本編

 ―――地下を抜け出したクローディアとアルは、王都の噴水広場に来ていた。
 町民の避難はすでに完了したのだろう。町には誰の姿も見られない。王都は文字どおり完全無人と化していた。
 ……ただ一人の例外を除いて。

「―――誘き出すのは《神殺し》だけのつもりだったけど、まさかあなたまでついてくるとはね。クローディア」
「……シルフィ、様」

 噴水の縁に腰を下ろしていたのは、シルフィ。
 ―――真名、神ラファエル。すべての元凶。
 彼女は、アルのほうを見ながら口を開いた。

「それにしても、怪しいとは思ってたけど、まさかあなたが神だったとはね。3000年前に会った神ならわかるはずだけど……あるいは見た目がまったく違うのかしら」
「まぁな。馬鹿正直に昔の格好で正面から突っ込んだところで、あっさりバレて終わりだ。あんただって同じだろ? ラケルのやつから聞き出すまで正体わからなかったからな」
「まぁね。でも、まさかラケルたち三人が、ここまであっさり殺られるとは思わなかったわ。あの殺り方から察するに……あなた、アリエルね?」
「そうだよ。―――久しぶりだな、ラファエル」
「……ったく、ほんとに鬱陶しいわね。ようやく目を覚ましたっていうのに、こうして邪魔してくれるなんてねぇ。おかげで《聖獣》を2体も使役したのに、この国落としも頓挫しそうだわ。まぁ、あなたを排除すればどうとでもなるから別にいいけど」

 妖しく歪んだ笑顔を浮かべながら、噴水の縁から立ち上がるシルフィ。
 そこにいつもの淑女の面影は微塵もなく、クローディアにはもはや、まったくの別人にしか見えなかった。

「……シルフィ様、本当なんですか? 貴方は本当に人類を……」

 それでもなお、目の前の事実を拒否するかのように尋ねるクローディア。
 彼女は、まだ信じ切れずにいた。これまでこの国のために、そして自分のために尽くしてくれたシルフィが、こんな暴挙の張本人などとは……。
 ―――だが、その希望はあまりにも容易く裏切られた。

「らしくもなく、ずいぶん脳天気なこと言うのね。今のこの事態を目にして、まだ私を信じているのだとすれば、間抜けを通り越して呆れるわ。私がこの国に取り入ったのは、それが計画を進める上でやりやすかったからよ」
「……やり、やすい?」
「ええ。周辺の野盗や魔導結社に魔法を吹きこんで騎士団を追い詰めれば、その対策が必要になる。そこに絡めば、封印された神々や《聖獣》を、騎士団を動員して探し放題だし、特定の魔法を広めて神々の解放を早めるのも思いのまま。実際、この国は私が伝えた《光の壁》に頼り切ってカマエルの復活を早めてくれたわ。……そのために、あなたたちと関わらなければならなかったのは、ほんと地獄でしかなかったけど」
「……すべて、偽りだったんですか」
「すべては、あなたたちを世界から排除するためよ」

 心底苦々しいと言わんばかりに表情を歪めて吐き捨てるシルフィ。

「…………嘘、じゃないんですね」
「当然よ。人類は私利私欲に塗れた理由で神々を3000年以上も封印した挙げ句、ただの魔法の道具として使い倒してきた。私は病に苦しむ人類を救うために力を授けた。でも、人類はその善意を踏み躙った。自らの欲を貫くために私たちを封印し、挙げ句、私たちを支配しようとすらした。そして今、再び魔法を手にして神々をいいように利用し続けている。……そんなの、許せるわけないわよねぇッッッッッ!」
「「ッッッ!?」」

 シルフィの咆哮とともに突如、一帯の地面から次々と光の柱が噴き上がった。
 さながら天を穿つように闇を切り裂いたそれらは、徐々に形を変え、やがて白く光輝く8本の剣を成し、彼女の背中へ回って翼のように広がった。

「……知らない魔法だな」

 魔法なのは明らかだが、どうやらアルもその正体を知らないらしい。

「これは復活した後にサディケルが創造した魔法よ。魔法具がないと使えないのは煩わしいけど、神相手に正体筒抜けの魔法でやりあうほど、私は馬鹿じゃないわ」

 右手にはめた手袋を憎らし気に睨むシルフィ。

「……サディケルも、あんたの協力者ってわけか?」
「あの変わり者が協力なんかするわけないでしょ。私が脅して作らせたのよ。魔法に関して、私たちの中でも随一だからね」

 そこまで話すと、シルフィは静かに右手を挙げた。

「……まぁ、そんな話どうでもいいわ。私たちは互いにこんな無駄話を交わすような関係じゃない。―――死になさい」

 シルフィが右手を振るうと、2本の光剣がクローディアに刃先を向け、目にも留まらぬ速さで飛来。うつむいたまま微動だにしない彼女の体を一瞬で射抜

「―――《Answerer》」

 く寸前、彼女は《碧の剣》を召喚。その一振りを以て迫る光剣を弾き飛ばした。
 宙を舞う2本の光剣は、意志を持っているかのように、自らシルフィの背中へ戻る。

「……本当に、そうなんですね」

 誰にも聞こえないほど小さな声を震わせながら、クローディアは静かに呟いた。
 その足元に、一つ、また一つと、薄黒い水跡が浮かぶ。
 ―――都市防衛、訓練生の教育、魔法の研究。自ら望んだ道とはいえ、騎士団に入った後の生活は決して楽ではなかった。特に近年は国の防衛状況が厳しくなり、心身とも休まらず、何度も挫けそうになった。
 それでも折れなかったのは、シルフィの支えがあったからだった。

(うっそ、ほんとに!? 私、一度でいいから話を聞きたいと思ってたのよ!)

 その明るさに、何度も癒やされてきた。辛い時も、苦しい時も、彼女の笑顔ひとつで不思議と元気になれた。

(あなたは早く帰って休みなさい。このところ無理してるでしょ? 顔に出てるわよ)

 その気遣いに、何度も慰められてきた。不甲斐ない時も、惨めな時も、彼女の言葉ひとつで不思議と楽になれた。

(ほら見なさい。ほんと、注意してないと、いつだって無理するんだから……)

 その優しさに、何度も救われてきた。
 いつだって。
 どんな状況でも。
 何度でも。
 そのすべては……嘘だった。
 正直、今でもまだ受け入れ難い。彼女と過ごした時間、積み上げた思いは、クローディアにとって宝物だ。そのすべてが紙屑と化した今、心には悲しさしかあふれてこない。
 彼女の言い分も、分からなくもない。人類が己の欲のまま神々を道具として使い潰してきた歴史は凄惨の一言だ。シルフィが怒りに打ち震えるのも一定理解できる。
 ―――だが、それ以上に。
 とても、許せそうにない。

(せんぱーい! おかえりなざびぶぇっ!)
(あ、ねえねえ。このあと時間ある? 久しぶりにノルじいのパン屋、行かない?)
(このままでは遠からず倒れてもおかしくない。だから、今日はもう帰れ)

 この国を守るために、その身を賭している仲間たちの思いを踏み躙る行為、この国で暮らす罪なき人々の命を理不尽な復讐心で奪う行為を。
 ―――そしてなにより、その主犯が、あのシルフィだということが。

「……いけるか?」

 アルが隣に立ち、小声で尋ねる。

「……ええ。あの人はもう、この国にとって脅威でしかない。だから、ここで止める」

 顔を上げるクローディア。その表情には、もはや悲しみと怒りしかなかった。

「そうか。……なら、さっきも言ったが、今の俺たちじゃ、あいつの力には及ばない。祈りの量が違いすぎる。だから、決して深追いはするな」
「でも、それだと、どうやって止めるの?」

 クローディアの問いに、アルはなぜか東の空を見た。

「……あと、5分ってところか」
「5分?」
「ああ。5分だけ、なんとか凌いでくれ。それで終わりだ―――来るぞッ!」
「なに呑気に話し込んでるのかしら!?」

 シルフィが右手を横に振る。
 直後、光剣の一振りがクローディアに向かって飛来した。

「ッ!」

 反応した彼女はすぐさま横へ跳び退いて躱す。
 だが、続けざまシルフィの光剣が一本また一本クローディアめがけて襲来。その全てが彼女を追尾する。
 同時にシルフィが咄嗟に背中の光剣を右手に取り後方めがけて回転しながら振り抜いた。

「見え見えよ!」

 直後に碧色の剣―――アルの剣と打ち合い甲高い音が響く。

「ちぃッ!」

 弾き合った剣の衝撃で両者の距離が開く。

「ッ!」

 アルが咄嗟に後退。
 瞬間、左右から燕の如く飛来した2本の光剣がアルの眼前に突き刺さり地面が爆散する。

「どこ行くのかしらッ!」

 シルフィがうち1本を掴みアルとの距離を一気に詰める。

「行かせませんッ!」

 だが、咄嗟に横へ跳び退く。
 直後、上空から放たれたクローディアの《碧の剣》の一閃が地面に直撃。大地が大きく裂け大量の粉塵が一帯に吹き荒れる。

「ッ!?」

 その土煙を突き破り2本の光剣がクローディアめがけて飛来した。
 咄嗟に横へ跳んで躱すクローディア。
 だが、同時に地面を突き破った光剣が彼女の左太腿を貫く。

「あ、ぐっ、ぅぅッッッ!?」

 衝撃で倒れ地に縫い留められたクローディア。続けざま「終わりよ」シルフィは6本の光剣を彼女めがけて放つ。

「ちぃッ!」

 両者の間に咄嗟にアルが割って入り、1本目を迎撃。続けて2本目3本目を落とすも、4本目が右脚5本目が肩を掠め、

「ッ!」

 6本目が左腹部を貫く。
 だが、その光剣をアルが咄嗟に左手で掴み、切っ先はクローディアの目の前で急停止。直撃は避けられた。
 しかし、その隙に裏へ回ったシルフィがクローディアに接近。その背中へ斬りかか

「う、ぐ……ぁ、ああぁああっッッッ!」

 る直前、クローディアは左足を引き上げて光剣から強引に引き抜き、そのまま前へ転がるように跳んでシルフィの一撃を躱し距離を取った。

「は、ぁ……ッ! はぁ……ッ! ぐ、ぅっッッッ!」

 左太腿に激痛が走り、思わず顔を歪めるクローディア。血が止まらないせいで意識も朦朧としている。
 その隙を逃すシルフィではない。

「ッ!」

 クローディアの目の前に彼女が現れ、

「死になさい」

 見下す冷たい瞳とともに一撃が振り下ろされる。

「させねぇよッ!」

 咄嗟にクローディアの正面へ回ったアルが一撃を食い止め弾き返し、そして距離を詰めシルフィの着地際を狙って斬りかかる。
 だが、そのすべては彼女を囲う7本の光剣が自動で捌いた。

「ちぃッ! さすがに堅いな!」

 不利と見て跳び退くアルに対して逃すまいと追撃をかけるシルフィ。

「ッ!」

 同時にクローディアには3本の光剣が向かってきた。

「ぐ、ぅっ!」

 必死に捌くクローディア。だが光剣はいくら防がれようとも鳥のように自動で再び飛来し彼女を襲う。

(こ、こんなに強かったなん、て……ッ!)

 二人を相手にここまで圧倒するなど、その強さはもはやベルヴェリオの領域だ。
 だが、シルフィはここで止めなければならない。なんとしても。
 この命に換えてでも。

(負けるわけに、は……いか、ない……ッ!)

 残された力を振り絞り、主を離れた3本の光剣と対峙するクローディア。
 だが、神に打ち勝とうなどというのが傲りだったのか、左足の自由を失った状態では、凄まじい速さと予想外の動きで襲来する3本の光剣に手も足も出なかった。頬、腕、腹、見る見る傷が増えていき、その身は真紅に染まり果て、ついに彼女は光剣の一撃に吹き飛ばされて地に転がった。

「ぐ、ぅっ、ッッッ!」

 なんとか膝をついて立ち上がろうとするも力が入らない。
 宙に浮いていた3本の光剣はすぐさま切っ先をクローディアへ向け、容赦なく彼女めがけて飛来する。

(か、っ、躱せな……っ、ッ!)

 迫る光剣を前に本能が怯え、クローディアは咄嗟に顔を逸らし、瞳を閉じた。

「ぐ、ぅっ、ッ!」

 ―――直後、苦悶に呻く声が聞こえた。
 いったいなにが起こった? 自分の体に痛みはない。どういうことだ?
 クローディアは、恐る恐る目を開ける。
 目の前には―――右肩と腹部を光剣に貫かれたアルの背中があった。

「ア、アル!」
「……無事、か?」

 アルは体に刺さった2本の光剣を強引に抜き、投げ捨てる。だが、その二撃はあまりに重かったのか、彼は大量の血を吐くと、そのまま膝から崩折れた。

「アルッ!」

 咄嗟に駆け寄り、その体を支えるクローディア。
 彼の全身はクローディア以上に鮮血一色だった。その事実に、クローディアは自分がいかに足手まといかを思い知らされ、思わず歯を食いしばる。

「そろそろ限界みたいね。あなたたち二人なら、もう少し粘られるかと思ったけど」

 8本の光剣を纏ったシルフィが、ゆっくりクローディアに向かって歩み寄る。
 腕の中には瀕死のアル。クローディア自身も満身創痍。対して相手は傷一つない。
 もはや、絶体絶命だった。
 ……だが、ここで諦めるなど許されない。
 クローディアはアルを地面に横たえると、痛みを押して立ち上がり、左足を引きずって彼の前に歩み出る。
 そして《碧の剣》を構え、シルフィに対峙した。

「……なんのつもり?」
「……見ての、とおりです」

 必死に強がってみせるクローディア。
 だが、もはや足は使えない。息もかなり上がっている。勝てる可能性など万に一つあるかも疑わしいほど、シルフィとの間には歴然とした実力差があった。
 それでも、クローディアは近寄るシルフィめがけて、剣を振り抜こうとした。
 だがシルフィは読んでいたのか、クローディアより先に右手を振るい2本の光剣を彼女めがけて放つ。

「きゃあぁっッ!」

 反射的に躱すも地面が爆散した衝撃で吹き飛ばされるクローディア。
 だが、彼女はそれでも立ち上がり、再び剣を構える。

「は、ぁ……ッ! はぁ……ッ! ま、まだ……で、す……ッ」

 しかし、立ち上がった直後、今度は4本の光剣が飛来。2本はなんとか捌くも、残り2本が右腕と右足を掠め、その膝が折れかける。

「ぐ、ぅ……ぅ、っ!」

 それでも倒れまいと踏ん張るクローディア。
 すでに両足で立つのも、剣を握るのさえも難しい。
 だが、それでも彼女は立ち続ける。

(……く、やしいけど……実力じゃ、勝てない……)

 その目だけは、まだ死んではいなかった。

(なら……せめ、て……)

 そして―――あるものに結ばれていた。
 自分の力でシルフィの打倒は無理だと判断したクローディアは、戦略を切り替えた。
《碧の剣》を構え、シルフィと対峙しつつ、目が潰れそうなほどの力を込めて彼女を見つめ、焼き切れそうな勢いで思考を回転させる。

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(だめ……さすがに……ぜん、ぶ、見えない、と……)

 血を流しすぎたのか、視界の焦点が合わない。立ちくらみも酷い。満身創痍では意識を集中できず、思考は巡らせた端から散り散りに霧散してしまう。
 だが、今の自分が状況を打開できる可能性は、これしかない。

「……どうやらなにか狙いがあるみたいだけど、そんなボロボロの体で、一体なにができるのかしら、ねぇ!?」

 再び目の前に迫ったシルフィが、光剣の一振りを手にして容赦なく振り下ろす。

「ぎ、ぃっ……ッ!」

 咄嗟に《碧の剣》で防ぐも、力の入らない両腕では捌くことも耐えることもできず、クローディアの体は軽々と吹き飛ばされた。

「ぐ、ぅ……っ!」

 なんとか両足を踏ん張り、なおも倒れまいと耐えるクローディア。
 だが、シルフィが瞬時に距離を詰めて、

「あなたにはそろそろ退場してもらうわ」

 手にした光剣を振り抜いて追撃にかかる。
 咄嗟に後ろへ下がろうとするクローディア―――が、

(離れるなッ! 耐えろッッッ!)

 自らを鼓舞して恐怖を押し殺し、死に体同然の体を無理やり動かして一撃を防ぐ。

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(だめ……ッ、足りない、ッ! せめてつながらないと……ッ!)
「どこ見てるのかしらッ!」

 一瞬、視線を逸らしたクローディアめがけて再び光剣を振り抜くシルフィ。
 それまで以上に苛烈な勢いで8本の光剣が襲いかかる。ここで決めるつもりなのだろう。
 クローディアの表情が苦悶に歪む。浅いながらも確かな傷が全身に次々と刻まれていき、彼女の動きを奪っていく。
 懸命に捌くクローディア。だが、もう体力も気力も限界だった。
 この追撃は―――捌き切れない。
 そう判断したクローディアは

(……やる、しかない……ッ!)

 決意を固めた。

「終わりよ」

 その一瞬の意識の隙を、シルフィは見逃さなかった。
 一瞬でクローディアの懐に入り込むと、右手の光剣を彼女の右脇腹に突き刺す。

「ぎ、ぃッ!?」

 腹を貫いた一撃。クローディアの顔が、凄まじい苦悶に歪んだ。
 だが、それでも彼女の膝は折れない。大量の血を吐きながらも食い縛り、なおも両の足で立ち続ける。
 そして、シルフィの右手首を掴んだ。
 死んでも逃がさない、そう言わんばかりに強く。
 強く。
 そして―――
 ―――EIUIQAZKLZRSYFXRAGQPCCNXDNQVIYKNRRWIAMPTMBTPRUETEXKMAULKRRCZALBCDZVTKPDYCLWIBTEYJUNELHVREEOIN

「さようなら」

 シルフィは残り7本の光剣を、全方位からクローディアめがけて放った。
 逃げ道はない。
 光剣はクローディアを



「―――――――――――――――《Guardangel》」



 貫く――――――ことなく霧散した。

「ッ!?」

 シルフィの顔が驚愕に染まる。

「ぎ、ぃ……ッ、ぁ、ぁあああぁああぁっッッッ!」

 瞬間、クローディアは死力を振り絞り、《碧の剣》を振り抜いた。

「ち、ぃッ!?」

 咄嗟に跳び退くシルフィ。
 だが、躱し切れなかった。クローディアの決死の一撃は、シルフィの右腕を容赦なく消し飛ばした。

「ぐ、ぅうぅ、ッッッ!?」

 着地と同時に膝をつき、堪らず右腕の切断面を押さえるシルフィ。その表情は激痛で酷く歪み果て、それまでの余裕が完全に消え失せていた。

「な、なん……で、《鍵》を……ッ!?」

 右腕の傷に魔法で応急処置を施しながら、なにやら吐き捨てるシルフィ。その表情は信じられないものでも見たかのように動揺一色だ。
 だが、対するクローディアは、もはやその言葉が届かないほど、虫の息だった。意識は欠片もなく、ただ本能のみで動いているに等しかった…………が、

「は、ぁ……っ、…………は、……ぁ…………っ、………は……………―――」

 それも長くは保たず、ついに事切れたかのように……前のめりに地に伏した。
 ―――静寂。
 ただ、風の奔る音だけが、寂れた町の一帯に虚しく響く。
 ……終焉を告げるかのように。

「ぐ、ぅっ……こ、の……ッ!」

 シルフィは怒りと苦痛の混ざった表情でクローディアを睨みながら、再び失われた光剣を喚び寄せる。だが、先の一撃で体が限界に近いのか、召喚されたのは一振りのみだった。
 それでもシルフィは、死に体に等しい体を引きずりながら、クローディアに歩み寄る。

「な、めるんじゃ、ないわよ……ッ! 私たちが……あのとき感じた痛み、は……こんな、もんじゃない、わ……ッ! 3000年……閉じ込められ、て……いいように使わ、れる……屈辱にく、らべれ……ば……ッ、こ、んなもの……ッッッ!」

 クローディアの横に立つシルフィ。横たわる相手を見下ろすその瞳は、積年などという言葉では到底足りない、あまりにも重すぎる恨み一色に染まり果てていた。

「いい、加減……めざわり、よ……ッ!」

 そして、シルフィが左腕に握った剣を、クロ-ディアめがけて振り下

「―――ッ!?」

 ろそうとしたその時、



 ―――――――――世界が、揺れた。



 その衝撃は、地震などという生易しいものではなかった。まるで地の底でなにかが吠えたかのような、星そのものが揺れたとしか思えないほど凄まじいものだった。

「ギ、ィっ、ッッッ!?」

 危機を察してか反射的に後方へ飛んだシルフィ。
 だが間に合わず、今度はその左手から先が、切断された。

「ぃ、ガ……ぁ、ッ……グ、ゥ……ッ!」

 激痛に、ついに膝を屈するシルフィ。咄嗟に白の魔法を発動して回復を急ぐが、血を流しすぎてマナが足りないのか、まるで間に合っていない。

「……すんでのところで躱したか。さすがだな」

 その時、聞き覚えのある声が、彼女の耳をついた。
 なんとか視線を上げるシルフィ。その見据えた先、正面には、クローディアを守るように一人の青年が立っていた。
 ―――アル・レイナード。
 だが、その姿は、先ほどまでの満身創痍ではない。その傷は今やすべてが癒えていた。

「……まさか、あれだけ激しい戦闘中に、見たこともない規則で暗号化された詠唱文の鍵を一瞬で見破るとはな。とんでもないやつだ」

 倒れたクローディアを優しく、しかし驚きに満ちた視線で見つめるアル。
 ―――クローディアがシルフィを破るために打って出た秘策。
 それは、魔法具の破壊だった。
 彼女は、地下の研究室でアルから教わった言葉に、一縷の望みを見出したのだ。
 ―――魔法を消す時は、もう一度《魔法名》を唱えればいい。それで再び詠唱文が暗号化されて、魔法は形相を保てなくなる。
 シルフィの魔法を無力化し、その隙に一撃を叩き込む、それが彼女の狙いだった。
 だが、口で言うほど簡単なことではない。むしろ不可能に等しいことだった。
 シルフィの魔法―――《無の翼槍》の詠唱文は93文字。古語26文字で93文字から成る文章を作る場合、その文字列の可能性は
391310373715552665742477550866564009204326841496617966930170284865930067072853095210579911876356362898555145718823786006497854488576
通りだ。
 その中から、たった一つ正しく意味の通る、そもそも原文を暗号化した方法も知らない詠唱文の正体を見抜く……それも神との戦いの中で。
 それを瀕死の体で成し遂げるなど、人間業どころか神業の域も超えていた。
 your name holy.
 your name wing and penetrating light.
 your name Sadikel.
 your blazing execution and annihilation.
 だが、その詠唱文を見抜いただけでは、魔法は止められない。詠唱文を暗号化する鍵となる古語、つまり《魔法名》を唱える必要があるからだ。
 アルは落ちたシルフィの左手を包む魔法具に目をやる。

「……《アンブレイカブル》か」

 ―――《アンブレイカブル》。かつて神と人類が対立した時代、《魔法陣》の存在を突き止めた人類が詠唱秘匿用に創造した、文字通り解読不能として知られる暗号だ。暗号化する仕組みを知っていても解読はできないため《絶対解読不能暗号》と名付けられた、文字通り難攻不落の暗号。

「……皮肉なもんだな。人間を嫌ったお前が、人間の暗号で魔法を守って、それを人間に破られるなんてな……」
「ち……ぃ、ッ!」

 片腕片手を失ったシルフィは、それでもなけなしの気力を振り絞り、大量の白い光弾を召喚してアルへ放つ。―――《白の光輪》。癒やしを司る彼女の、数少ない攻勢魔法だ。
 だが、そのすべては彼が右手をかざし、そして握り締めた途端、

「ッ!?」

 霧散した。

「……あ、《碧の断章》ッ!? なん、で……そんなちか、ら……が……っ!?」

 激しい動揺を露わにするシルフィ。
 そんな彼女を追い詰めるかのように、アルは彼女へ向かい歩を進める。
 続けざま大量の光弾を放つシルフィ。だが、結果は同じだった。いずれもアルの目の前までは達するも、そこで驚くほどあっさり、一瞬で、姿を消した。

「無駄だ。お前もわかってるだろ。今のお前じゃ、もう俺には勝てないってことが」
「……ふ……っ、っざけん、じゃないわよッッッッッ!」

 シルフィは怒りのまま光弾を放ち続ける。
 だが、その抵抗はもはや、虚しさしか感じさせなかった。

「……無駄だって、言ったろ」

 どこか哀れみを感じさせる表情を浮かべながら、歩み続けるアル。
 その一歩、また一歩が、待ち受ける結末を揺るぎないものにしていく。
 そして、アルが再び右手を持ち上げた。

「ッ!」

 反射的に横へ跳ぶシルフィ。
 だが、もはや今の彼女に、アルの一撃を躱すだけの体力は残っていなかった。
 アルが、拳を握った。


 ―――世界が、ずれた。


 直後、シルフィの左腕が落ちた。

「あ、ガァああぁあアぁァァあアぁあァぁっ、ッッッッッ!」

 両腕を失ったシルフィが地に伏し、激痛に堪えかねて絶叫。土に塗れ、血に汚れ果てた無残な姿に、もはやかつての凛々しい女性の面影は微塵もなかった。
 ―――《碧の断章》。それは、文字通り空間そのものをずらす魔法。望む場所を、望む範囲で、望むようにずらせる超常の力。
 アルが拳を握った瞬間、世界は確かに、アルとシルフィの間で、縦に真っ二つになった。
 アルはシルフィの体の中心を境に、縦方向に、空間の一部をずらした。当然、人体を境に発動すれば、その体は真っ二つになる。シルフィは咄嗟に横へ動いて中心から切り裂かれるのは避けたものの、間に合わずに左肩から先を失ったのだ。

「―――終わりだ。もう、こんな馬鹿な真似はやめろ」

 アルが、シルフィに問う。
 その声色には、かつての仲間を取り戻さんとするような、痛々しさすら感じさせた。
 しかし、その言葉はシルフィの怒りに火をつけただけだった。

「やめろ? やめろですって!? ふっ、ざけんじゃないわよッッッ! 裏切り者のあんたになにがわかる! 人類は滅ぼさなければならない! 仲間を売って敵に与した挙げ句に同胞を手にかけ続けたあんたの言葉なんざ聞くに値しないッッッ!」

 もはや死に体のシルフィは、血を吐きながら、呪詛めいた怒りをぶちまける。
 彼女の言葉は、彼女が受けた屈辱、溜め込んだ憎悪、晴らすべき恨みの重さを、なによりも強く、強く、感じさせた。
 その力に、アルもまた、もはや自分の言葉は届かないことを、悟った。

「……そうか。なら、もう話すことはない」

 アルは、右腕を持ち上げ、その手の平をシルフィに向けた。
 シルフィは、血に汚れた息を絶え絶えに吐きながら、それでもアルを睨む。
 その瞳は……すべてを悟ったかのように、怒りに震えていた。
 向き合う二人。
 無言。
 無動。
 無音。
 ただ、来たるべき時を待つかのように。
 ―――風。
 土埃が舞う。
 微かに白く染まりはじめる、青の群れ。
 陽が、昇った。

「……じゃあな」

 アルが―――右手を、握った。



 ――――――――――――――――――世界が、裂けた。
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