オルヴォワールも言えぬまま
「ちょっと!聞いてないんですけど……!」
発狂じみたわたしの声が部屋中に響き渡る。
それも無理はない。
部屋にいた男の子に話を聞けば、彼は数週間前からここに住んでいるらしい。
でもわたしが借りた部屋も確かにここだった。
何度も何度も住所を確認したし、預かった鍵でドアを開けられたのがその証拠。
急いで大家さんに確認したら、わたしたちはちょうど同じ時期に同じ不動産屋を訪ね、たまたま同じ家を紹介された。
そしてさらに大家さんのミスも重なって、二人してここを契約してしまったらしい。
なんとか別の家をと交渉したのだが、すでに契約書にはサインをしてしまってるからと大家さんは一点張り。
あれこれ弁解したものの上手いこと言いくるめられて、結局はあっさりと電話を切られてしまった。
「……と、いうわけ、でして……」
かいつまんで彼に事情を説明すると、まぁ部屋も余ってるしと案外すんなりこの異様な状況を飲み込んでしまった。
「え、キミはそれでいいの?」
「……良いも悪いも、もうどうしようもないんだろ?」
諦めをめいっぱい含んだため息をつきながら、彼はこちらを見た。
見ず知らずの男の子とひとつ屋根の下なんて有り得ないと思う。
気持ち的には今すぐにでも出ていきたいが、実際問題そんなことが出来るほど金銭的余裕はない。
がっくりと肩を落として現実を受け入れるしかないのだと悟った。
「部屋、案内するから来て」
床に落ちたボストンバッグを拾い上げて、彼は廊下に面した左側の部屋を指す。
そこはベッドと簡易的な机がある以外何も置かれていない殺風景な部屋で、ほんの少しだけ安心した。
「ここがあんたの部屋。オレのは反対側だから」
要するに、対面の部屋には入るなよということらしい。
もちろんわたしとしてもプライベートスペースは確保しておきたいのだから、異論はない。
荷物を簡単に置くと、今度はリビングへ案内される。
「ここは……もう少し片付ける。ごめん」
気にしないからあんたも好きに使っていいよと、彼は笑った。
覗いたキッチンは案外綺麗なままで、どうやら自炊している様子は窺えなかった。
いかにも男の子らしい一面が垣間見えて、きっと悪い人ではないのだろうと思った。
「……本当に、いいの?」
「出ていくなら止めはしないけど」
どうやら本当に、ここにいていいということらしい。
言質を取ったことにして、ありがたく共同生活をさせてもらうことにする。
ひと通り荷解きを終えてリビングに再び顔を出すと、先ほどまで床に散らばっていた上着やら本やらはすっかり姿を消していて、一応は整頓された空間になっていた。
ダイニングテーブルに所在なげに座ると、ほこほこと湯気の立つカフェオレが差し出される。
自分が飲むついでにわたしの分まで彼が淹れてくれたらしい。
「いただき……ます」
「どーぞ。インスタントだけど」
あぁ、粉末になっていてお湯を注げばすぐに出来るアレか。
わたしも愛用しているからよく知っている。
向き合うように座ると、彼の方から改めてよろしくと挨拶をしてくれて、ここの簡単なルールを教えてくれた。
・門限はないが、あまり遅くなるようなら連絡を入れること。
・冷蔵庫の勝手に飲み食いしてはいけないものには名前を書くこと。
・許可なく個人の部屋には入らないこと。
もっとあれこれ指示してくるのかと思ったら、提示されたのはその三つだけだった。
本当に、何も頓着しない人のようだ。
そして最後に、ひとつ思い出したように口を開いた。
「……オレ、進藤ヒカル。あんたは?」
一緒に住むのに名前も知らないのは不便だろと今更になって名前を告げる。
最初の状況が状況だったので仕方ない。
お礼と挨拶を兼ねて名前を名乗ると、一度咀嚼してから確認するように、彼はわたしを下の名前で呼んだ。
男の子にその名を呼ばれるのはいつ以来だろう。
妙に心がざわざわする。
余計に落ち着かなくなってしまうので、わざと視線を逸らしてみた。
すると、部屋の片隅に置かれた不思議なものに目が留まった。
「あれ……なに?」
「あぁ、碁盤。オレ、囲碁やってるんだ。こう見えてもちゃんとプロなんだぜ」
誇らしげに笑う進藤くんは、ちょっと子どもっぽくて可愛らしかった。
でも、囲碁なんておじいちゃんがやるようなイメージだったから、こんな同年代の男の子の部屋にそれがあるのは何だか違和感があった。
それに彼自身もそこまでお堅い印象でもないから、囲碁・プロという言葉がなかなか結び付ない。
無意識のうちに腑に落ちないような微妙な表情をしていたようで、進藤くんはふっと噴出して笑った。
「まぁ、それが普通の反応だよなぁ」
「……なんか、ごめん」
「いーよいーよ。オレの周り碁打ちばっかだから、すげー新鮮」
本当に物珍しいものを見るようで、彼がちゃんと囲碁の世界で生きているのだと実感した。
「あんたは?えっと……大学、でなんの勉強してんの?」
興味津々に、まるで主人に尻尾を振る仔犬みたいな目を向けられて、一瞬たじろいでしまった。
とくん、と心臓が跳ねる。
初対面なのに、どうして。
自分でも名前のわからない感情を抱えながら、改めて自己紹介をするように、自分のことを話し始めた。
発狂じみたわたしの声が部屋中に響き渡る。
それも無理はない。
部屋にいた男の子に話を聞けば、彼は数週間前からここに住んでいるらしい。
でもわたしが借りた部屋も確かにここだった。
何度も何度も住所を確認したし、預かった鍵でドアを開けられたのがその証拠。
急いで大家さんに確認したら、わたしたちはちょうど同じ時期に同じ不動産屋を訪ね、たまたま同じ家を紹介された。
そしてさらに大家さんのミスも重なって、二人してここを契約してしまったらしい。
なんとか別の家をと交渉したのだが、すでに契約書にはサインをしてしまってるからと大家さんは一点張り。
あれこれ弁解したものの上手いこと言いくるめられて、結局はあっさりと電話を切られてしまった。
「……と、いうわけ、でして……」
かいつまんで彼に事情を説明すると、まぁ部屋も余ってるしと案外すんなりこの異様な状況を飲み込んでしまった。
「え、キミはそれでいいの?」
「……良いも悪いも、もうどうしようもないんだろ?」
諦めをめいっぱい含んだため息をつきながら、彼はこちらを見た。
見ず知らずの男の子とひとつ屋根の下なんて有り得ないと思う。
気持ち的には今すぐにでも出ていきたいが、実際問題そんなことが出来るほど金銭的余裕はない。
がっくりと肩を落として現実を受け入れるしかないのだと悟った。
「部屋、案内するから来て」
床に落ちたボストンバッグを拾い上げて、彼は廊下に面した左側の部屋を指す。
そこはベッドと簡易的な机がある以外何も置かれていない殺風景な部屋で、ほんの少しだけ安心した。
「ここがあんたの部屋。オレのは反対側だから」
要するに、対面の部屋には入るなよということらしい。
もちろんわたしとしてもプライベートスペースは確保しておきたいのだから、異論はない。
荷物を簡単に置くと、今度はリビングへ案内される。
「ここは……もう少し片付ける。ごめん」
気にしないからあんたも好きに使っていいよと、彼は笑った。
覗いたキッチンは案外綺麗なままで、どうやら自炊している様子は窺えなかった。
いかにも男の子らしい一面が垣間見えて、きっと悪い人ではないのだろうと思った。
「……本当に、いいの?」
「出ていくなら止めはしないけど」
どうやら本当に、ここにいていいということらしい。
言質を取ったことにして、ありがたく共同生活をさせてもらうことにする。
ひと通り荷解きを終えてリビングに再び顔を出すと、先ほどまで床に散らばっていた上着やら本やらはすっかり姿を消していて、一応は整頓された空間になっていた。
ダイニングテーブルに所在なげに座ると、ほこほこと湯気の立つカフェオレが差し出される。
自分が飲むついでにわたしの分まで彼が淹れてくれたらしい。
「いただき……ます」
「どーぞ。インスタントだけど」
あぁ、粉末になっていてお湯を注げばすぐに出来るアレか。
わたしも愛用しているからよく知っている。
向き合うように座ると、彼の方から改めてよろしくと挨拶をしてくれて、ここの簡単なルールを教えてくれた。
・門限はないが、あまり遅くなるようなら連絡を入れること。
・冷蔵庫の勝手に飲み食いしてはいけないものには名前を書くこと。
・許可なく個人の部屋には入らないこと。
もっとあれこれ指示してくるのかと思ったら、提示されたのはその三つだけだった。
本当に、何も頓着しない人のようだ。
そして最後に、ひとつ思い出したように口を開いた。
「……オレ、進藤ヒカル。あんたは?」
一緒に住むのに名前も知らないのは不便だろと今更になって名前を告げる。
最初の状況が状況だったので仕方ない。
お礼と挨拶を兼ねて名前を名乗ると、一度咀嚼してから確認するように、彼はわたしを下の名前で呼んだ。
男の子にその名を呼ばれるのはいつ以来だろう。
妙に心がざわざわする。
余計に落ち着かなくなってしまうので、わざと視線を逸らしてみた。
すると、部屋の片隅に置かれた不思議なものに目が留まった。
「あれ……なに?」
「あぁ、碁盤。オレ、囲碁やってるんだ。こう見えてもちゃんとプロなんだぜ」
誇らしげに笑う進藤くんは、ちょっと子どもっぽくて可愛らしかった。
でも、囲碁なんておじいちゃんがやるようなイメージだったから、こんな同年代の男の子の部屋にそれがあるのは何だか違和感があった。
それに彼自身もそこまでお堅い印象でもないから、囲碁・プロという言葉がなかなか結び付ない。
無意識のうちに腑に落ちないような微妙な表情をしていたようで、進藤くんはふっと噴出して笑った。
「まぁ、それが普通の反応だよなぁ」
「……なんか、ごめん」
「いーよいーよ。オレの周り碁打ちばっかだから、すげー新鮮」
本当に物珍しいものを見るようで、彼がちゃんと囲碁の世界で生きているのだと実感した。
「あんたは?えっと……大学、でなんの勉強してんの?」
興味津々に、まるで主人に尻尾を振る仔犬みたいな目を向けられて、一瞬たじろいでしまった。
とくん、と心臓が跳ねる。
初対面なのに、どうして。
自分でも名前のわからない感情を抱えながら、改めて自己紹介をするように、自分のことを話し始めた。