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オルヴォワールも言えぬまま

それは、彼女との生活もすっかり当たり前になって、一年が過ぎた頃。

「っぷはー。あー……疲れた」

ソファにどっかと座って、缶ビールのプルタブを開けて一気に煽る。
今日の夕方まで地方へ三泊四日ほど、若手プロ棋士を集めた大きなイベントに半ば無理矢理参加させられ、現地で散々指導碁や多面打ち、エキシビションマッチのような対局を何度も打ってきた。
さすがに精神的疲労がピークになり、帰りの新幹線も爆睡。
帰ってきてからも荷解きすらそこそこにベッドへ倒れこんで、さっきようやく目を覚まして軽くシャワーを浴びてきたところだ。
せっかく久しぶりの我が家。
今夜はゆっくり羽を伸ばそうと、イベント参加のお礼に現地のおじさんたちに持たされたビールを堪能することにした。

「あれ?晩酌なんて珍しいね」

そんな折、風呂上がりの濡れた髪のままタオルを首に掛けた彼女がリビングにやってきた。
一緒に飲むかと誘ってみたら、案外すんなり首を縦に振る。
ぱたぱたとキッチンへ駆けてゆき、冷蔵庫から冷えた缶チューハイをもってきて、すとんとオレの隣へ腰を降ろした。

「ヒカル、なに飲んでんの?」
「えっと、なんか地ビールみたいなやつ?」
「あぁ、いっぱいもらって来てたやつか」

彼女の持つ缶チューハイはオレの物に比べると随分アルコール度数が低い。
ほろ酔いくらいがいいんだと言っていたけれど、本当は酒自体そんなに強くないことはバレバレだ。
もらいもののビールと、近所のスーパーで安売りしていた缶チューハイで乾杯。
我ながら安上がりなものだと密かに笑った。

「……この家、結構広かったんだね」

不意にぽつりと彼女がこぼした。
感情の読めない表情の隙間からぽろぽろ言葉がこぼれ落ちる。

「一人になるの……初めてだったからさ。びっくりしちゃった」

……こくん。

チューハイが喉を通る音の裏側に一体どれだけの想いを隠したのだろう。
この時ばかりは心の機微を読み取れない自分を恨めしく思った。
どう答えたらいいのかわからなくて、小さく彼女の名前を呼んでみる。
ゆっくりと肩に重みが掛かった。
ソファに置いていただけのお互いの手が、どちらからともなく重なる。
それはひとつの合図。
捨てられた仔犬のような眼差しで見上げてくる彼女に、思わず唇まで重ねてしまった。

「……ヒカ……ル……?」

ふわふわと間を漂うアルコールの香りはどちらのものだろう。
いつになく舌っ足らずな声。
距離が近いせいでぞくぞくと背中に甘い痺れが走った。
離れるのが惜しくて、もう一度触れる。

もう少しだけ。
あと一回だけ。

頭の中で言い訳を繰り返しながらも、気が付けば言葉を交わすよりもたくさん、彼女とのキスをしていた。

かち、かち、かち……

時を刻む針の音だけがやけに大きく響く。
いつもはその存在にすら気づかないのに、今はうるさいとさえ思う。
時折こぼれ落ちる彼女の吐息や艶を纏った声だけを聴いていたいのに。
そう思えば思うほど、余計に止まらなくなっていく。
ソファに彼女を押し倒せば、また視線がぶつかる。
焦点の合わない潤んだ瞳がひどく扇情的で、ごくりと生唾を飲み込んだ。
踏みとどまるならここだと、なけなしの理性は告げていたけれど。

「……ヒカ、ル……」

首筋に伸びてきた彼女の腕を振りほどけなくて、そのまま強く抱きしめた。
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