本編
◯神暦3917年 魔道王国イングリッド 王都マルドゥーク
―――月明かりに照らされた死体の断面は、驚くほど美しかった。
床一面を黒々と染める血の海。その中央に沈むのは、腰の部分で上下が両断された女性の亡骸。その切断面は神の御業と思えるほどに滑らかで、もはや芸術的ですらあった。
死体に他の外傷はなく、面に張りついた死に顔に苦痛や恐怖の跡は微塵も残っていない。その様は、彼女の死が全く予期せぬ形で、彼女が気づく間もなく訪れたことを物語っていた。
「……」
およそ人の所業とは思えない凄惨な亡骸。
しかし、その傍らには人の姿があった。
全身を黒いローブで覆い隠した、素性のまるで知れない一人の人物。女性の死を確認しているのか、その頭は亡骸の表情を見下ろすように俯いている。
殺害した張本人だろうか。だが、そう考えるには、少々不可解な点があった。
その手には、女性を切断したと思しき刃物が、何も握られていなかったのだ。
床にも、それらしい道具は何一つ落ちていない。あるのは女性の死体、そして大量の血液だけだ。もっとも、たとえ道具があったとしても、ここまで鮮やかに人体を両断するなど、およそ不可能だろう。
「団長? なんかあったんすか? 大きい音しましたけど」
部屋の扉が叩かれた。若い男のものと思しき声が、眠そうに尋ねる。女性の体が床に倒れた音を聞き、心配に思ったのだろうか。
扉を振り返る黒衣の者。だが、その素振りに慌てる様子はない。
彼あるいは彼女は、扉と反対側の壁に向かって歩き出した。逃げるのだろうか。だが、そちらに出口はない。出入り口は叩かれた扉か、その右手にある大通りに面した窓だけだ。
しかし、黒衣の者の歩みに迷いはなかった。
壁に達した黒衣の者は、その右手を静かに持ち上げ、壁に押しつける。
そして……
「団長? 入りますよ?」
外の男が扉を開けた。
「……………、――――――ッッッ! ヒ、ィッッッッッ!?!?!?!?!?」
途端、飛び込んできた主の無残な死に様に、彼は反射的に後ずさり、たたらを踏んで地面に臀部から倒れこんだ。その顔は一瞬で蒼白に染まり、押し寄せる恐怖から必死に逃れようと、口を痙攣させている。そして体は、無意識に、後ずさるように、部屋から離れていく。
「どうしたの? なんか凄い音したけど」
騒ぎを聞きつけたのか、廊下の遠くから一人の女が近づいてきた。
だが、男は「ア…ァ……ア…アァ……ア……」と呼吸を荒げるだけで、全く要領を得ない。
彼の様子を妙に、そして少々不気味に思った女は、男の視線の先……室内に視線を向けた。
「………、――――――――ッ!?!?!?」
そして、目の前の惨状に驚愕したその瞳が、一瞬で見開かれ……、
「キ……ッ! キャァアアアァァァァァアァアァァァッッッッッ!!!!」
一帯の住民が一斉に目を覚ますほど巨大な悲鳴が轟いた。
……その声を、黒衣の者は、建物の外で聞いていた。
彼あるいは彼女は、建物の壁を挟んで殺戮現場の向かい、隣の建物との間を通る狭い裏路地に立っていた。通りには一筋の月明かりも届かず、その姿は暗中に慣れた目を凝らしても見極められないほど、漆黒に溶け込んでいる。
―――いったいどんな絡繰りを用いたのか。黒衣の者は、確かに逃げようがなかった殺害現場から、見事に逃げおおせていた。
だが、それでも身の安全が保証されたわけではない。分厚い壁越しにも声が漏れ聞こえてくるほど、建物内は一気に騒がしくなっている。深夜とはいえ、大通りも人が疎らに歩いているので、すぐ大騒動になるだろう。聖痕騎士団による犯人探しも夜明け前には始まるはずだ。
黒衣の者は、大通りと真逆の方向へ走り出す。慎重に。しかし、大胆に。
「……あと三人」
やがてその姿は、裏路地から音もなく消え去った……。
神暦3917年。水龍月1日。
この日、一人の女性が殺害された。
名は、レイチェル。魔道王国イングリッドで郵便業や旅行業、護衛業などを生業とするアルカディア・キャラバンの第6代団長。誰からも愛され、誰からも慕われた、民の宝と呼ぶに相応しい勇敢にして慈愛に満ちた女性だった。
いったい誰が、どんな理由で、どうやって殺害したのか……およそ殺される理由がない彼女の死は、あまりにも無残にして不可解な死に様と併せて、数々の憶測を呼ぶことになる。
―――そして。
この事件を境に、イングリッドの王都マルドゥークは、動乱に呑み込まれる。
それは、3000年の時を超えて交錯した、使命と復讐の物語。
人類の命運を天秤に賭けた、果てなき終焉の物語。
―――月明かりに照らされた死体の断面は、驚くほど美しかった。
床一面を黒々と染める血の海。その中央に沈むのは、腰の部分で上下が両断された女性の亡骸。その切断面は神の御業と思えるほどに滑らかで、もはや芸術的ですらあった。
死体に他の外傷はなく、面に張りついた死に顔に苦痛や恐怖の跡は微塵も残っていない。その様は、彼女の死が全く予期せぬ形で、彼女が気づく間もなく訪れたことを物語っていた。
「……」
およそ人の所業とは思えない凄惨な亡骸。
しかし、その傍らには人の姿があった。
全身を黒いローブで覆い隠した、素性のまるで知れない一人の人物。女性の死を確認しているのか、その頭は亡骸の表情を見下ろすように俯いている。
殺害した張本人だろうか。だが、そう考えるには、少々不可解な点があった。
その手には、女性を切断したと思しき刃物が、何も握られていなかったのだ。
床にも、それらしい道具は何一つ落ちていない。あるのは女性の死体、そして大量の血液だけだ。もっとも、たとえ道具があったとしても、ここまで鮮やかに人体を両断するなど、およそ不可能だろう。
「団長? なんかあったんすか? 大きい音しましたけど」
部屋の扉が叩かれた。若い男のものと思しき声が、眠そうに尋ねる。女性の体が床に倒れた音を聞き、心配に思ったのだろうか。
扉を振り返る黒衣の者。だが、その素振りに慌てる様子はない。
彼あるいは彼女は、扉と反対側の壁に向かって歩き出した。逃げるのだろうか。だが、そちらに出口はない。出入り口は叩かれた扉か、その右手にある大通りに面した窓だけだ。
しかし、黒衣の者の歩みに迷いはなかった。
壁に達した黒衣の者は、その右手を静かに持ち上げ、壁に押しつける。
そして……
「団長? 入りますよ?」
外の男が扉を開けた。
「……………、――――――ッッッ! ヒ、ィッッッッッ!?!?!?!?!?」
途端、飛び込んできた主の無残な死に様に、彼は反射的に後ずさり、たたらを踏んで地面に臀部から倒れこんだ。その顔は一瞬で蒼白に染まり、押し寄せる恐怖から必死に逃れようと、口を痙攣させている。そして体は、無意識に、後ずさるように、部屋から離れていく。
「どうしたの? なんか凄い音したけど」
騒ぎを聞きつけたのか、廊下の遠くから一人の女が近づいてきた。
だが、男は「ア…ァ……ア…アァ……ア……」と呼吸を荒げるだけで、全く要領を得ない。
彼の様子を妙に、そして少々不気味に思った女は、男の視線の先……室内に視線を向けた。
「………、――――――――ッ!?!?!?」
そして、目の前の惨状に驚愕したその瞳が、一瞬で見開かれ……、
「キ……ッ! キャァアアアァァァァァアァアァァァッッッッッ!!!!」
一帯の住民が一斉に目を覚ますほど巨大な悲鳴が轟いた。
……その声を、黒衣の者は、建物の外で聞いていた。
彼あるいは彼女は、建物の壁を挟んで殺戮現場の向かい、隣の建物との間を通る狭い裏路地に立っていた。通りには一筋の月明かりも届かず、その姿は暗中に慣れた目を凝らしても見極められないほど、漆黒に溶け込んでいる。
―――いったいどんな絡繰りを用いたのか。黒衣の者は、確かに逃げようがなかった殺害現場から、見事に逃げおおせていた。
だが、それでも身の安全が保証されたわけではない。分厚い壁越しにも声が漏れ聞こえてくるほど、建物内は一気に騒がしくなっている。深夜とはいえ、大通りも人が疎らに歩いているので、すぐ大騒動になるだろう。聖痕騎士団による犯人探しも夜明け前には始まるはずだ。
黒衣の者は、大通りと真逆の方向へ走り出す。慎重に。しかし、大胆に。
「……あと三人」
やがてその姿は、裏路地から音もなく消え去った……。
神暦3917年。水龍月1日。
この日、一人の女性が殺害された。
名は、レイチェル。魔道王国イングリッドで郵便業や旅行業、護衛業などを生業とするアルカディア・キャラバンの第6代団長。誰からも愛され、誰からも慕われた、民の宝と呼ぶに相応しい勇敢にして慈愛に満ちた女性だった。
いったい誰が、どんな理由で、どうやって殺害したのか……およそ殺される理由がない彼女の死は、あまりにも無残にして不可解な死に様と併せて、数々の憶測を呼ぶことになる。
―――そして。
この事件を境に、イングリッドの王都マルドゥークは、動乱に呑み込まれる。
それは、3000年の時を超えて交錯した、使命と復讐の物語。
人類の命運を天秤に賭けた、果てなき終焉の物語。