雛菊のはなし
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
ガタン、という大きな音で足を止めた。
それは今まさに開けようとした障子張りの扉の先、兄の部屋からしたものらしかった。
「わかったんなら出てけ」
兄の声に潜む”拒絶”を察して思わず一歩あとずさる。
「…言われなくたって」
よく知る声だった。
反射的に長屋の木戸を抜け、表通りを引き返す。
何かを叫んでいる声が耳に届いた。
数秒たって物陰に身を潜めてから振り返る。
さっき置屋で見た浅葱色の着物が人波に紛れた。
「アサ?」
「…兄さん」
顎で長屋に入るよう促され、無言で後を追う。
土間に踏み入り、扉を後ろ手に閉めた。
「…いまの、」
「飲み屋で声をかけられてから、あいつが付きまとうようになった」
「そう、なんだ」
「やたらと誘ってくると思ったが、お前んとこの芸者なんだな」
「…今日除籍されて」
「そうか」
飛び出してきたものの。
「なんかあったか?」
何を話せばいいのだろう。
「…おかあさんが、跡取りにならないかって」
「…」
「受けることにした」
「そうか」
「それで、」
*
「それで?もうひとつは?」
「あの、兄さんのことなんですけど、」
おかあさんがフッと微笑んだ。
それはごくたまにしか見ない、”母”の表情だった。
「あいつにこう言っといてくれよ。”雛菊の年季が明けた。あの時言ってたのが嘘だったら承知しないよ”ってね」
*
「…あんのクソババア…」
「あの時って?」
「2年前の話だ」
「2年前…」
「それは今は忘れろ」
兄が頭をガシガシと掻いたあと私に向き直った。
「お前の年季が明けたら、言おうと思ってたんだが」
「…なに?」
珍しく歯切れの悪い兄が目を伏せ、私の鼓動は一度大きく跳ねる。
「一緒にならねェか、おれと」
「…え?」
「芸者が所帯を持たねェことは分かってるが、このままずるずる行くのも性に合わねェ」
武骨な手が頬に添えられ、熱量をもった視線に射抜かれる。
「死ぬまで傍に居ると誓え」
はじめに、この視線に貫かれた時から、
「…はい」
逃げられないことを知っていた。
溺れるほど深く深く口づけられる。
あぁ、私は芸者失格かもしれない。
今のこの気持ちだけは、芸に込めたくないと、思ってしまったから。
許されるなら、私だけのものに。
唇が離れて目が合う。
途方もない愛しさを押し潰すように抱き合った。
例えばいつか一緒に居られなくなって、他の誰かに見初められる未来があったとしても、この人の愛し方を忘れることはないだろう。
それは呪いのようにひたむきで祈りのように残酷な刻印。
そして、どうしてだろう、その逃げ場のなさは、
いつだって私の胸の芯を熱くする。
これまでも、これからも。
それは今まさに開けようとした障子張りの扉の先、兄の部屋からしたものらしかった。
「わかったんなら出てけ」
兄の声に潜む”拒絶”を察して思わず一歩あとずさる。
「…言われなくたって」
よく知る声だった。
反射的に長屋の木戸を抜け、表通りを引き返す。
何かを叫んでいる声が耳に届いた。
数秒たって物陰に身を潜めてから振り返る。
さっき置屋で見た浅葱色の着物が人波に紛れた。
「アサ?」
「…兄さん」
顎で長屋に入るよう促され、無言で後を追う。
土間に踏み入り、扉を後ろ手に閉めた。
「…いまの、」
「飲み屋で声をかけられてから、あいつが付きまとうようになった」
「そう、なんだ」
「やたらと誘ってくると思ったが、お前んとこの芸者なんだな」
「…今日除籍されて」
「そうか」
飛び出してきたものの。
「なんかあったか?」
何を話せばいいのだろう。
「…おかあさんが、跡取りにならないかって」
「…」
「受けることにした」
「そうか」
「それで、」
*
「それで?もうひとつは?」
「あの、兄さんのことなんですけど、」
おかあさんがフッと微笑んだ。
それはごくたまにしか見ない、”母”の表情だった。
「あいつにこう言っといてくれよ。”雛菊の年季が明けた。あの時言ってたのが嘘だったら承知しないよ”ってね」
*
「…あんのクソババア…」
「あの時って?」
「2年前の話だ」
「2年前…」
「それは今は忘れろ」
兄が頭をガシガシと掻いたあと私に向き直った。
「お前の年季が明けたら、言おうと思ってたんだが」
「…なに?」
珍しく歯切れの悪い兄が目を伏せ、私の鼓動は一度大きく跳ねる。
「一緒にならねェか、おれと」
「…え?」
「芸者が所帯を持たねェことは分かってるが、このままずるずる行くのも性に合わねェ」
武骨な手が頬に添えられ、熱量をもった視線に射抜かれる。
「死ぬまで傍に居ると誓え」
はじめに、この視線に貫かれた時から、
「…はい」
逃げられないことを知っていた。
溺れるほど深く深く口づけられる。
あぁ、私は芸者失格かもしれない。
今のこの気持ちだけは、芸に込めたくないと、思ってしまったから。
許されるなら、私だけのものに。
唇が離れて目が合う。
途方もない愛しさを押し潰すように抱き合った。
例えばいつか一緒に居られなくなって、他の誰かに見初められる未来があったとしても、この人の愛し方を忘れることはないだろう。
それは呪いのようにひたむきで祈りのように残酷な刻印。
そして、どうしてだろう、その逃げ場のなさは、
いつだって私の胸の芯を熱くする。
これまでも、これからも。
13/13ページ