本編
◯神暦3917年 木龍月21日 魔道王国イングリッド
翌日、クローディアは三人目の犠牲者となった女性の邸宅を訪れていた。
彼女の名は、シャムエル・ローゼン。仕事は陶器商。出身はセイファートで、数年前から定期的に王都へ来ては露店を開いており、去年この町に居を構えた。
現場の邸宅は王都の南東側、小さな戸建てが立ち並ぶ落ち着いたエリアの一角にあった。一人で住むにはやや大きめの贅沢な平屋で、彼女がいかに裕福だったかをよく表している。
家屋内の状況は事件当時のままだった。もっとも、やはり建物に損壊はなかったため、平時とあまり変化は見られない。唯一にして大きな違いは、布を被った被害者の遺体が部屋の真ん中に安置されている点くらいだ。
クローディアは遺体の傍らに跪くと、まず瞳を閉じて両手を合わせ、しばし黙祷を捧げて被害者の冥福を祈る。そして心中で謝意を述べつつ、そっと布を捲った。
(……! この人、あのときの……)
死体の顔を認めたクローディアの脳裏を、ある女性の面影が過った。
目の前で横たわる女性はあの日―――ハティと一緒に街を巡った日、手品を披露していた女性だった。
シャムエルの遺体は、先の二人同様、見るも無残だった。右肩から左腰部にかけて斜めに両断されていたのだ。せめてもの救いは、その凄惨な死に様とは裏腹に、死に顔があまりにも穏やかな点だろう。おそらく痛みを感じる間もなく、命を絶たれたに違いない。
そして、そんな彼女もまた、先の二人と同様いっさい出口のない私室で殺害されていた。
その方法は、いまなお不明だ。昨夜、ニーナとリトが教えてくれた魔法によるものかもしれないが、確証はない。
―――だが、その犯人だけは、すでに明らかになった。
思えば、ライザが傭兵試験参加者の可能性を指摘したときに気づくべきだった。彼は誰よりも最有力容疑者だ。レイチェル・ドーンも容易に殺害できる外部から来た人間であり、なにより試験で用いた魔法は、被害者たちの傷跡を克明に想起させる。
彼に対する期待か、あるいは別の要因か、明らかに当時の自分の目と思考は曇っていた。クローディアは、ただただ反省するばかりだ。
クローディアの報告を受けて、連続殺人事件の犯人はアル・レイナードで確定。手の空いている騎士団員たちはいま、全力で彼の行方を追っている。
―――だが、それでも。
(……アル。本当に貴方が犯人なの?)
事件現場からの帰り道、思わず足を向けた宿屋を見上げながら虚空に尋ねるクローディア。
自らの目で犯人の正体を見たにもかかわらず、彼女はまだアルの所業を信じられずにいた。本当に彼は、この国に仇為す存在なのか……とてもそうは思えなかった。
だから、真実が知りたかった。
だから、ここまで来た。
だが、もちろんアルはいなかった。受付の女性いわく「昨日の夕方、後にしたわよ。あーぁあー、助かってたのになぁ」とのことだった。
宿屋を後にして、彼が泊まっていた部屋の窓を静かに見上げるクローディア。
あの二人、アルとハティは、本当にこんなことが目的で王都に来たのか……。
二人と交わした時間が、その時の感情が、それを嘘だと告げるかのように、沸々と胸の奥で滾る。だが、その答えは、もう手に入らない。
クローディアは金獅子亭を後にする。そして、その足を王立魔道研究所へ向けた。
昨夜の一件をベルヴェリオに報告したところ、彼女とライザは事件の調査から外れ、今日からは昨夜に起こった謎の魔法消失について調べることになった。国の防衛の要である防護魔法の一つが失われた今、こちらの対策のほうが急を要するためだ。
―――しかし、クローディアの気持ちは、いまだにアルのほうを向いていた。
もっとも、それは感情的な理由だけではなかった。彼を犯人だとすると、どうにも腑に落ちない点があるという合理的な判断もあった。
まず動機がわからない。被害者の三人はキャラバンのリーダー、王立図書館の職員、そして陶器商。いずれも彼とつながりがあるとは思えない。
次に三人を殺害するのが目的なら、聖痕騎士団に入った理由も説明できない。そんなもの目的の達成において重荷になるだけだ。
そして最大の謎は、なぜ昨夜の逃亡中、自分たちを殺害しなかったのかだ。彼の実力なら逃げる必要などない。追っ手を全員、排除すれば確実だ。しかし、そうしなかった。なぜ?
(……確かに、不可解な点があるのは事実だな)
ベルヴェリオへ報告した際、彼女もまたクローディアの疑問に同意した。……が、
(しかし、そなたは顔を見たのだろう。であるならば、アル・レイナードが犯人である可能性は高い。それに、そもそも後ろ暗い理由がなければ、逃亡などしない)
確かにそうだ。犯人でないなら逃げる必要などない。
そして、アルは今日、詰め所に姿を見せていない。無断欠勤だ。
(いずれにしても、アル・レイナードは捕縛しなければならない。本当に犯人なら、その目的を質さなければならない。さらなる殺害を目論んでいるなら、それを止めなければならない)
アルの実力を考えれば、捕縛は極めて困難だろう。だが、それでもクローディアは、仲間が彼を捕らえてくれればと強く思っていた。真実を知るために。
そして願わくば、あの二人と過ごした時間に、嘘などなかったと信じたい。
あのひとときに、なにひとつ、嘘などなかったのだと……。
王立魔道研究所に入ったクローディアは、1階にあるシルフィの研究室で本棚と向かい合っていた。公的な図書館より魔法に関する書物が豊富なため、魔法消失の原因を探るには、ここが最も効率的との判断からだ。部屋の主はいま《魔獣》の研究で不在だが、普段から使っていいといわれているため、問題はない。
クローディアは1000冊を超える蔵書を片っ端から流し読み、手がかりを探していく。一心不乱に黙々と読み漁る姿は、アルの一件を必死に忘れようとしているかのような痛々しさすら感じさせるほど、目の前の仕事に集中していた。
だが、夕方までかかっても、大した成果は得られなかった。
(……だめね。手がかりになりそうな情報がまったくない)
もっとも、当然だろう。魔法がいきなり消失するなど前代未聞の事態だ。文献に記録が残っているとは思えない。
報告によれば、失われた魔法は、カマエル神の魔法だけだった。分かっているのは、その事実のみ。どう調べればいいのか、些細な手がかりすら皆無だ。
クローディアは少し休憩を挟んだ後、一冊、また一冊と再び手に取っていく。すでに外は宵時を迎えていたが、関係ない。一刻も早く原因を突き止め、カマエル神の魔法を取り戻さなければならない。
「痛ッ!」
痛みが指を襲ったのは、その時だった。
思わず顔を顰めるクローディア。確認すると右手の人差し指の腹に切り傷があった。おそらく焦りが手元を狂わせ、紙で切ったのだろう。
本を血で汚すわけにはいかない。だが、血が止まるのを待つ時間も惜しい。
クローディアは、治癒魔法で対処することにした。
『―――your name agape. your name heal and caritas whisper. your name……』
ラファエル神の魔法《白の風》。重傷ならいざ知らず、小さな傷を回復する程度なら難しくないため、騎士団でも最低限の応急処置用に全員が習得を義務づけられている。
そのためクローディアも、指先の小さな切り傷程度、これで容易に治療できるのだが……
「……?」
―――魔法は、発動しなかった。
だが、それはカマエル神の魔法のように、いきなり消えたわけではない。
彼女が、詠唱を途中で切ったからだ。
(……音?)
―――突如、どこからか響いた、ガコンという不審な音に気を取られて。
なんだろうか? 不思議に思い、少し周りを見回るクローディア。
……すると、妙な箇所があった。
部屋の隅だ。
(……光ってる?)
敷かれた絨毯から微かに光が漏れていたのだ。
クローディアは恐る恐る近づき、慎重に絨毯を捲ってみる。
そこには、鉄製と思われる見るからに重そうな扉があった。
その表面にはシルフィから教わった《魔法陣》と思しき紋様が刻まれており、淡い光を放っている。つまりは、なんらかの魔法が発動しているということだろうか。
(……シルフィ様が私的に作った研究室かしら。魔法陣の研究は危険を伴うだろうし……)
使用者の意志に関わらず魔法が発動してしまう《魔法陣》は、下手をすると周囲に危害を及ぼしかねない。安全に研究するには、地下の施設が適当だろう。
クローディアは扉の取っ手を握り、引いてみた。あっさり開いた。中には梯子がかかっており、どうやら地下に続いているようだ。
勝手に入ってはまずいだろう。クローディアは、その場を離れようとした。
―――だが、その足がすぐに止まる。
(……また、音?)
先ほど聞こえたガコン、という音が再び聞こえたのだ。
扉のほうを振り返るクローディア。音は扉の奥、つまりは地下から聞こえた。
誰か、いるのだろうか。
シルフィではない。彼女は今日も《魔獣》の研究で王都を出払っている。朝方、クローディア自身が王都の門で彼女を見送ったのだから。
では、いったい誰が……?
(……)
しばし考えた末、クローディアは中へ入る決意を固め、階段を降りていった。
勝手に入るのは気が引けたが、侵入者などがいるのなら問題だ。何事もなければ、あとで勝手に入ったことを謝ればいい。
慎重に地下をめざすクローディア。
階段は長く、降り切るのに2分ほどかかった。
辿り着いたのは、長く綺麗な地下通路。ライネル古砦跡の地下遺跡とはまるで違う、人の手が入った造りだ。おそらくシルフィが整形したのだろう。
念のため、腰の黒剣をいつでも抜けるよう握り締め、慎重に進むクローディア。
道中、特に妙な様子はなく、歩くこと20分。
行き着いた先には、先ほどのものと似た鉄製の扉があった。
慎重に扉を開くクローディア。
中は、簡素な研究室を思わせる広めの部屋だった。室内にあるのは隅の小さな木机一つ、そして左右の壁の本棚だけ。おそらくシルフィが《魔法陣》の研究用に用意した私的な研究室だろう。
あたりを見回す。特に変わったところはない。怪しい人影もなかった。
あの音はなんだったのか? その疑問は解消されないが、長居しても益はなさそうだ。クローディアは部屋を後にしようと踵を返した。
―――その時だった。
「ッ!?」
反射的に身を仰け反らせて迫った一撃を躱せたのは、奇跡といえた。
クローディアは突如襲いかかった何者かの襲撃を躱すと、そのまま後転してその存在から距離を取る。そして、すぐに黒剣を抜き、正面を見据えて追撃に備えた。
「 え?」
相手の正体を前にした彼女の体が……凍った。
クローディアの前には、あの《蟲》がいた。先の一撃の元凶だ。
だが、彼女がいま動けなくなっているのは、《蟲》が理由ではなかった。
「……まさか、ここの扉の《魔法名》に気づかれるとはね。まぁ、予想してなかったわけではないけど」
―――その背後に、あり得ない人物の姿を認めたからだ。
「……シ、シルフィ……さ、ま……?」
クローディアが誰よりも敬愛する、いつも彼女を支えてくれた優しい女性の姿を……。
「でも、ちょうどよかったわ。あなたが自由に動けると厄介だから、どこかで拘束できればと思ってたし。できれば、あの化物の動きも縛っておきたかったけど」
「シ、シルフィさま……なんで……《蟲》……」
「まぁ、それは高望みね。運良くそのための一手も見つかったわけだし、良しとしましょう」
クローディアの問いかけには応えず、淡々と一人語りを続けるシルフィ。
「こ、これはいったい、どういうことですか……なぜ《蟲》と一緒に……いったいなにをなさって……」
届かぬ言葉に、堪らず声を震わせながら重ねて尋ねるクローディア。
だが、シルフィはどこまでも冷たかった。
「知る必要はないわ。たとえ知っても、すぐに意味もなくなるしね」
「シ、シル……フィ、さま……?」
「とりあえず、障害になりそうなあなたには、ここで退場してもらうわ。―――やりなさい」
シルフィの命令に応えて《蟲》が動いた。
一瞬でクローディアとの距離を詰めると、その右腕を振り払う。
だが、困惑ここに極まったクローディアは、虚ろな目でただ茫然と前を見るばかり。迫りくる一撃はその目に入っておらず……
「……え」
意識が戻った時、もはや躱し切れない距離に達していた。
「―――ッ!?」
晒すは無防備。もはや死は免れない。
その恐怖から、反射的に瞳を強く閉じたクローディア。
……だが、その死は訪れなかった。
《蟲》の右腕がクローディアの頭を打ち砕こうとした瞬間、突如その一撃はなにかに阻まれ、彼女には届かなかった。
途端、《蟲》が弾かれるように勢いよく吹き飛んだ。
「……え?」
そっと片目を開けるクローディア。
彼女と《蟲》の間には、黒い薄靄のような、あるいは淀んだ水面のような、得体のしれないなにが立ちはだかっていた。それが《蟲》の一撃を受け止めていた。
(な、なに、これ……)
魔法か? だが自分はなにも詠唱していない。ではいったい……。
「……あなた、その胸の魔法具、いつの間に……」
《蟲》の後ろに控えていたシルフィの表情から笑みが消え、その瞳が鋭く尖った。
「ま、まほう……ぐ?」
彼女の言葉の意味が掴めないクローディアは、その視線を自分の胸元に落とす。
そこには、首飾りがあった。
―――ハティが町巡りの御礼にくれた、おまもりだ。
それが今、綺麗な輝きを放っていた。
「こ、これは……?」
謎が謎を呼ぶ事態に理解が追いつかない。いったいなにが起こっているのか。
「……厄介ね、まさか《月の調べ》に守られてるなんて。いったいどこで手に入れたのか知らないけど……まぁいいわ。とりあえず事が終わるまでは、ここでじっとしておいてもらいましょう。―――いきなさい」
シルフィは《蟲》に命じると、そのまま部屋を後にした。
「シルフィさまっ!」
その背中を追って駆け出すクローディア。だが「ッ!?」回り込んだ《蟲》がその前進を遮り左腕を豪快に振り回す。
「ぐッ!」
クローディアは咄嗟に黒剣を抜き放ち、それを弾いた。
双方、対峙。研究室の中央で、距離を取って睨み合う。
(くっ! 急がないとシルフィ様が……っ!)
だが、彼女の姿は、もう見えなくなっていた。
いったい、なにが起こっているのか。まるで理解が追いつかない。
シルフィはなぜ《蟲》を引き連れていた? 自分が障害になるとは? ハティがくれた首飾りはなんなのか? 分からないことだらけだ。
だが、一つだけ分かっていることがある。
おそらく、シルフィがすべてを知っているということだ。
先の口ぶりからするに、彼女は良からぬことを企んでいる。なら質さなければならない。そのためにも《蟲》に係ってなどいられない。
クローディアと《蟲》が、同時に動いた。
衝突する剣撃と右腕。
弾ける炸裂音。
……それは、3000年の時を超えて紡がれる、復讐の始まりを告げる音。
―――始まりにして、終わりの音。
夜。
王都を覆う外壁には、いつもより多くの騎士団員が配置されていた。
カマエル神の魔法が失われた事実は、遠からず野盗や他国の者に気づかれる。いや、すでに目敏い間者の類いに掴まれていると考えたほうが良い。そうなると、この隙に攻め込んでこないとも限らないため、これまでより厳重な警備体制が敷かれていた。
「……北側は異常なし、と」
北西の外壁から周囲を監視していた騎士の青年は、特に問題ないのを確認すると、大きく背中を伸ばした。まもなく引き継ぎの時間だ。長かった一日が、もうすぐ終わる。
そう、気を緩めかけたときだった。
「ん?」
―――ふと視界の端を妙なものが霞めた。
視線を西に向ける。
見えるのは、雲ひとつない夜空から注がれる、月明かりに照らされた平野、樹海、街道、遥か彼方に聳える山脈の稜線。
そして……
「……なんだ?」
―――なにやら空に浮かぶ、小さな黒い点。
それは、徐々に王都へ近づいており、少しずつ大きくなっていく。最初は丸い点に過ぎなかったが、次第に蝙蝠のような形を取り、やがて……
「…………、ッッッッッ――――――――――――!」
青年の表情が、一瞬で凍りついた。まるで、見てはいけないものを、見たかのように。
途端、彼はすぐさま駆け出し近くの鐘塔へ急行。中の階段を駆け上がると乱れた息を整えることもなく、何度も勢い良く警鐘用の鐘を鳴らし出した。
穏やかな月夜に包まれた王都の静寂が、けたたましく響く金属音によって破られる。
町中の家屋や施設から、王都の民が次々と姿を見せた。
その表情は恐怖一色だ。不安や動揺などという言葉では到底言い表せない、それほどに恐慌を来した顔色だった。
―――だが、それも当然だろう。
かつて防衛用の鐘塔の鐘が鳴らされたのは、たった一度だけ。
……あの黒き《魔獣》の襲来を告げた時だけだ。
そして、鐘を全力で鳴らす青年は大きな声で、その脅威の正体を告げた。
誰もが、耳にしたくなかった、忌まわしき名を。
時を越えて今、再び襲来した、その忌まわしき存在の名を……。
「て、敵襲! 《魔獣》だ! 西の空に《黒竜騎》が現れた!」
―――だが、王都の非業は、それだけでは終わらなかった。
ほぼ同時刻。東の門衛たちのもとへ、一頭の馬が参じた。王都の東にある商業都市イーライの分団が寄越した連絡用の早馬だ。
片時も休むことなく走り通したのか、馬は門の少し手前で疲れ果てて倒れ、乗っていた騎士の青年もただ投げ出されるがまま、受け身も取れずに地へ転げ落ちた。
「ど、どうした! そんなに慌てて……」
門衛の二人が急いで駆け寄る。放り出された騎士も疲労の色が濃く、地面に転がったまま息を切らせるばかりだ。
「……は、あ……ッ! は、ぁ……はぁ……は、ぁッ! ……ま……ぅ……ッ!」
それでも、必死に何事か伝えようとしている。その顔色は異常なまでに蒼白一色だった。
「なんだ? いったいなにがあった?」
「……ま……っ! は、ぁ……ッ! はぁ、ッ! は、ッ……じゅ……ッ!」
「じゅ? なんだって?」
尋常ならざる様子に、門衛もいよいよ、なにか良からぬ事態が起こっていることに薄々勘づき始めた。……膨れ上がる不安とともに。
―――そして、その不安は的中した。
「は、ぁ……ッ! ま……っ! ま、じゅう……ッ! 魔、獣……ッ!」
「「ッッッ!?」」
騎士の口から零れた一言に、門衛二人は凍りついた。
そして、願わくば冗談であってくれと無意識に込めた期待は……続く一言によって無残にも打ち砕かれた。
「ま……っ、……《魔獣》が、あの遺跡の《魔獣》が……っ、動き出した……ッ!」
―――神暦3917年、木龍月21日。
その夜、イングリッドの王都マルドゥークに、未曾有の災厄が降りかかった。
西の果て、月夜の彼方より迫り来るは、かつて世界を恐怖に染め上げた忌まわしき《原初の魔獣》―――《黒竜騎》。
そして、東の果て、遮るものなき大平原から悠々と歩み寄るは、8本の足に捩れた一角を持つ異形の《魔獣》。
2体の《魔獣》による挟撃という破滅的な事態を前に民は震撼し、王都は一瞬にして阿鼻叫喚の坩堝と化した。誰もが涙と悲鳴を撒き散らしながら、騎士団の誘導など無視して我れ先に町中の地下に用意された避難施設へと駆け込む。多くの民が、我が身かわいさに他人を押し退け、あるいは突き飛ばして逃げ回り、《魔獣》襲来前にもかかわらず怪我人の数が恐ろしい勢いで膨れ上がっていった。
聖痕騎士団は対応に追われた。もはや理性が吹き飛び、己が命のみを案ずる民の誘導は困難を極めた。だが、それでもすべての民をわずか15分で地下に誘導してみせた手腕は、日ごろの訓練の賜物と言えただろう。避難の混乱の中、多くの負傷者は出てしまったが、幸い死者は報告されなかった。
民の避難が完了すると、聖痕騎士団は最低限の警備役として、新人など入団から間もない者を民に同行させ、全員が東西に分かれた。そして、外壁の外で待機した。
彼らの目的は、ただひとつ。―――《魔獣》から王都を守ること。
そのあまりにも絶望極まる任務を前に、しかし騎士団員たちの表情に恐怖や動揺は欠片もなかった。……実際には、誰もが心の内に不安、恐怖を抱えていたが、それを押し殺せるだけの強靭な精神と矜持、そして母国への愛が、彼らにはあった。
(……いったい、なにが起こっている)
―――その様子を、ベルヴェリオは王城の屋上から見守っていた。
挟撃されている現状、彼女が迂闊に動くわけにはいかない。いまは、今日この日のために己を磨いてきた騎士団の面々、その力を信じるしかなかった。
天を見上げ、輝く月に祈るような視線を向けるベルヴェリオ。
「……願わくば、一人でも多くの命が無事に還らんことを」
その声は、神に届くのか、あるいは……。
翌日、クローディアは三人目の犠牲者となった女性の邸宅を訪れていた。
彼女の名は、シャムエル・ローゼン。仕事は陶器商。出身はセイファートで、数年前から定期的に王都へ来ては露店を開いており、去年この町に居を構えた。
現場の邸宅は王都の南東側、小さな戸建てが立ち並ぶ落ち着いたエリアの一角にあった。一人で住むにはやや大きめの贅沢な平屋で、彼女がいかに裕福だったかをよく表している。
家屋内の状況は事件当時のままだった。もっとも、やはり建物に損壊はなかったため、平時とあまり変化は見られない。唯一にして大きな違いは、布を被った被害者の遺体が部屋の真ん中に安置されている点くらいだ。
クローディアは遺体の傍らに跪くと、まず瞳を閉じて両手を合わせ、しばし黙祷を捧げて被害者の冥福を祈る。そして心中で謝意を述べつつ、そっと布を捲った。
(……! この人、あのときの……)
死体の顔を認めたクローディアの脳裏を、ある女性の面影が過った。
目の前で横たわる女性はあの日―――ハティと一緒に街を巡った日、手品を披露していた女性だった。
シャムエルの遺体は、先の二人同様、見るも無残だった。右肩から左腰部にかけて斜めに両断されていたのだ。せめてもの救いは、その凄惨な死に様とは裏腹に、死に顔があまりにも穏やかな点だろう。おそらく痛みを感じる間もなく、命を絶たれたに違いない。
そして、そんな彼女もまた、先の二人と同様いっさい出口のない私室で殺害されていた。
その方法は、いまなお不明だ。昨夜、ニーナとリトが教えてくれた魔法によるものかもしれないが、確証はない。
―――だが、その犯人だけは、すでに明らかになった。
思えば、ライザが傭兵試験参加者の可能性を指摘したときに気づくべきだった。彼は誰よりも最有力容疑者だ。レイチェル・ドーンも容易に殺害できる外部から来た人間であり、なにより試験で用いた魔法は、被害者たちの傷跡を克明に想起させる。
彼に対する期待か、あるいは別の要因か、明らかに当時の自分の目と思考は曇っていた。クローディアは、ただただ反省するばかりだ。
クローディアの報告を受けて、連続殺人事件の犯人はアル・レイナードで確定。手の空いている騎士団員たちはいま、全力で彼の行方を追っている。
―――だが、それでも。
(……アル。本当に貴方が犯人なの?)
事件現場からの帰り道、思わず足を向けた宿屋を見上げながら虚空に尋ねるクローディア。
自らの目で犯人の正体を見たにもかかわらず、彼女はまだアルの所業を信じられずにいた。本当に彼は、この国に仇為す存在なのか……とてもそうは思えなかった。
だから、真実が知りたかった。
だから、ここまで来た。
だが、もちろんアルはいなかった。受付の女性いわく「昨日の夕方、後にしたわよ。あーぁあー、助かってたのになぁ」とのことだった。
宿屋を後にして、彼が泊まっていた部屋の窓を静かに見上げるクローディア。
あの二人、アルとハティは、本当にこんなことが目的で王都に来たのか……。
二人と交わした時間が、その時の感情が、それを嘘だと告げるかのように、沸々と胸の奥で滾る。だが、その答えは、もう手に入らない。
クローディアは金獅子亭を後にする。そして、その足を王立魔道研究所へ向けた。
昨夜の一件をベルヴェリオに報告したところ、彼女とライザは事件の調査から外れ、今日からは昨夜に起こった謎の魔法消失について調べることになった。国の防衛の要である防護魔法の一つが失われた今、こちらの対策のほうが急を要するためだ。
―――しかし、クローディアの気持ちは、いまだにアルのほうを向いていた。
もっとも、それは感情的な理由だけではなかった。彼を犯人だとすると、どうにも腑に落ちない点があるという合理的な判断もあった。
まず動機がわからない。被害者の三人はキャラバンのリーダー、王立図書館の職員、そして陶器商。いずれも彼とつながりがあるとは思えない。
次に三人を殺害するのが目的なら、聖痕騎士団に入った理由も説明できない。そんなもの目的の達成において重荷になるだけだ。
そして最大の謎は、なぜ昨夜の逃亡中、自分たちを殺害しなかったのかだ。彼の実力なら逃げる必要などない。追っ手を全員、排除すれば確実だ。しかし、そうしなかった。なぜ?
(……確かに、不可解な点があるのは事実だな)
ベルヴェリオへ報告した際、彼女もまたクローディアの疑問に同意した。……が、
(しかし、そなたは顔を見たのだろう。であるならば、アル・レイナードが犯人である可能性は高い。それに、そもそも後ろ暗い理由がなければ、逃亡などしない)
確かにそうだ。犯人でないなら逃げる必要などない。
そして、アルは今日、詰め所に姿を見せていない。無断欠勤だ。
(いずれにしても、アル・レイナードは捕縛しなければならない。本当に犯人なら、その目的を質さなければならない。さらなる殺害を目論んでいるなら、それを止めなければならない)
アルの実力を考えれば、捕縛は極めて困難だろう。だが、それでもクローディアは、仲間が彼を捕らえてくれればと強く思っていた。真実を知るために。
そして願わくば、あの二人と過ごした時間に、嘘などなかったと信じたい。
あのひとときに、なにひとつ、嘘などなかったのだと……。
王立魔道研究所に入ったクローディアは、1階にあるシルフィの研究室で本棚と向かい合っていた。公的な図書館より魔法に関する書物が豊富なため、魔法消失の原因を探るには、ここが最も効率的との判断からだ。部屋の主はいま《魔獣》の研究で不在だが、普段から使っていいといわれているため、問題はない。
クローディアは1000冊を超える蔵書を片っ端から流し読み、手がかりを探していく。一心不乱に黙々と読み漁る姿は、アルの一件を必死に忘れようとしているかのような痛々しさすら感じさせるほど、目の前の仕事に集中していた。
だが、夕方までかかっても、大した成果は得られなかった。
(……だめね。手がかりになりそうな情報がまったくない)
もっとも、当然だろう。魔法がいきなり消失するなど前代未聞の事態だ。文献に記録が残っているとは思えない。
報告によれば、失われた魔法は、カマエル神の魔法だけだった。分かっているのは、その事実のみ。どう調べればいいのか、些細な手がかりすら皆無だ。
クローディアは少し休憩を挟んだ後、一冊、また一冊と再び手に取っていく。すでに外は宵時を迎えていたが、関係ない。一刻も早く原因を突き止め、カマエル神の魔法を取り戻さなければならない。
「痛ッ!」
痛みが指を襲ったのは、その時だった。
思わず顔を顰めるクローディア。確認すると右手の人差し指の腹に切り傷があった。おそらく焦りが手元を狂わせ、紙で切ったのだろう。
本を血で汚すわけにはいかない。だが、血が止まるのを待つ時間も惜しい。
クローディアは、治癒魔法で対処することにした。
『―――your name agape. your name heal and caritas whisper. your name……』
ラファエル神の魔法《白の風》。重傷ならいざ知らず、小さな傷を回復する程度なら難しくないため、騎士団でも最低限の応急処置用に全員が習得を義務づけられている。
そのためクローディアも、指先の小さな切り傷程度、これで容易に治療できるのだが……
「……?」
―――魔法は、発動しなかった。
だが、それはカマエル神の魔法のように、いきなり消えたわけではない。
彼女が、詠唱を途中で切ったからだ。
(……音?)
―――突如、どこからか響いた、ガコンという不審な音に気を取られて。
なんだろうか? 不思議に思い、少し周りを見回るクローディア。
……すると、妙な箇所があった。
部屋の隅だ。
(……光ってる?)
敷かれた絨毯から微かに光が漏れていたのだ。
クローディアは恐る恐る近づき、慎重に絨毯を捲ってみる。
そこには、鉄製と思われる見るからに重そうな扉があった。
その表面にはシルフィから教わった《魔法陣》と思しき紋様が刻まれており、淡い光を放っている。つまりは、なんらかの魔法が発動しているということだろうか。
(……シルフィ様が私的に作った研究室かしら。魔法陣の研究は危険を伴うだろうし……)
使用者の意志に関わらず魔法が発動してしまう《魔法陣》は、下手をすると周囲に危害を及ぼしかねない。安全に研究するには、地下の施設が適当だろう。
クローディアは扉の取っ手を握り、引いてみた。あっさり開いた。中には梯子がかかっており、どうやら地下に続いているようだ。
勝手に入ってはまずいだろう。クローディアは、その場を離れようとした。
―――だが、その足がすぐに止まる。
(……また、音?)
先ほど聞こえたガコン、という音が再び聞こえたのだ。
扉のほうを振り返るクローディア。音は扉の奥、つまりは地下から聞こえた。
誰か、いるのだろうか。
シルフィではない。彼女は今日も《魔獣》の研究で王都を出払っている。朝方、クローディア自身が王都の門で彼女を見送ったのだから。
では、いったい誰が……?
(……)
しばし考えた末、クローディアは中へ入る決意を固め、階段を降りていった。
勝手に入るのは気が引けたが、侵入者などがいるのなら問題だ。何事もなければ、あとで勝手に入ったことを謝ればいい。
慎重に地下をめざすクローディア。
階段は長く、降り切るのに2分ほどかかった。
辿り着いたのは、長く綺麗な地下通路。ライネル古砦跡の地下遺跡とはまるで違う、人の手が入った造りだ。おそらくシルフィが整形したのだろう。
念のため、腰の黒剣をいつでも抜けるよう握り締め、慎重に進むクローディア。
道中、特に妙な様子はなく、歩くこと20分。
行き着いた先には、先ほどのものと似た鉄製の扉があった。
慎重に扉を開くクローディア。
中は、簡素な研究室を思わせる広めの部屋だった。室内にあるのは隅の小さな木机一つ、そして左右の壁の本棚だけ。おそらくシルフィが《魔法陣》の研究用に用意した私的な研究室だろう。
あたりを見回す。特に変わったところはない。怪しい人影もなかった。
あの音はなんだったのか? その疑問は解消されないが、長居しても益はなさそうだ。クローディアは部屋を後にしようと踵を返した。
―――その時だった。
「ッ!?」
反射的に身を仰け反らせて迫った一撃を躱せたのは、奇跡といえた。
クローディアは突如襲いかかった何者かの襲撃を躱すと、そのまま後転してその存在から距離を取る。そして、すぐに黒剣を抜き、正面を見据えて追撃に備えた。
「 え?」
相手の正体を前にした彼女の体が……凍った。
クローディアの前には、あの《蟲》がいた。先の一撃の元凶だ。
だが、彼女がいま動けなくなっているのは、《蟲》が理由ではなかった。
「……まさか、ここの扉の《魔法名》に気づかれるとはね。まぁ、予想してなかったわけではないけど」
―――その背後に、あり得ない人物の姿を認めたからだ。
「……シ、シルフィ……さ、ま……?」
クローディアが誰よりも敬愛する、いつも彼女を支えてくれた優しい女性の姿を……。
「でも、ちょうどよかったわ。あなたが自由に動けると厄介だから、どこかで拘束できればと思ってたし。できれば、あの化物の動きも縛っておきたかったけど」
「シ、シルフィさま……なんで……《蟲》……」
「まぁ、それは高望みね。運良くそのための一手も見つかったわけだし、良しとしましょう」
クローディアの問いかけには応えず、淡々と一人語りを続けるシルフィ。
「こ、これはいったい、どういうことですか……なぜ《蟲》と一緒に……いったいなにをなさって……」
届かぬ言葉に、堪らず声を震わせながら重ねて尋ねるクローディア。
だが、シルフィはどこまでも冷たかった。
「知る必要はないわ。たとえ知っても、すぐに意味もなくなるしね」
「シ、シル……フィ、さま……?」
「とりあえず、障害になりそうなあなたには、ここで退場してもらうわ。―――やりなさい」
シルフィの命令に応えて《蟲》が動いた。
一瞬でクローディアとの距離を詰めると、その右腕を振り払う。
だが、困惑ここに極まったクローディアは、虚ろな目でただ茫然と前を見るばかり。迫りくる一撃はその目に入っておらず……
「……え」
意識が戻った時、もはや躱し切れない距離に達していた。
「―――ッ!?」
晒すは無防備。もはや死は免れない。
その恐怖から、反射的に瞳を強く閉じたクローディア。
……だが、その死は訪れなかった。
《蟲》の右腕がクローディアの頭を打ち砕こうとした瞬間、突如その一撃はなにかに阻まれ、彼女には届かなかった。
途端、《蟲》が弾かれるように勢いよく吹き飛んだ。
「……え?」
そっと片目を開けるクローディア。
彼女と《蟲》の間には、黒い薄靄のような、あるいは淀んだ水面のような、得体のしれないなにが立ちはだかっていた。それが《蟲》の一撃を受け止めていた。
(な、なに、これ……)
魔法か? だが自分はなにも詠唱していない。ではいったい……。
「……あなた、その胸の魔法具、いつの間に……」
《蟲》の後ろに控えていたシルフィの表情から笑みが消え、その瞳が鋭く尖った。
「ま、まほう……ぐ?」
彼女の言葉の意味が掴めないクローディアは、その視線を自分の胸元に落とす。
そこには、首飾りがあった。
―――ハティが町巡りの御礼にくれた、おまもりだ。
それが今、綺麗な輝きを放っていた。
「こ、これは……?」
謎が謎を呼ぶ事態に理解が追いつかない。いったいなにが起こっているのか。
「……厄介ね、まさか《月の調べ》に守られてるなんて。いったいどこで手に入れたのか知らないけど……まぁいいわ。とりあえず事が終わるまでは、ここでじっとしておいてもらいましょう。―――いきなさい」
シルフィは《蟲》に命じると、そのまま部屋を後にした。
「シルフィさまっ!」
その背中を追って駆け出すクローディア。だが「ッ!?」回り込んだ《蟲》がその前進を遮り左腕を豪快に振り回す。
「ぐッ!」
クローディアは咄嗟に黒剣を抜き放ち、それを弾いた。
双方、対峙。研究室の中央で、距離を取って睨み合う。
(くっ! 急がないとシルフィ様が……っ!)
だが、彼女の姿は、もう見えなくなっていた。
いったい、なにが起こっているのか。まるで理解が追いつかない。
シルフィはなぜ《蟲》を引き連れていた? 自分が障害になるとは? ハティがくれた首飾りはなんなのか? 分からないことだらけだ。
だが、一つだけ分かっていることがある。
おそらく、シルフィがすべてを知っているということだ。
先の口ぶりからするに、彼女は良からぬことを企んでいる。なら質さなければならない。そのためにも《蟲》に係ってなどいられない。
クローディアと《蟲》が、同時に動いた。
衝突する剣撃と右腕。
弾ける炸裂音。
……それは、3000年の時を超えて紡がれる、復讐の始まりを告げる音。
―――始まりにして、終わりの音。
夜。
王都を覆う外壁には、いつもより多くの騎士団員が配置されていた。
カマエル神の魔法が失われた事実は、遠からず野盗や他国の者に気づかれる。いや、すでに目敏い間者の類いに掴まれていると考えたほうが良い。そうなると、この隙に攻め込んでこないとも限らないため、これまでより厳重な警備体制が敷かれていた。
「……北側は異常なし、と」
北西の外壁から周囲を監視していた騎士の青年は、特に問題ないのを確認すると、大きく背中を伸ばした。まもなく引き継ぎの時間だ。長かった一日が、もうすぐ終わる。
そう、気を緩めかけたときだった。
「ん?」
―――ふと視界の端を妙なものが霞めた。
視線を西に向ける。
見えるのは、雲ひとつない夜空から注がれる、月明かりに照らされた平野、樹海、街道、遥か彼方に聳える山脈の稜線。
そして……
「……なんだ?」
―――なにやら空に浮かぶ、小さな黒い点。
それは、徐々に王都へ近づいており、少しずつ大きくなっていく。最初は丸い点に過ぎなかったが、次第に蝙蝠のような形を取り、やがて……
「…………、ッッッッッ――――――――――――!」
青年の表情が、一瞬で凍りついた。まるで、見てはいけないものを、見たかのように。
途端、彼はすぐさま駆け出し近くの鐘塔へ急行。中の階段を駆け上がると乱れた息を整えることもなく、何度も勢い良く警鐘用の鐘を鳴らし出した。
穏やかな月夜に包まれた王都の静寂が、けたたましく響く金属音によって破られる。
町中の家屋や施設から、王都の民が次々と姿を見せた。
その表情は恐怖一色だ。不安や動揺などという言葉では到底言い表せない、それほどに恐慌を来した顔色だった。
―――だが、それも当然だろう。
かつて防衛用の鐘塔の鐘が鳴らされたのは、たった一度だけ。
……あの黒き《魔獣》の襲来を告げた時だけだ。
そして、鐘を全力で鳴らす青年は大きな声で、その脅威の正体を告げた。
誰もが、耳にしたくなかった、忌まわしき名を。
時を越えて今、再び襲来した、その忌まわしき存在の名を……。
「て、敵襲! 《魔獣》だ! 西の空に《黒竜騎》が現れた!」
―――だが、王都の非業は、それだけでは終わらなかった。
ほぼ同時刻。東の門衛たちのもとへ、一頭の馬が参じた。王都の東にある商業都市イーライの分団が寄越した連絡用の早馬だ。
片時も休むことなく走り通したのか、馬は門の少し手前で疲れ果てて倒れ、乗っていた騎士の青年もただ投げ出されるがまま、受け身も取れずに地へ転げ落ちた。
「ど、どうした! そんなに慌てて……」
門衛の二人が急いで駆け寄る。放り出された騎士も疲労の色が濃く、地面に転がったまま息を切らせるばかりだ。
「……は、あ……ッ! は、ぁ……はぁ……は、ぁッ! ……ま……ぅ……ッ!」
それでも、必死に何事か伝えようとしている。その顔色は異常なまでに蒼白一色だった。
「なんだ? いったいなにがあった?」
「……ま……っ! は、ぁ……ッ! はぁ、ッ! は、ッ……じゅ……ッ!」
「じゅ? なんだって?」
尋常ならざる様子に、門衛もいよいよ、なにか良からぬ事態が起こっていることに薄々勘づき始めた。……膨れ上がる不安とともに。
―――そして、その不安は的中した。
「は、ぁ……ッ! ま……っ! ま、じゅう……ッ! 魔、獣……ッ!」
「「ッッッ!?」」
騎士の口から零れた一言に、門衛二人は凍りついた。
そして、願わくば冗談であってくれと無意識に込めた期待は……続く一言によって無残にも打ち砕かれた。
「ま……っ、……《魔獣》が、あの遺跡の《魔獣》が……っ、動き出した……ッ!」
―――神暦3917年、木龍月21日。
その夜、イングリッドの王都マルドゥークに、未曾有の災厄が降りかかった。
西の果て、月夜の彼方より迫り来るは、かつて世界を恐怖に染め上げた忌まわしき《原初の魔獣》―――《黒竜騎》。
そして、東の果て、遮るものなき大平原から悠々と歩み寄るは、8本の足に捩れた一角を持つ異形の《魔獣》。
2体の《魔獣》による挟撃という破滅的な事態を前に民は震撼し、王都は一瞬にして阿鼻叫喚の坩堝と化した。誰もが涙と悲鳴を撒き散らしながら、騎士団の誘導など無視して我れ先に町中の地下に用意された避難施設へと駆け込む。多くの民が、我が身かわいさに他人を押し退け、あるいは突き飛ばして逃げ回り、《魔獣》襲来前にもかかわらず怪我人の数が恐ろしい勢いで膨れ上がっていった。
聖痕騎士団は対応に追われた。もはや理性が吹き飛び、己が命のみを案ずる民の誘導は困難を極めた。だが、それでもすべての民をわずか15分で地下に誘導してみせた手腕は、日ごろの訓練の賜物と言えただろう。避難の混乱の中、多くの負傷者は出てしまったが、幸い死者は報告されなかった。
民の避難が完了すると、聖痕騎士団は最低限の警備役として、新人など入団から間もない者を民に同行させ、全員が東西に分かれた。そして、外壁の外で待機した。
彼らの目的は、ただひとつ。―――《魔獣》から王都を守ること。
そのあまりにも絶望極まる任務を前に、しかし騎士団員たちの表情に恐怖や動揺は欠片もなかった。……実際には、誰もが心の内に不安、恐怖を抱えていたが、それを押し殺せるだけの強靭な精神と矜持、そして母国への愛が、彼らにはあった。
(……いったい、なにが起こっている)
―――その様子を、ベルヴェリオは王城の屋上から見守っていた。
挟撃されている現状、彼女が迂闊に動くわけにはいかない。いまは、今日この日のために己を磨いてきた騎士団の面々、その力を信じるしかなかった。
天を見上げ、輝く月に祈るような視線を向けるベルヴェリオ。
「……願わくば、一人でも多くの命が無事に還らんことを」
その声は、神に届くのか、あるいは……。