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雛菊のはなし

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私の身を整えるのはいつも兄の役割だ。
不器用なりに合わせられた襟元に、無意識に手を遣る。
ぼんやりと窓の外を眺めていると兄が口を開いた。


「今日はどうする」
「…帰ろうかな」

まだ日も高い昼時。普段は、ここに食事を運ばせて共に食べたり、兄の部屋に行ったりするのだけれど。
兄が分かりやすく眉間にしわを寄せる。

「仕事はねぇんだろ」
「…ないけど、ちょっと色々考えたいから」

ここ最近、考えることが山積みなのだ。


「おれんとこで考えればいいだろ」
「…急に誰か来たりするのは嫌なの」
「なら今日は店は閉める」

店というのは兄が間借りしている長屋の一室のことだ。
玄関の扉が開いて居れば営業中、閉じていれば休業中としているらしい。
まあ、置屋の自室でも”いもうと”達が入って来るから実際のところ大差ないのだけれど。

「…じゃあ、行く」



「飲むか?」
「私はいいわ」

昼間から酒瓶を傾けている人と一緒にしないで欲しい。
兄が隣に座り膝にごろりと寝転んだ。
この振る舞いには慣れたもの。



「耳掃除?」
「あァ、頼む」


耳かきを取り出して耳を覗き込んだ。
生まれてこのかた、兄にしかしたことがないというものはいくつかある。
耳掃除も、接吻も、夜伽も、それ以外にも。


耳掃除を終え、扇子に持ち替えて兄を仰ぎ始める。




さあ、どうしよう。
悩み事は、自分の身の振り方の話だ。

芸者の年季は10年と相場が決まっている。
私は次の夏でちょうど初めてのお座敷から10年が経つのだ。
その先は、独立して芸者をやっていくか、お給金制度で置屋に残るか、芸事の師匠など別の道に進むか。
どの道を選ぶにも気がかりがあった。

独立する場合、定期的にお座敷に呼んでもらう当てが必要になる。
毎日あいさつ回りをして顔を売っておくか、大きな遊女屋に抱えてもらうか。
…ありがたいことにひと月ほど前、この街で2番目に大きな遊女屋から誘いがあった。
その時はもうすぐ年季が開けることを理由に返事を保留したのだけれど。

お給金制度で置屋に残る場合…を選ぶ人はあまりいない。一度選ぶとそこから離れるのはとても難しいからだ。
たまに耳にするのが”おかあさん”の代替わりに折り合いがつかず、年増になってから放り出される芸者さんの話。
そうなってからの独立は不可能で、立ち行かなくなり夜鷹に身を落とした”おねえさん”の噂も時々聞く。

芸事の師匠として身を立てる場合、一番大きな変化はこの花街から出て暮らすことだ。
町の長屋を借りて、町人さんたちを相手に稽古をする。
ただ心配事と言えば、手習いに来る男の人と2人きりにならざるを得ない、そして花街のようには誰も守ってくれないということ。
外で暮らしたことがないから、そのあたりがとても不安。

…やっぱり1番は遊女屋に入ることだけど。

「…あ”?」

声に視線を落とすと、これ以上ないほど不機嫌そうにこちらを見上げる兄の顔があった。


「どういうことだ、遊女屋って、テメェまさか」

…声に出ていたようだ。
ああ、これは拗れる。
何か言いかけた兄の口を柔らかく塞ぐ。

「…今から言うことは独り言」

見るとはなしに壁に掛けてある三味線を見上げる。

「年季が明けたらどうしようかと思って」
「…」
「独立するなら大きな遊女屋のお抱え芸者になる方が食い扶持には困らない。置屋に残るのは潰しが効かないから最終手段。あとは、町に出て芸事のお師匠さんになることもできるけど」

どんどん兄の苛立ちが高まるのが分かり、私は続きを話すのを辞めた。

「ただ気がかりがあって」
「…?」
「”おかあさん”、良くないみたいで。最近は床に臥せってる時間が長いから」
「…そうか」
「…」
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