。具合でも悪いのか?」
「いや……」
心配してくれているのはわかっているが、どうしても歯切れの悪い言葉でしか返せない。
囲碁に関することを考えていたならまだしも、微塵も関係のない女の子のことだなんて、口が裂けても言えるわけがない。
誤魔化すように笑って、黒石に視線を落とす。
「……そういやお前、彼女でも出来たのか?」
「はぁ?なんだよそれ……」
「この前すれ違った院生の女子が噂してた」
予想もしない言葉が飛び出して、思わず呆気にとられてしまう。
そもそもどこからそんな話が出てきたのだろうか。
よくよく和谷の話を聞いてみると、その噂をしていた女の子はヒカルに憧れて院生になった子で、棋院で遭遇した時は時間が合えばわざわざ駅まで、数歩後ろをついて帰ったこともあるらしい。
その時にたまたま、駅の改札で女の人と待ち合わせをしているヒカルを見たと言っていたのだとか。
一歩間違えればいろいろと引っ掛かることはあるが、今は横に置いておくことにして。
「それ、一緒に住んでるヤツだよ」
「あー……ルームシェアしてるっていう?」
「そうそう。もう三年くらいになるかな」
彼女が家に来て間もなくの頃に和谷や伊角、それから塔矢など、家を訪ねて来そうな面々には簡単にではあるが、手違いでルームシェアすることになったという話は済ませてあるある。
それが女の子であるということも。
さすがに塔矢には散々文句にも似た小言をマシンガンの如く浴びせられたが。
「そいつ、この近くの大学に通ってんだよ。だから帰る時間が一緒に鳴るときは待ち合わせしたり……は、してた」
「それを勘違いされた、ってことか」
「うん、それだけ」
間髪入れずに頷くヒカルに、和谷は興味本位も含めて探るような視線を向けた。
本当にそれだけか、と。
「それだけ……だけど?」
「んなわけねーだろ!普通、ひとつ屋根の下で男と女が一人ずつって!」
健全な男子なら相手に意識のひとつもあるだろうと詰め寄ってきた。
そうは言われても、実際恋愛感情はない。
これは間違いない。ただ、一緒に暮らしているから、最低限の気遣いをするだけ。
「じゃぁなんでルームシェアなんか続けてるんだよ」
始めて数か月ならまだしも、三年もあればどちらかが次の家を探すことも出来るだろう。
それなのに二人でずっと住み続けているということは。
今まで辿り着くことのなかった答えを唐突に提示されて、ヒカルは言葉が出なかった。
それならば、ここ最近何かしら彼女のことが脳裏をよぎることにも辻褄が合う。
「いや、でも……」
「ほら進藤、どうなんだよ」
向けられた不敵な笑み。
見透かされたようなその表情に、ごくりと息を飲んだ。
大学の図書館で卒論の資料を探していたら、一つの絵巻物に目が留まった。
庭先に色鮮やかな紅葉が描かれていて、それを眺めながら邸の中では真っ白な狩衣に烏帽子を被った男が小さな箱のようなものに手を伸ばしている。
少し前だったらそれが何なのか、まったく気づかなかっただろうけれど、その人は確かに囲碁を打っていた。
手の伸ばし方が同じだな、なんて頭の片隅にヒカルの影がちらつくことが多くなった。
とはいえ、わたしたちの関係に大きな変化はない。
強いて挙げるとすれば、お互いに触れる回数は増えたかもしれない。
あの時みたいに何となくソファに並んでテレビを見ているときに手を重ねてみたり、お酒の勢いでまたキスをしてみたり。
時にはそのまま同じ布団で寝ることもあるけれど、文字通り朝まで隣で眠るだけ。
だいたいはわたしの方が授業があるからと先に起きるが、最近は午後からの講義も増えてきたから一緒に朝寝坊することもある、そんな程度。
事情を知る数人の友人からは、それで付き合っていないというのがおかしいと散々言われているが、当の本人たちにまったく色恋沙汰の概念がないのだからどうしようもない。
これ以上進展したいかと言われても、よくわからない。
とにかくわたしは目の前に立ちはだかる卒論に向き合わねばならないのだ。
それどころじゃない。
忘れかけていた本来の目的を思い出し、再び資料に視線を落とした。
「この人……笑い方がヒカルに似てる」
気のせいと言われてしまえばそれまでだけど。
第一、平安時代に書かれた絵巻なのだから似ているはずがない。
わたしの頭が、勝手にヒカルとの共通点をこじつけたがっているのかもしれない。
ふるふると何度か頭を振って、余計な思考を飛ばす。
わたしはあくまで一緒に住んでるだけ。
それ以上の関係にはならない。
もう一度、強く心に刻んだ。
○●〇
「……進藤!」
はっと顔を上げると、盤面の向こうで和谷が物凄く険しい表情をしていた。
そういえば、今は彼と昼前に終わった対局の感想戦をしているところだった。
だが、頭の中ではちらちらと彼女のことが浮かんでは消え、浮かんでは消え。
すでに完結している碁石の道筋など考えるどころではなかった。
「……悪りぃ、えっと……なんだっけ?」
「さっきからずっと上の空だな。具合でも悪いのか?」
「いや……」
心配してくれているのはわかっているが、どうしても歯切れの悪い言葉でしか返せない。
囲碁に関することを考えていたならまだしも、微塵も関係のない女の子のことだなんて、口が裂けても言えるわけがない。
誤魔化すように笑って、黒石に視線を落とす。
「……そういやお前、彼女でも出来たのか?」
「はぁ?なんだよそれ……」
「この前すれ違った院生の女子が噂してた」
予想もしない言葉が飛び出して、思わず呆気にとられてしまう。
そもそもどこからそんな話が出てきたのだろうか。
よくよく和谷の話を聞いてみると、その噂をしていた女の子はヒカルに憧れて院生になった子で、棋院で遭遇した時は時間が合えばわざわざ駅まで、数歩後ろをついて帰ったこともあるらしい。
その時にたまたま、駅の改札で女の人と待ち合わせをしているヒカルを見たと言っていたのだとか。
一歩間違えればいろいろと引っ掛かることはあるが、今は横に置いておくことにして。
「それ、一緒に住んでるヤツだよ」
「あー……ルームシェアしてるっていう?」
「そうそう。もう三年くらいになるかな」
彼女が家に来て間もなくの頃に和谷や伊角、それから塔矢など、家を訪ねて来そうな面々には簡単にではあるが、手違いでルームシェアすることになったという話は済ませてあるある。
それが女の子であるということも。
さすがに塔矢には散々文句にも似た小言をマシンガンの如く浴びせられたが。
「そいつ、この近くの大学に通ってんだよ。だから帰る時間が一緒に鳴るときは待ち合わせしたり……は、してた」
「それを勘違いされた、ってことか」
「うん、それだけ」
間髪入れずに頷くヒカルに、和谷は興味本位も含めて探るような視線を向けた。
本当にそれだけか、と。
「それだけ……だけど?」
「んなわけねーだろ!普通、ひとつ屋根の下で男と女が一人ずつって!」
健全な男子なら相手に意識のひとつもあるだろうと詰め寄ってきた。
そうは言われても、実際恋愛感情はない。
これは間違いない。ただ、一緒に暮らしているから、最低限の気遣いをするだけ。
「じゃぁなんでルームシェアなんか続けてるんだよ」
始めて数か月ならまだしも、三年もあればどちらかが次の家を探すことも出来るだろう。
それなのに二人でずっと住み続けているということは。
今まで辿り着くことのなかった答えを唐突に提示されて、ヒカルは言葉が出なかった。
それならば、ここ最近何かしら彼女のことが脳裏をよぎることにも辻褄が合う。
「いや、でも……」
「ほら進藤、どうなんだよ」
向けられた不敵な笑み。
見透かされたようなその表情に、ごくりと息を飲んだ。