本編

◯神暦3917年 木龍月12日 魔道王国イングリッド 詰め所 執務室

 午前丸々かけて大量の書類を捌き終えたベルヴェリオは、ようやく羽ペンを置いた。

「……こんなところか」

 ここ最近は、書類仕事がずいぶん増えた。全国の各分団が都市防衛だけでなく、暴動めいた動きを強めている野盗や魔道結社に手を焼いているせいだ。おかげで王都への増援要請や装備の支給依頼などが、連日ひっきりなしに寄せられてくる。
 それだけ今のイングリッドをめぐる状況は逼迫している。マルドゥークは《豊臨祭》を間近に控えて盛り上がっているが、王都を一歩でも離れれば、誰もが不安と緊張を抱えたまま歩を進める物々しい世界が広がるばかりだ。
 椅子に背中を預け、一つ息を吐くベルヴェリオ。
 ふと視線を横に向けると、2本の鉄棒が目に入った。彼女の身の丈に匹敵する、漆黒の四角柱。およそ武器とは呼べない、無骨にして粗暴極まりない金属の塊。
 1本は、彼女が鍛冶師に頼んで作らせたものだが、もう1本は、ある人物から受け継いだものだった。
 ある人物―――。
 ベルヴェリオは天を仰ぎ、静かに瞳を閉じ、しばし過去に思いを馳せる。

(そなた……なぜこんな品位の欠片もない鉄棒を得物としているのだ。騎士なら騎士らしく剣でも槍でも振るえばよかろう)

 かつて、この部屋で彼女は尋ねた。
 かつての、この部屋の主。自分の師にあたる、その男に。

(性に合わねぇんだよ。歩法とか構えとか細けぇ技術を身につけんのがな。生き物なんざ人間だろうが獣だろうが頭を潰せば死ぬんだ。なら、そのための技術と武器だけ磨けばいい)
(……そなた、それでよく訓練校の教壇に立っていられるな。即刻その首を飛ばされて然るべき教員の筆頭だろうに)
(うるせぇな、俺だって本当なら教鞭なんざ振るいたくねぇんだよ。人が足りないから仕方なくやってるだけだ)

 ソファーに怠そうに腰かけた男は、天井めがけて欠伸を打ち上げながら言った。一般的な成人男性よりも頭2つぶんは上背がある、巨躯を誇る男。粗暴な黒い短髪に獣のような鋭い目つき、乱暴に着崩したシャツも相まって、その全身から人を寄せつけない野性味を放った男。
 ―――先々代の聖痕騎士団長、オーランド・ローガスト。
 騎士としての抜きん出た実力と、粗野で大雑把だが気さくかつ人情にあふれる性格で、騎士団内の誰からも信頼を集めていた豪放磊落な男だ。
 そんな性分のため、彼はベルヴェリオにも敬語を排して接したり、稽古でも容赦なく本気を発揮して傷を負わせたりと遠慮がなかった。故に政を預かる者たちの一部から、団長の器にないという批判が挙がったことも一度や二度ではない。
 だが、ベルヴェリオには、そんなオーランドの横柄とすら取れる飾らない態度が心地よかった。数え切れないほど耳にした虚飾と追従に塗れた上辺だけの言動など、気色悪さしか覚えない。そんな彼女にとって、彼の言葉はなによりも耳と心に馴染んだ。

(つぅか、それを言うなら、俺に習ってるお前はどうなんだ、ベル。俺に指導してもらうってのは、お前自身の希望だって聞いたぞ)
(私は自分の適性を鑑みて最も相応しい相手を選んだだけだ。《稀人》としての特性が腕力や脚力に現れた以上、伸ばすべきはそれらの力。その点において最も優れる適任者がそなただったというだけの話だ)
(……お前、よくそういうこと、本人を前にして真顔で言えるよな)
(なにがだ? 別に普通のことではないか)
(……あぁ、はいはい。お前はそういうやつだったな……)

 そんな彼の弱点は、意外と照れ屋な一面だった。特に称賛には慣れていなかったのか、正面から賛辞を送ると、途端に言葉を詰まらせて態度がよそよそしくなった。
 やがてそれに気づいたベルヴェリオは、たまには彼をからかってやろうと、らしくもない悪戯心に好奇心を逸らせたものだった。
 ……もっとも、その機会は、二度と訪れなかった。
 神曆3906年。
 世界は、闇に包まれた。
 ―――《原初の魔獣》が、現れたのだ。
 後に《黒竜騎》と呼ばれるその魔獣は、体高3メドルほどと魔獣にしては極めて小柄だったが、4枚の竜翼をもって尋常ならざる速度で空を舞い、大木を思わせる巨大な槍で大山の尾根を一瞬で消し飛ばし、吐き散らす黒い焔で巨大な湖すら軽々と燃やし尽くすなど、その力は人智を遥かに超えていた。
 最初に狙われたのは、西の隣国カンバーランド。同国は100名を超える精鋭の騎士たちを討伐に送り込んだが、その日のうちに壊滅。すぐさま各国へ救援を求めた。
 イングリッドはこの要請を迷わず受けた。カンバーランドが滅べば、次は間違いなく隣の自国が狙われるからだ。そのため、大規模な討伐隊を編成できるこの機を逃してはならないと、イングリッドは協力を惜しまなかった。
 このときベルヴェリオはまだ6歳。すでに並みの騎士と遜色ない驚くべき技量を誇ったが、騎士団には入っていなかった。父王がまだ早いと認めてくれなかったからだ。
 思えば父王は、彼女の性格をよく理解していたのだろう。こういう事態に際して真っ先に、一目散に駆け出してしまう、誰よりも強く、堅く、尊い彼女の正義を。
 ベルヴェリオは、まだ幼すぎた。父王がその入団希望を聞き届けられないほどには。

(……いま、なんと言った)

 だから彼女は、討伐隊への同行を認めなかったオーランドに対して怒りを滲ませた。
 だが、相手はそれで気圧されるような男ではなかった。

(言ったとおりだ。お前は連れていかない。連れていけない)
(……それは、私に力がないからか。それとも私が王族だからか。騎士団員ではないからか)

 その時の怒りの凄まじさを、彼女は今でもよく覚えている。なにせ握り締めた拳が砕けるほど力を込めなければ、その激情を抑え込めなかったのだから。
 それでも、オーランドは欠片も動じなかった。

(どれも外れだ。だからここで大人しく待ってろ)

 そこでベルヴェリオの怒りは、ついに爆発した。

(ふざけるなッ! 私は行くぞ! 窮した国のために戦わずしてなにが王女だ!)

 それでも、オーランドの心は全く動かせなかった。

(わがままを言うな。―――この国は今、お前を失うわけにはいかねぇんだ。たとえ《原初の魔獣》を退けても、イングリッドが恐怖と荒廃から立ち直るには、お前の力が必要だ)
(その国が滅ぶか否かの瀬戸際だぞ! 貴様が私に教えた業は、この国を守るための力ではなかったのかッッッ!)

 ベルヴェリオは堪らずオーランドに掴みかかった。いま思えば、本当に子どもじみた我が侭だと呆れるばかりだ。
 しかし、それでも彼は、怒りもせず、払いもせず、ただ怠そうに後頭部を掻いた。
 そして、その手をベルヴェリオの頭に置いて、言った。

(……いいか。今回の討伐任務でイングリッドにはデカい被害が出る。あの《魔獣》の力を考えれば、悔しいがこれはもう避けられねぇ。結果、討てれば良し。だが討てなかったら? 当然だが、国の脅威はあの《魔獣》だけじゃねぇ。仮に《魔獣》を討伐したとしても、騎士団が弱体化したら意味がねぇ)

 そう語るオーランドの声は、抑揚も感情もない、実に穏やかなものだった。
 その意味を、理解できないベルヴェリオではなかった。

(……貴様……死ぬ気、か?)

 質した声は、あるいは震えていたかもしれない。

(……あんな化けもんが相手だからな。最悪そうなるだろうさ。だが当然、ただではやられねぇよ。腕の一本でも道連れにして、地獄への手土産にさせてもらうさ)

 オーランドは、はっきり答えた。この時ばかりは、隠し事を嫌う彼の性格を、ベルヴェリオは少なからず憎らしく思った。
 いくら王族とはいえ、幼子である第二王女の声でなにかが変わるわけもない。それを理解できるくらいには、そしてそれを我慢できるくらいには、ベルヴェリオの頭脳は明晰で、心は強靭だった。最終的に彼女は引き下がり、出立した彼の背中を王城のテラスからいつまでも眺めたのが、最後の別れとなった。
 ―――瞳を開く。
 目の前に広がるのは、かつての彼の部屋。そして、今の自分の部屋。
 その後、オーランドは《原初の魔獣》の討伐へ向かい……そして、散った。帰還した者によれば、ベルヴェリオとの約定通り《魔獣》の右腕を潰してみせたという。それによって《魔獣》は撤退。世界は、いっときのものだが、確かな安らぎを今、こうして手にしている。
 オーランドの死に顔を、ベルヴェリオは今でも鮮明に覚えている。棺で眠る彼の表情は、驚くほど穏やかで、うっすら笑みを浮かべているようにすら見えた。
 棺には、らしくもなく彼が好きだったという花、エーデルワイスが詰められた。バルムンクの山岳地帯、その標高2000メドル地帯にしか咲かない花だ。花言葉は高潔なる勇気。イングリッドでは極めて希少で、手向けられた花の多さが民の悲しみの大きさを代弁していた。
 ……だが、ベルヴェリオには、悲しみはなかった。
 彼は、国に尽くした。国に殉じた。国に還った。
 そのすべては、涙ではなく、賛辞をもって締め括られるべきだと、彼女は感じた。……もっとも、生前の彼なら蝿でも払うように「止めろ」と言っただろうが。
 そんなオーランドが、最後に残してくれたものが2つあった。
 1つが出立の数日前に伝授された彼の剣技。
 そしてもう1つが、このディライト鉱石製の鉄棒だった。かつて彼の補佐官だった、そして現在の騎士訓練校の長であるパーシバル・フィルブライトがオーランドから遺書を預かっており、そこにベルヴェリオへ託すと記されていた。

「……砕けたり、戻ってこなかったりしたら、どうするつもりだったのだ、あやつ。最後まで後先を考えずに行動しおって」

 薄っすらと笑うベルヴェリオ。
 その後、彼女は修行を積み、神曆3911年に聖痕騎士団長へ就任。いつしか《史上最強の人類》と呼ばれるに至った。もはや過去、そして未来を含め、彼女に敵う人類はいない。
 だが、それでも彼女は研鑽を止めない。
 すべては人を超えた存在……師であり仲間であった友を亡き者にした《原初の魔獣》を討ち果たすために。

「姫様。いらっしゃいますか?」

 扉がノックされた。クローディアだ。おそらく先のライネル古砦跡の調査報告だろう。

「かまわん。入れ」

 許しを出すと「失礼します」と中へ入ってきた。一人かと思ったが、後ろに「やっほー」と気楽に手を振る女性がついてきている。シルフィだ。

「珍しいな。シルフィが報告についてくるとは」
「ちょっと姫様、どういうこと? 私だって、たまにはちゃんと自分で報告するわよ」
「人任せにしている自覚は大いにあるようだな」
「姫様に言われたくありませーん。さっきたまたまセシリア様と会ったけど、とんでもなく怒ってたわよ。次に空欄の書類を出してきたら、家庭教師時代の恥ずかしい話を全部ばらすって息巻いてたんだから」
「別に話されて恥ずかしい話などない。むしろあやつのほうこそ宝庫だ。寝落ちしてティーカップに鼻から突っ込んだ話とかな」
「えなにそれ、すごく気になる」
「いつか時間があるときに話してやる。―――それで?」

 ベルヴェリオは軽口もそこそこ、クローディアに視線を向ける。
 きょとんとしていた彼女は「あ、はい」と気を入れ直すと、事の仔細を流暢かつ簡潔に報告した。ライネル古砦跡の地下。《蟲》。そして、例の《魔獣》と思しき生物。
 さすがのベルヴェリオも、欠片も予想しなかった内容に、しばし言葉を失い天を仰いだ。

「……シルフィがついてきた時点で、少なからず大事を予想はしていたが、まさか《魔獣》とはな……確かなのか?」

 ベルヴェリオはシルフィに目を向ける。

「正確なところは、調べてみないと分からないわ。その意味でも、私個人としては、あの水晶を砕いて《魔獣》……便宜上そう呼ぶけど、あの怪物を取り出したい」

 先ほどまでの軽い様子はなく、シルフィも努めて真面目に答えた。

「確かに、もしそれが《魔獣》なら、是が非でも調べたいところだが、絶命していると判断できない限りは危険がつきまとう。……クローディア。そなたの目から見てどうだ。その怪物は生きていると思うか?」
「……正直なんとも言えません。ただ、その前に遭遇した《蟲》のことを思うと、動き出しても不思議はない気も……」

 答えを曖昧に濁すクローディア。彼女がここまではっきりしないのは極めて珍しい。
 さて、どうすべきか―――ベルヴェリオは考える。
 今後の《魔獣》対策を考えるなら、その怪物を取り出して生態調査を進めるべきだ。しかしそれはあくまで、この《魔獣》が死んでいればの話。単に封印されているだけの場合、解放と同時に襲撃されて国が滅亡、といった最悪の結末もあり得る。
 だが、このまま放置していても、事態は同じだろう。結局、早いか遅いかだけだ。
 ―――ベルヴェリオは、決断した。

「……いいだろう。調査を許可する」

 彼女の答えに、クローディアもシルフィも目を見開いた。

「……本当にいいのね?」
「ああ。ただし条件がある」
「条件、ですか?」
「私が1時間もあれば参じることができる場所まで、その《魔獣》を移動する。万が一なにかあったときは、私がすぐ対処できるようにな」

 ベルヴェリオの思わぬ言葉に、クローディアとシルフィが言葉を詰まらせる。その表情は、驚きや不安、畏敬や畏怖などが混ざり合い、もはや形容しようのないものだった。
 ベルヴェリオは、席を立ち、後ろの窓から外を眺める。

「どのみち《魔獣》はすべて倒さなければならない。我々には、そのための力を掴む努力に全精力を投じ、当代の真の平和を実現する責務がある。それなら、やるべきことは一つだ」

 ベルヴェリオが見下ろす先、詰め所の前の通りでは、年端もいかないこどもたちが木の枝を振るいながら騎士の真似事をしていた。まだ戦うことに夢を見られるほど、現実に染まっていない少年少女たち。
 彼らには申し訳ないが、願わくば、その夢は夢のまま終わらせなければならない。
 その手が握るべきは、断じて剣などではない。
 ベルヴェリオの背中に決意の強さを見て取ったのか、クローディアもシルフィも、もうなにも聞かなかった。それを同意と見たベルヴェリオは二人にソファーを勧め、早速《魔獣》を移動する手筈について二人と詰め始めた。
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