本編
シルフィの地下室で《蟲》と交戦していたクローディアは、苦戦を強いられていた。
(ぐっ……ッ! 魔法を使う隙が……ッ!)
部屋が狭いため身を隠して魔法を詠唱できず、しかも《蟲》の動きが速すぎて部屋を出る余裕もない。ただひたすら相手の猛攻を凌ぐだけで、攻め手を欠いていた。
部屋はもはや原形を留めていない。訪れた時より一回り広くなったと感じるほど、壁という壁が《蟲》の一撃によって抉られ続けている。
(動き……にくい、ッ! このままだとまずい……ッ!)
不運にも、それによって荒れた瓦礫まみれの地面で、満足に動けないクローディア。次第に《蟲》の攻撃が彼女を捕らえ始めていた。このままでは敗北必至だ。
だが、ここは王都の地下だ。以前のように《碧の剣》を使うわけにはいかない。
どうする。どうすればいい。《蟲》の攻勢を凌ぎつつ思考するクローディア。だが、体力が削られていくにつれ、もはや我が身を守るだけでも苦慮する一方だ。
(……なんとか一度、外へ……ッ!)
ここで倒すのは不可能。そう判断したクローディアは《蟲》の隙をついて部屋から出る道を探る。詰め所に《蟲》を誘導することにはなるが、ここで戦っても勝機はない。
《蟲》が右腕を鞭のように振り下ろす。クローディアは咄嗟に横へ躱して距離を取った。が、直後に相手の左腕が地を這うように振り回され、大量の瓦礫が彼女めがけて飛来する。
「ッ!」
なんとか黒剣を盾にするも大量の礫を完璧には防ぎ切れない。
「ぐ、ぅっッ!」
クローディアは痛みを無視して出口へ駆ける。しかし《蟲》が正面に回りこみ、その右腕を払った。
「う、ぐっ、ッ!」
反射的に黒剣で防ぐも体は軽々と吹き飛ばされ壁に激突。堪らずに膝をつくクローディア。
その隙を逃すまいと《蟲》が瞬時に接近。左腕を振り回す。
「が、っ、ッ!」
咄嗟に防ぐも力の入らない腕ではもはや防御の意味を成さない。クローディアの体は地面を激しく転げ回り、反対側の壁に叩きつけられた。
「か……は、っ……ッ!」
劣勢が窮地に変わったのは、明らかだった。
それでも黒剣を地に立て必死に立ち上がろうと踏ん張るクローディア。だが、もはや体力は限界に達しており、その体は震えるだけで言うことを聞かない。
《蟲》に容赦はなかった。すぐさま接近すると隙だらけの彼女めがけて右腕を突き放った。
足が動かない。これは躱せない。受け切れない。
即ち待っているのは―――死、ただ一つ。
(ぐ、ぅっ……!)
それを悟ったのか、クローディアは迫る《蟲》の腕を前に、ただ反射的に瞳を閉じた。
……
……だが、なにも起こらなかった。
(……え?)
かわりに、妙な音がした。
なにかが空を切るような音。そして、なにかが地面に落ちる音。
恐る恐る、瞳を開けるクローディア。
目の前には……《蟲》が立っていた。
だが、彼女めがけて放たれた右腕はいま、そこにはなかった。その肩から先は無残にも斬り落とされ、彼女の目の前に転がっていた。
そして……《蟲》の体が腰で真っ二つになり、上半身がずるりと滑り落ちた。
「―――ッ!?」
クローディアの表情が驚愕に染まる。
だが、それは《蟲》が真っ二つになったこと以上に、その背後から現れた人物の姿に思わず目を疑ったからだった。
「あ、貴方……どうして、ッ!?」
刈り上げた黒髪。無愛想な無表情。その身が放つ粗野な、しかし懐かしい雰囲気。
立っていたのは……アル・レイナードだった。
「よぉ。無事か?」
何事もなかったかのように、かつてともに過ごした時間の続きのように、尋ねるアル。
「……え? え、ええ…………、――――――ッ!」
反射的に答えるも、クローディアは咄嗟に彼から距離を取って剣を構えた。
そう、彼は殺人犯なのだ。心のどこかで、まだそれを信じ切れていない自分がいるのも事実だが、決して気を許していい相手ではない。
しかし、彼女の反応はアルも承知の上だったようだ。
「……あんたが俺を疑ってるのは分かってる。まぁ、あの三人を俺が殺したのは事実だから当然だけどな。だから、いま上で起こってる事態が収まったら、俺を捕まえるなり好きにすればいい。もっとも、俺も逃げるけどな」
「う、上? 上でなにか起こっているの?」
話が見えないクローディア。だが、彼の口ぶりから、嫌な予感が膨れ上がる。
「……そうか。あんた、先にこっちへ来たのか。なら知るはずもないな」
アルはクローディアに近づく。対して、本能のまま下がるクローディア。
「……安心しろ、傷を治すだけだ。そのついでに全部、説明してやるよ」
クローディアは彼に殺気がないのを確認すると、剣を鞘に収めた。
そして、アルが傷を治療しながら、いま起こっているすべてを話してくれた。
―――それは、にわかには信じ難い、数千年の時を超える物語だった。
……単刀直入に言うぞ。いま地上では《魔獣》がマルドゥークに攻め込んできてる。それも2体。《原初の魔獣》と、あんたたちが見つけたライネル古砦跡の《魔獣》だ。
な、なんですってッ!? ―――痛ッ!
落ち着け。いまは動くな。傷が塞がらない。
落ち着け!? できるわけないでしょ!? 早く行かないと王都の人たちが危ないのよ!
今のあんたが行ったところで足手まといなだけだ。それに手は打ってあるから安心しろ。王都が《魔獣》に陥とされることはない。
ぐ、っ……ッ! ……で、でも、相手はあの《魔獣》よ? 手を打つって、いったい……。
いいから、あんたは治療に専念しろ。
……わ、わかったわ。……それで?
ん? ああ、事の経緯か。
いったい、なにが起こってるの? シルフィ様もなにか知ってる風だったし……それに、なんで《魔獣》が2体も同時に攻めこんでくるなんて事態になってるの?
そうだな………………クローディア、あんた《大災禍》は知ってるな?
い、いきなりなんの話? 知ってるけど……。
どう伝え聞いてる?
……神々と対立する悪魔が、神に与する人類を滅ぼそうと地上へ襲来した時、人類が7日7晩かけて悪魔を大洪水で洗い流したって……。
なるほどな。……まぁ、仕方ないか。大洪水ですべての史書が失われて、真実を伝える証拠はなに一つ残ってない。真実を知るのは、当時を生きた数少ない存在だけになったしな。
と、当時を生きた? ちょっと待って。《大災禍》は3000年以上も前の話よ。当時の人が今も生きているわけないじゃない。
誰も人とは言ってないぞ?
……え。
あんたも言ったろ。《大災禍》は神と悪魔と人類を巻き込んだ事件だって。
……ま、まさか………………かみ……さ、ま?
そうだ。……なんだ、もしかして信じてなかったのか? 神の存在。
え、いえ、その……
悪い悪い、これは意地が悪い質問だな。でもまぁ、それが普通だろ。魔法は神の力なんていわれて、その存在が信仰の対象になってるが、実際、神や悪魔が存在するなんて心の底から信じてるやつのほうが稀だろうな。
…………ほ、ほんとう、なの?
ああ。―――あのとき本当にあったのは、神と悪魔の対立じゃない。神と人間の対立だ。
神と……人間?
《大災禍》の真実は、こうだ。―――遥か昔、神は人類に魔法を授けた。飢えや乾きに苦しむ人類を見かねて、火を熾したり、雨を待たずとも作物に水を与えたりする術を与えたんだ。その力……あんたたちが魔法と呼ぶ力を人類は大いに喜び、神に感謝した。いま世界中に残ってる《豊臨祭》みたいな神を祀る祭事は、そのほとんどがこの時に生まれた。……だが、中には超常的な力を手にして驕った人類がいた。その力を略奪や他者の支配にしか使わないような連中がな。こいつらは魔法の扱いに長けてない人類を虐げ、従え、酷使した。そして、遂には神さえも支配しようとして、その逆鱗に触れた。
……それで?
だが、連中の悪どさは一級品でな。そんなことをすれば、神が怒り狂うのはわかっていたから事前に手を打っていた。それが、あんたがシルフィから見せてもらった《魔法陣》だ。
……え?
神は人類に魔法の詠唱を教えはしたが、《魔法陣》の存在は教えなかった。万が一、その力で神に歯向かう可能性などを考慮して、自分たちの優位を保ったんだ。だが、人類は神々の予想を超えて、独力で《魔法陣》を編み出してみせた。あんたみたいにな。結果、神々は隙をつかれ、あんたがライネル古砦跡で見たあの巨大水晶―――ザフィケルの《虹の迷宮》で次々と封印されていった。神々を殺せば、魔法が使えなくなる。だから封印するに留めて、魔法を引き出すための道具として、永劫封印し続けることにした。
じ、人類が……神、を?
そうだ。その横暴に怒れる残りの神々が、全人類を殲滅するために、地上に《聖獣》を放った。あんたたちが《魔獣》と呼んでる存在だ。
ま、《魔獣》は神の使いだっていうの!?
ああ。もっとも、人類を殺せと主に命じられてるから、今となっては《魔獣》と呼んだほうが相応しいけどな。……だが、一方でそんな乱暴なやり方に異を唱える神々もいた。確かに人類の行いは看過できないが、殲滅にも賛同できないってな。そんな一部の神々が下した決断が《大災禍》だ。善なる民を方舟に乗せ、喚び寄せた1ヵ月にもわたる大洪水で地上の悪しき人類と《聖獣》を洗い流した。そして、人類殲滅を企てた神々も《虹の迷宮》に封印した。
……それが、真実?
ああ。―――その後、人類はいっさいの魔法を封印した。また同じような連中が出て、神の怒りを買うとも限らないってな。一方で、人類殲滅に反対した神々も人類と関わらなくなった。こうして一度、世界から魔法が失われて、次第に神々への信仰も失われていった。
そ、そんなことが……。
だが、魔法は一部で細々と伝承され続け、ここ百数十年で一気に広まった。それによって祈りを蓄えた《聖獣》や神々が封印を解き、復活してるのが現状だ。
信仰で復活……?
神々は民の信仰、つまりは捧げられたマナを自らの力に変える。魔法の詠唱や多くの神事が復活したことで、神に祈りが集まるようになった、つまり封印を破れるほど力が強まったってことだ。―――そして、復活した連中は、再び人類を滅ぼそうとしてる。少なくとも、この国で俺が殺害した三人はそうだった。レイチェル、ノエル、シャムエル……あいつらは互いに協力して、封印された神々や《魔獣》を探し回っていた。
ちょ、ちょっと待って! あの三人が……か、神?
ああ。名前に神を意味する《el》って入ってるだろ。本当の名前はラケル、ノエル、カマエル。本来、祈りを受け取るためにも偽名は使わないんだが、俺たちにバレないために、二人はあえて真名を伏せたんだろう。もっとも、レイチェルとシャムエルはその名で信仰されてきた土地も多いから、そこまで弊害はなかっただろうけどな。
……ぎ、偽名?
ああ。祈りを受け取るには本当の名を使わなければならない。セイファートのケルブ族とか有名だろ? 公的な名を用意して私的な名前を守る部族。あれと同じ仕組みだ。
で、でも……その三人、本当に……その……か、神、なの?
シャムエル―――カマエルが殺害された直後に《光》の魔法が使えなくなっただろ。あれはやつが《光》の魔法を司る存在だからだ。主を失った魔法は、当然だが発動しない。ちなみにこの国では知られてないが、ラケルとノエルが司る《音》と《砂》の魔法も、すでにこの世から失われている。
そ、そんな、ことが……。
……本当なら、人類の生活に深く根差した魔法を消滅させるのは避けたいんだけどな……。だが、人類殲滅を目論む神々を生かしておくわけにはいかなかった。―――そして、その三人を王都へ呼んで、ともにこの国の殲滅を企んでいたのが、あのシルフィだ。
ッ!? シ、シルフィ、さま……が……。
ああ。あいつの本当の名前は、ラファエル。かつて人類の殲滅を目論んで封印された神々の一人だ。癒やしの力を主とする《白》の魔法を司るやつで、それ故に多くの信仰が集まる。だから誰よりも早く復活した。
そ、そん、な……。
残念だが本当のことだ。そしてあいつは今、2体の《魔獣》を使ってこの国を滅ぼそうとしてる。自分を封印した人類への復讐の手始めにな。……ったく、胡散臭ぇとは思ってたが、まるで関係ない偽名を使ってる上に見た目が変わってるから、気づくのが遅れた。……よし、こんなところでいいだろ。動けるか?
え? ……え、ええ、大丈夫。
なら、あとは自由にしろ。俺はもう行く。
ちょ、ちょっと待って!
なんだ? まだなんかあるのか?
……貴方、いったい何者なの? なんでそんな昔の話を知ってるの?
……
……
……あんまり言いたくないんだが、まぁここまで話した以上はしかたねぇか。―――俺の本当の名前は、アリエル。…………あんたの魔法を司る神だ。
ッ!? あ、貴方が……神アリエル!?
……とりあえず、その名前で呼ばないでくれ。今までどおりアルでいい。
……ほ、本当、なの?
信じる信じないは、あんたの自由だ。―――それと、これを持っていけ。
……これは?
《碧の剣》の《魔法陣》が刻まれた魔法具だ。詠唱文が暗号化されてるから、自動で発動することはない。使いたい時は《魔法名》を呟いてマナを込めれば、剣を召喚できる。
……ま、魔法、めい?
おとぎ話とかに出てくる、扉を開く鍵の呪文みたいなもんだ。アブラカタブラとかオープンセサミとかあるだろ。
あ、ああ、なるほど……。
《魔法名》を唱えると、詠唱文の暗号がこの鍵で解除されて、詠唱本来の意味が復元される。あとはマナを込めるだけでいい。こいつの魔法名は《Answerer》だ。やってみな。
え、ええ…………………………………………、―――ッ! ほ、本当に……喚べた。
魔法を消す時は、もう一度《魔法名》を唱えればいい。それで再び詠唱文が暗号化されて、魔法は形相を保てなくなる。
い、いったいどういう原理なの? この暗号、ぜんぜん読めないけど……。
いまは時間がない。いつか機会があれば教えてやる。
……もしかして、貴方が試験で詠唱なしで魔法が使えたのは、この魔法具があったから?
俺たちは魔法を司る側だから、そもそも詠唱を必要としない。想像すれば召喚できる。あくまで人類が詠唱なしで魔法を発動するための方法だ。―――じゃあ、俺は行く。
どこに行くの?
ラファエルのところだ。すべての元凶はあいつだ。
……本当に、シルフィ様が、今回の騒動の元凶なの?
ああ。
……わかったわ。―――それなら、私も連れてって。
ダメだ。
お願い。
あんたは足手まといだ。
お願い。
―――なんで、そこまであいつにこだわる?
知りたいの。……今までのことは、すべて嘘だったのか……私たちとの時間は、ぜんぶ偽りだったのか……。
…………好きにしてくれ。
あ、待って。
先に言っておくが、自分の身は自分で守ってくれよ。悪いが、あいつが相手じゃ、俺にあんたを守る余裕はそこまでない。集まる祈りの量が桁違いだからな。
そうなの?
癒やしの力は誰もが必要とするから、あいつには世界中から大量の祈りが捧げられる。俺の魔法は基本的に戦闘用だから、今の力はあいつのほうが上だ。あと俺は王都に入る少し前から偽名を使ってたからな、しばらく祈りを受け取れていない。
なんで偽名を使ってるの?
……嫌いなんだよ。よく女神と間違われるからな。だから、今みたいな本当に必要な時にしか自分の名前は口にしない。
……そ、それだけ?
それだけだ、悪いかよ。
……ふふ。
なんだよ。
いえ、なんからしくないなと思って。
ほっとけ。
ねぇ、もう2つだけいい?
なんだ?
貴方は、なんで人類を助けようとしてるの?
人類を一緒くたに悪として断ずるのが乱暴だと思ってるだけだ。俺だって、かつて仲間を道具のように利用した連中を許す気なんざない。だが、今の人類にその責を負わせるのは違う。
そう……。じゃあ、もう一つだけ。さっき言っていた《魔獣》の対策っていうのは? 本当に2体もどうにかできるの?
安心しろ、問題ない。東の《魔獣》は、今ごろもう終わってるだろ。西側も、あの怪物ならなんの問題もない。
怪物?
ああ。
(ぐっ……ッ! 魔法を使う隙が……ッ!)
部屋が狭いため身を隠して魔法を詠唱できず、しかも《蟲》の動きが速すぎて部屋を出る余裕もない。ただひたすら相手の猛攻を凌ぐだけで、攻め手を欠いていた。
部屋はもはや原形を留めていない。訪れた時より一回り広くなったと感じるほど、壁という壁が《蟲》の一撃によって抉られ続けている。
(動き……にくい、ッ! このままだとまずい……ッ!)
不運にも、それによって荒れた瓦礫まみれの地面で、満足に動けないクローディア。次第に《蟲》の攻撃が彼女を捕らえ始めていた。このままでは敗北必至だ。
だが、ここは王都の地下だ。以前のように《碧の剣》を使うわけにはいかない。
どうする。どうすればいい。《蟲》の攻勢を凌ぎつつ思考するクローディア。だが、体力が削られていくにつれ、もはや我が身を守るだけでも苦慮する一方だ。
(……なんとか一度、外へ……ッ!)
ここで倒すのは不可能。そう判断したクローディアは《蟲》の隙をついて部屋から出る道を探る。詰め所に《蟲》を誘導することにはなるが、ここで戦っても勝機はない。
《蟲》が右腕を鞭のように振り下ろす。クローディアは咄嗟に横へ躱して距離を取った。が、直後に相手の左腕が地を這うように振り回され、大量の瓦礫が彼女めがけて飛来する。
「ッ!」
なんとか黒剣を盾にするも大量の礫を完璧には防ぎ切れない。
「ぐ、ぅっッ!」
クローディアは痛みを無視して出口へ駆ける。しかし《蟲》が正面に回りこみ、その右腕を払った。
「う、ぐっ、ッ!」
反射的に黒剣で防ぐも体は軽々と吹き飛ばされ壁に激突。堪らずに膝をつくクローディア。
その隙を逃すまいと《蟲》が瞬時に接近。左腕を振り回す。
「が、っ、ッ!」
咄嗟に防ぐも力の入らない腕ではもはや防御の意味を成さない。クローディアの体は地面を激しく転げ回り、反対側の壁に叩きつけられた。
「か……は、っ……ッ!」
劣勢が窮地に変わったのは、明らかだった。
それでも黒剣を地に立て必死に立ち上がろうと踏ん張るクローディア。だが、もはや体力は限界に達しており、その体は震えるだけで言うことを聞かない。
《蟲》に容赦はなかった。すぐさま接近すると隙だらけの彼女めがけて右腕を突き放った。
足が動かない。これは躱せない。受け切れない。
即ち待っているのは―――死、ただ一つ。
(ぐ、ぅっ……!)
それを悟ったのか、クローディアは迫る《蟲》の腕を前に、ただ反射的に瞳を閉じた。
……
……だが、なにも起こらなかった。
(……え?)
かわりに、妙な音がした。
なにかが空を切るような音。そして、なにかが地面に落ちる音。
恐る恐る、瞳を開けるクローディア。
目の前には……《蟲》が立っていた。
だが、彼女めがけて放たれた右腕はいま、そこにはなかった。その肩から先は無残にも斬り落とされ、彼女の目の前に転がっていた。
そして……《蟲》の体が腰で真っ二つになり、上半身がずるりと滑り落ちた。
「―――ッ!?」
クローディアの表情が驚愕に染まる。
だが、それは《蟲》が真っ二つになったこと以上に、その背後から現れた人物の姿に思わず目を疑ったからだった。
「あ、貴方……どうして、ッ!?」
刈り上げた黒髪。無愛想な無表情。その身が放つ粗野な、しかし懐かしい雰囲気。
立っていたのは……アル・レイナードだった。
「よぉ。無事か?」
何事もなかったかのように、かつてともに過ごした時間の続きのように、尋ねるアル。
「……え? え、ええ…………、――――――ッ!」
反射的に答えるも、クローディアは咄嗟に彼から距離を取って剣を構えた。
そう、彼は殺人犯なのだ。心のどこかで、まだそれを信じ切れていない自分がいるのも事実だが、決して気を許していい相手ではない。
しかし、彼女の反応はアルも承知の上だったようだ。
「……あんたが俺を疑ってるのは分かってる。まぁ、あの三人を俺が殺したのは事実だから当然だけどな。だから、いま上で起こってる事態が収まったら、俺を捕まえるなり好きにすればいい。もっとも、俺も逃げるけどな」
「う、上? 上でなにか起こっているの?」
話が見えないクローディア。だが、彼の口ぶりから、嫌な予感が膨れ上がる。
「……そうか。あんた、先にこっちへ来たのか。なら知るはずもないな」
アルはクローディアに近づく。対して、本能のまま下がるクローディア。
「……安心しろ、傷を治すだけだ。そのついでに全部、説明してやるよ」
クローディアは彼に殺気がないのを確認すると、剣を鞘に収めた。
そして、アルが傷を治療しながら、いま起こっているすべてを話してくれた。
―――それは、にわかには信じ難い、数千年の時を超える物語だった。
……単刀直入に言うぞ。いま地上では《魔獣》がマルドゥークに攻め込んできてる。それも2体。《原初の魔獣》と、あんたたちが見つけたライネル古砦跡の《魔獣》だ。
な、なんですってッ!? ―――痛ッ!
落ち着け。いまは動くな。傷が塞がらない。
落ち着け!? できるわけないでしょ!? 早く行かないと王都の人たちが危ないのよ!
今のあんたが行ったところで足手まといなだけだ。それに手は打ってあるから安心しろ。王都が《魔獣》に陥とされることはない。
ぐ、っ……ッ! ……で、でも、相手はあの《魔獣》よ? 手を打つって、いったい……。
いいから、あんたは治療に専念しろ。
……わ、わかったわ。……それで?
ん? ああ、事の経緯か。
いったい、なにが起こってるの? シルフィ様もなにか知ってる風だったし……それに、なんで《魔獣》が2体も同時に攻めこんでくるなんて事態になってるの?
そうだな………………クローディア、あんた《大災禍》は知ってるな?
い、いきなりなんの話? 知ってるけど……。
どう伝え聞いてる?
……神々と対立する悪魔が、神に与する人類を滅ぼそうと地上へ襲来した時、人類が7日7晩かけて悪魔を大洪水で洗い流したって……。
なるほどな。……まぁ、仕方ないか。大洪水ですべての史書が失われて、真実を伝える証拠はなに一つ残ってない。真実を知るのは、当時を生きた数少ない存在だけになったしな。
と、当時を生きた? ちょっと待って。《大災禍》は3000年以上も前の話よ。当時の人が今も生きているわけないじゃない。
誰も人とは言ってないぞ?
……え。
あんたも言ったろ。《大災禍》は神と悪魔と人類を巻き込んだ事件だって。
……ま、まさか………………かみ……さ、ま?
そうだ。……なんだ、もしかして信じてなかったのか? 神の存在。
え、いえ、その……
悪い悪い、これは意地が悪い質問だな。でもまぁ、それが普通だろ。魔法は神の力なんていわれて、その存在が信仰の対象になってるが、実際、神や悪魔が存在するなんて心の底から信じてるやつのほうが稀だろうな。
…………ほ、ほんとう、なの?
ああ。―――あのとき本当にあったのは、神と悪魔の対立じゃない。神と人間の対立だ。
神と……人間?
《大災禍》の真実は、こうだ。―――遥か昔、神は人類に魔法を授けた。飢えや乾きに苦しむ人類を見かねて、火を熾したり、雨を待たずとも作物に水を与えたりする術を与えたんだ。その力……あんたたちが魔法と呼ぶ力を人類は大いに喜び、神に感謝した。いま世界中に残ってる《豊臨祭》みたいな神を祀る祭事は、そのほとんどがこの時に生まれた。……だが、中には超常的な力を手にして驕った人類がいた。その力を略奪や他者の支配にしか使わないような連中がな。こいつらは魔法の扱いに長けてない人類を虐げ、従え、酷使した。そして、遂には神さえも支配しようとして、その逆鱗に触れた。
……それで?
だが、連中の悪どさは一級品でな。そんなことをすれば、神が怒り狂うのはわかっていたから事前に手を打っていた。それが、あんたがシルフィから見せてもらった《魔法陣》だ。
……え?
神は人類に魔法の詠唱を教えはしたが、《魔法陣》の存在は教えなかった。万が一、その力で神に歯向かう可能性などを考慮して、自分たちの優位を保ったんだ。だが、人類は神々の予想を超えて、独力で《魔法陣》を編み出してみせた。あんたみたいにな。結果、神々は隙をつかれ、あんたがライネル古砦跡で見たあの巨大水晶―――ザフィケルの《虹の迷宮》で次々と封印されていった。神々を殺せば、魔法が使えなくなる。だから封印するに留めて、魔法を引き出すための道具として、永劫封印し続けることにした。
じ、人類が……神、を?
そうだ。その横暴に怒れる残りの神々が、全人類を殲滅するために、地上に《聖獣》を放った。あんたたちが《魔獣》と呼んでる存在だ。
ま、《魔獣》は神の使いだっていうの!?
ああ。もっとも、人類を殺せと主に命じられてるから、今となっては《魔獣》と呼んだほうが相応しいけどな。……だが、一方でそんな乱暴なやり方に異を唱える神々もいた。確かに人類の行いは看過できないが、殲滅にも賛同できないってな。そんな一部の神々が下した決断が《大災禍》だ。善なる民を方舟に乗せ、喚び寄せた1ヵ月にもわたる大洪水で地上の悪しき人類と《聖獣》を洗い流した。そして、人類殲滅を企てた神々も《虹の迷宮》に封印した。
……それが、真実?
ああ。―――その後、人類はいっさいの魔法を封印した。また同じような連中が出て、神の怒りを買うとも限らないってな。一方で、人類殲滅に反対した神々も人類と関わらなくなった。こうして一度、世界から魔法が失われて、次第に神々への信仰も失われていった。
そ、そんなことが……。
だが、魔法は一部で細々と伝承され続け、ここ百数十年で一気に広まった。それによって祈りを蓄えた《聖獣》や神々が封印を解き、復活してるのが現状だ。
信仰で復活……?
神々は民の信仰、つまりは捧げられたマナを自らの力に変える。魔法の詠唱や多くの神事が復活したことで、神に祈りが集まるようになった、つまり封印を破れるほど力が強まったってことだ。―――そして、復活した連中は、再び人類を滅ぼそうとしてる。少なくとも、この国で俺が殺害した三人はそうだった。レイチェル、ノエル、シャムエル……あいつらは互いに協力して、封印された神々や《魔獣》を探し回っていた。
ちょ、ちょっと待って! あの三人が……か、神?
ああ。名前に神を意味する《el》って入ってるだろ。本当の名前はラケル、ノエル、カマエル。本来、祈りを受け取るためにも偽名は使わないんだが、俺たちにバレないために、二人はあえて真名を伏せたんだろう。もっとも、レイチェルとシャムエルはその名で信仰されてきた土地も多いから、そこまで弊害はなかっただろうけどな。
……ぎ、偽名?
ああ。祈りを受け取るには本当の名を使わなければならない。セイファートのケルブ族とか有名だろ? 公的な名を用意して私的な名前を守る部族。あれと同じ仕組みだ。
で、でも……その三人、本当に……その……か、神、なの?
シャムエル―――カマエルが殺害された直後に《光》の魔法が使えなくなっただろ。あれはやつが《光》の魔法を司る存在だからだ。主を失った魔法は、当然だが発動しない。ちなみにこの国では知られてないが、ラケルとノエルが司る《音》と《砂》の魔法も、すでにこの世から失われている。
そ、そんな、ことが……。
……本当なら、人類の生活に深く根差した魔法を消滅させるのは避けたいんだけどな……。だが、人類殲滅を目論む神々を生かしておくわけにはいかなかった。―――そして、その三人を王都へ呼んで、ともにこの国の殲滅を企んでいたのが、あのシルフィだ。
ッ!? シ、シルフィ、さま……が……。
ああ。あいつの本当の名前は、ラファエル。かつて人類の殲滅を目論んで封印された神々の一人だ。癒やしの力を主とする《白》の魔法を司るやつで、それ故に多くの信仰が集まる。だから誰よりも早く復活した。
そ、そん、な……。
残念だが本当のことだ。そしてあいつは今、2体の《魔獣》を使ってこの国を滅ぼそうとしてる。自分を封印した人類への復讐の手始めにな。……ったく、胡散臭ぇとは思ってたが、まるで関係ない偽名を使ってる上に見た目が変わってるから、気づくのが遅れた。……よし、こんなところでいいだろ。動けるか?
え? ……え、ええ、大丈夫。
なら、あとは自由にしろ。俺はもう行く。
ちょ、ちょっと待って!
なんだ? まだなんかあるのか?
……貴方、いったい何者なの? なんでそんな昔の話を知ってるの?
……
……
……あんまり言いたくないんだが、まぁここまで話した以上はしかたねぇか。―――俺の本当の名前は、アリエル。…………あんたの魔法を司る神だ。
ッ!? あ、貴方が……神アリエル!?
……とりあえず、その名前で呼ばないでくれ。今までどおりアルでいい。
……ほ、本当、なの?
信じる信じないは、あんたの自由だ。―――それと、これを持っていけ。
……これは?
《碧の剣》の《魔法陣》が刻まれた魔法具だ。詠唱文が暗号化されてるから、自動で発動することはない。使いたい時は《魔法名》を呟いてマナを込めれば、剣を召喚できる。
……ま、魔法、めい?
おとぎ話とかに出てくる、扉を開く鍵の呪文みたいなもんだ。アブラカタブラとかオープンセサミとかあるだろ。
あ、ああ、なるほど……。
《魔法名》を唱えると、詠唱文の暗号がこの鍵で解除されて、詠唱本来の意味が復元される。あとはマナを込めるだけでいい。こいつの魔法名は《Answerer》だ。やってみな。
え、ええ…………………………………………、―――ッ! ほ、本当に……喚べた。
魔法を消す時は、もう一度《魔法名》を唱えればいい。それで再び詠唱文が暗号化されて、魔法は形相を保てなくなる。
い、いったいどういう原理なの? この暗号、ぜんぜん読めないけど……。
いまは時間がない。いつか機会があれば教えてやる。
……もしかして、貴方が試験で詠唱なしで魔法が使えたのは、この魔法具があったから?
俺たちは魔法を司る側だから、そもそも詠唱を必要としない。想像すれば召喚できる。あくまで人類が詠唱なしで魔法を発動するための方法だ。―――じゃあ、俺は行く。
どこに行くの?
ラファエルのところだ。すべての元凶はあいつだ。
……本当に、シルフィ様が、今回の騒動の元凶なの?
ああ。
……わかったわ。―――それなら、私も連れてって。
ダメだ。
お願い。
あんたは足手まといだ。
お願い。
―――なんで、そこまであいつにこだわる?
知りたいの。……今までのことは、すべて嘘だったのか……私たちとの時間は、ぜんぶ偽りだったのか……。
…………好きにしてくれ。
あ、待って。
先に言っておくが、自分の身は自分で守ってくれよ。悪いが、あいつが相手じゃ、俺にあんたを守る余裕はそこまでない。集まる祈りの量が桁違いだからな。
そうなの?
癒やしの力は誰もが必要とするから、あいつには世界中から大量の祈りが捧げられる。俺の魔法は基本的に戦闘用だから、今の力はあいつのほうが上だ。あと俺は王都に入る少し前から偽名を使ってたからな、しばらく祈りを受け取れていない。
なんで偽名を使ってるの?
……嫌いなんだよ。よく女神と間違われるからな。だから、今みたいな本当に必要な時にしか自分の名前は口にしない。
……そ、それだけ?
それだけだ、悪いかよ。
……ふふ。
なんだよ。
いえ、なんからしくないなと思って。
ほっとけ。
ねぇ、もう2つだけいい?
なんだ?
貴方は、なんで人類を助けようとしてるの?
人類を一緒くたに悪として断ずるのが乱暴だと思ってるだけだ。俺だって、かつて仲間を道具のように利用した連中を許す気なんざない。だが、今の人類にその責を負わせるのは違う。
そう……。じゃあ、もう一つだけ。さっき言っていた《魔獣》の対策っていうのは? 本当に2体もどうにかできるの?
安心しろ、問題ない。東の《魔獣》は、今ごろもう終わってるだろ。西側も、あの怪物ならなんの問題もない。
怪物?
ああ。