初雪のはなし
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障子の向こうに人影が横切り、眠れずにいた体が強張る。
「ハル姫様、良庵でござる」
先ほど声をかけられてから今まで思い出していた。
子供の頃、咳が止まらなくなるたびに、この侍医が夜通し付き添ってくれたこと。
気を紛らわすためか、昔話をよく聞かされた。
温厚で誠実な人柄は子供の私にも理解でき、”良庵殿”と呼んで慕っていた記憶がある。
「そのまま聞いて下され」
言葉を発さずに体を起こした。
衣擦れの音で私が起きたことは伝わるだろう。
「トラファルガー殿は名医でござる。拙者から見ても学ぶところが多い大変腕利きの医者であることは確か」
「…」
「ですが、姫様の治療に関しては…些か不自然でござる」
「…不自然?」
「ハル姫様は幼い頃より咳の出やすい体質でござった。おそらく今もその体質は変わってはござらぬ。ここ最近咳が酷くなったとて、それは奉公による過労が原因と考えるのが筋でござる」
「…」
「先ほどトラファルガー殿の診療簿を見ましたが、ハル姫様の症状で結核と断言するのは早計。なにより処方した薬が、姫様の体質では咳を悪化させるものだったのでござる」
つまり、良庵殿が言いたいことは、
「…トラファルガー殿は、薬で姫様を結核かのように仕立てたのでござろう」
ひとつ、長く息を吐く。
「…そうでしたか」
「ええ、つきましては姫様、急ぎ荷物をまとめられて拙者と共に」
「それには及びません」
「…なんですと?」
布団の上で身を正す。
「私はここに残ります」
「…なぜです!?あの者は姫様を故意に病気に仕立てたのですぞ!」
「良庵殿、」
障子の向こうで息を呑む音がした。
「私は姫ではございません。初雪と申す、年季明けの遊女でございます」
案じてくれていた思いを踏みにじる言葉だと分かっていた。
それでも私にはこう告げるほかないのだった。
「先生の思惑がどうであっても構いません。私はあの方のおかげで長年苦しんだ咳が止まり、遊廓という鳥籠から出ることができました。その先生が私を手元に置いておこうとされるのなら、喜んでそれに従いましょう」
「…そんな、」
「案じてくださった良庵殿には忍びないのですが、…ハルは死んだと思ってください」
「…納得が出来ませぬ」
障子に伸びた手を、後ろから伸びる別の人影の手が押さえた。
「他所の診療所で女子の患者の部屋に踏み入ろうとするのはどういう了見です?」
ペンギン殿の声だった。
「…」
「良庵殿」
呼びかけに応答はないけれど言葉を続けた。
「ハルは、死にました。母上や妹たちにも他言は無用です。あなたには感謝しています。長いこと、私の体を、行く末を案じてくださって、ありがとうございました」
そのまましばらく誰も動かず言葉を発さなかった。
永遠に思われる時間の後、良庵殿は静かに去って行かれた。
「ハル姫様、良庵でござる」
先ほど声をかけられてから今まで思い出していた。
子供の頃、咳が止まらなくなるたびに、この侍医が夜通し付き添ってくれたこと。
気を紛らわすためか、昔話をよく聞かされた。
温厚で誠実な人柄は子供の私にも理解でき、”良庵殿”と呼んで慕っていた記憶がある。
「そのまま聞いて下され」
言葉を発さずに体を起こした。
衣擦れの音で私が起きたことは伝わるだろう。
「トラファルガー殿は名医でござる。拙者から見ても学ぶところが多い大変腕利きの医者であることは確か」
「…」
「ですが、姫様の治療に関しては…些か不自然でござる」
「…不自然?」
「ハル姫様は幼い頃より咳の出やすい体質でござった。おそらく今もその体質は変わってはござらぬ。ここ最近咳が酷くなったとて、それは奉公による過労が原因と考えるのが筋でござる」
「…」
「先ほどトラファルガー殿の診療簿を見ましたが、ハル姫様の症状で結核と断言するのは早計。なにより処方した薬が、姫様の体質では咳を悪化させるものだったのでござる」
つまり、良庵殿が言いたいことは、
「…トラファルガー殿は、薬で姫様を結核かのように仕立てたのでござろう」
ひとつ、長く息を吐く。
「…そうでしたか」
「ええ、つきましては姫様、急ぎ荷物をまとめられて拙者と共に」
「それには及びません」
「…なんですと?」
布団の上で身を正す。
「私はここに残ります」
「…なぜです!?あの者は姫様を故意に病気に仕立てたのですぞ!」
「良庵殿、」
障子の向こうで息を呑む音がした。
「私は姫ではございません。初雪と申す、年季明けの遊女でございます」
案じてくれていた思いを踏みにじる言葉だと分かっていた。
それでも私にはこう告げるほかないのだった。
「先生の思惑がどうであっても構いません。私はあの方のおかげで長年苦しんだ咳が止まり、遊廓という鳥籠から出ることができました。その先生が私を手元に置いておこうとされるのなら、喜んでそれに従いましょう」
「…そんな、」
「案じてくださった良庵殿には忍びないのですが、…ハルは死んだと思ってください」
「…納得が出来ませぬ」
障子に伸びた手を、後ろから伸びる別の人影の手が押さえた。
「他所の診療所で女子の患者の部屋に踏み入ろうとするのはどういう了見です?」
ペンギン殿の声だった。
「…」
「良庵殿」
呼びかけに応答はないけれど言葉を続けた。
「ハルは、死にました。母上や妹たちにも他言は無用です。あなたには感謝しています。長いこと、私の体を、行く末を案じてくださって、ありがとうございました」
そのまましばらく誰も動かず言葉を発さなかった。
永遠に思われる時間の後、良庵殿は静かに去って行かれた。