本編
◯神暦3917年 木龍月8日 魔道王国イングリッド ライネル古砦跡
そして、木龍月8日―――。
クローディアは、王都から北東およそ30キロメドルのところにある古戦場―――ライネル古砦跡にやって来ていた。
同地へ派遣されたのは、シルフィと王立魔道研究所の研究者を中心に結成された総勢8名の調査団、そして護衛を担う50名の聖痕騎士。発掘調査団の護衛としては小さい規模だが、王都の護衛などもあるため、これでも可能な限り人員を割いた形だ。
クローディアたちは、まず砦中央にある見張り用の尖塔の下に集まり、これからの方針と配置について確認する。
「レイナたちは東側を、クロードたちは南側を張って。キーリたちは尖塔からの遠方監視を交代で対応。西は大丈夫だろうからそこまで見なくていいけど、念のため警戒して。残りはシルフィ様たちの調査に護衛として同行を」
「はい」「了解」「わかりました」
ライネル古砦跡は、隣国の目と鼻の先だ。そこへ結構な規模の調査団を派遣すれば、隣国もさすがに気づくだろう。襲撃はしてこないだろうが、相手が不穏な動きと見て牽制してくる恐れもあるため、警戒するに越したことはない。
「クローディア、準備はいい?」
護衛側がそれぞれの持ち場へ向かうと同時に、調査団も準備が整ったようだ。
「はい。大丈夫です」
「ありがとう。じゃあ、行きましょう」
シルフィほか7人の研究者、そしてクローディアほか14人の騎士は、城砦中心部から北へ少し行ったところにある小屋のような施設へ向かった。
四方を石壁に囲われた空間は、暗く狭かった。中にはなにもなく、いったいどんな目的で用意された場所なのか、今となっては皆目検討もつかない。
だが、一つだけ妙なものが目についた。地面に木製の跳ね上げ扉があったのだ。周りの地面から少し低いため、用意した者はおそらく上に土を被せて隠していたのだろう。
騎士の一人が、取っ手を掴み、ゆっくり慎重に持ち上げる。
下から階段が現れた。二人が並んで通れるくらいの幅しかない。もし行く先から例の《蟲》でも現れれば、間違いなく抵抗できずに命を落とすだろう。
「私が先に行きます。アイル、灯りを」
「はい」
部下の一人にランタンを持たせて、先陣を切るクローディア。その左手には鞘に収まった剣が握られていた。アルの剣と同じくディライト鉱石で作られた彼女専用の長剣だ。地下で魔法を使うと崩落を招く恐れがあるため、今回《碧の剣》は使えない。
土でできた階段を降り、地下深くへ潜っていくクローディアたち。ようやく降り切ると、両壁と天井が石造りの、いかにも人の手が入った綺麗な地下道が真っ直ぐ伸びていた。冷えた空気だけが満ちる無音の空間は、それだけで緊張感を駆り立てる。
クローディアたちは、一歩、また一歩と慎重に進んだ。
―――通路はやがて、大きな部屋にたどり着いた。
一転して、雑然とした雰囲気の空間だ。発掘や建設に使われた道具と思しき残骸が、そこかしこに捨てられている。天幕のような巨大な布や、水を入れていたと思しき旅用の巨大な皮袋なども大量に落ちていた。ひと目で古いものだとわかる。
ひとまず室内を調査する一同。部屋の有様は、どことなく当時の生活感の名残を感じさせる……が、クローディアには、それ以上に不気味さを臭わせる光景に映った。
「どうやらめぼしいものはなさそうだけど、拠点にはできそうね」
シルフィが、クローディアに近づいてきた。
「はい。入り口まで一本道で引き返せるから撤退も楽ですし、ある程度の広さがあるので、仮に敵が出ても集団で対応できます」
「そうね。―――先へ続く道は3つあるけど、どうする? 一つずつ順番に見ていく?」
部屋には入ってきた入り口以外に、3つの道があった。1つは地下へ続く階段、2つは奥へと続く道が伸びている。
「ひとまず、それぞれの先の安全を確かめましょう。例の《蟲》が報告通りの強さだと、おそらく皆さんを守りながら戦う余裕はありません」
「わかったわ。……くれぐれも気をつけるのよ」
「はい。ありがとうございます」
クローディアは、それぞれの道の調査を、同行した騎士の中でも特に精鋭のアイル、リズベット、ミルザの3人に指示。ほかの者には、拠点の防衛と退路の保持を命じた。
クローディアが行くのが最も確実だったが、3つの通路のどこに例の《蟲》が現れるか分からないため、そうはいかない。そのため、ここで待機して《蟲》が現れた通路へクローディアが進む方針を取った。
調査を命じられた3人は、クローディアから《蟲》についての情報を聞くと、ランタンを手にそれぞれの通路へ入る。その実力はクローディアたち副団長格には及ばないが、おいそれとは遅れを取らない歴戦の実力者だ。
最初に戻ってきたのは、リズベットだった。出発からおよそ30分後。道の先にはいくつかの分岐と小さな部屋があっただけで、怪しい罠や待ち受ける敵は特になかったという。
クローディアは早速、シルフィたち研究者にそちらへ移動してもらった。もちろん調査のためだが、これで少なくとも彼らの安全は確保できる。
次に戻ってきたのは、ミルザ。彼の道もまた、複数の分岐と大小いくつかの部屋があっただけで、特に障害はなかったという。
クローディアは、騎士の一人をシルフィたちのもとへ報告に走らせる。これで2つの通路の安全は確保された。
残るはアイルの向かった地下だけだ。なら、やるべきことは決まっている。
「……リズベット、ここは任せるわ。もしなにかあったら、すぐに地上へ退避して」
「了解です。クローディア様は?」
「アイルの後を追うわ。私が戻るまで、誰も地下には近づけないで」
―――地下へ続く階段を降りると、そこも上層と似たような構造だった。
だが、その広さと複雑さは比ではなかった。基本的には格子状の構造のようだが、迷路のように通路が入り組んでいた。道も地下一階層のように人手が入っておらず、洞窟のように自然そのもの。そして、その壁は破壊の限りを尽くしたかのように、抉りに抉られている。
加えて、腰に固定したランタンがなければ、十分な視界を得られないほど一帯は暗い。騎士はあらゆる状況で戦えるように夜目も優れるが、それでもほぼ完全な暗中となると、確実に視認できるのは辺り数メドルが精一杯だ。
クローディアは頭のなかで地図を組みながら、慎重に奥をめざす。
シルフィの言っていた《蟲》がいるとすれば、おそらくここだろう。壁の大量の綻びも、侵入者を排除するために暴れた痕に違いない。
(……アイル、大丈夫よね)
先に入った仲間の身を案じつつも、なかなか先を急げない状況にクローディアはもどかしさを覚える。道をしっかり確認した上で進まなければ、おそらく上には戻れない。それほどに地下二階層目の構造は進む上で困難を極めた。
歩く。歩く。耳が痛いほど、無音の地下道を。時おり壁に印をつけながら。
どれほど奥まで来ただろうか。そもそも奥へ向かえているのだろうか。
5分、10分と歩いても、何も見つからない。アイルの姿も見えない。それに静かだ。
暗闇の中を、わずかな灯りとともに延々と回り続けるクローディア。
だが、何度も行き止まりに当たり、来た道を戻り、遅々として進まない道行きに、さすがの彼女の心にも疲弊の色が見え始めた。
―――その時を、待っているものがいるとも、知らぬまま。
(……ん?)
ふと、後ろに気配を感じ、後ろを振り返るクローディア。
ランタンが一帯を照らす。
……なにもいない。
気のせいか?
前に向き直る。
ランタンの光が、動く。
壁を、照らす。
ゆっくりと。
―――
(……?)
クローディアの動きが、止まった。
その表情が、固まる。
瞳が、凍る。
無意識に。
緊張で。
あるいは、衝撃で。
動揺で。
―――なにかが、視界を霞めた。
……なんだ?
なにが?
いま……なにが、見えた?
咄嗟に周囲へ視線を走らせるクローディア。
左。
右。
後ろ。
――――――上。
「ッ!?」
クローディアの瞳が……大きく見開かれた。
それは、いた。
―――影が、壁を這いずった。
天井に張りついた、ひとつの影。全身を黒い襤褸布で包んだような、巨大な人型を思わせる影。だが、その形は明らかに人のそれではなかった。手足はクローディアの身の丈を超えるほどに長く、布に覆われた体躯は2メドルを優に超えている。
巨大な蟲を思わせるそれは、逆さに張りついた天井からじっと、頭部と思しきものをクローディアのほうに倒していた。まるで彼女の様子を窺うように。
「くっ、ッ!」
咄嗟に腰の鞘から剣を抜くクローディア。
同時に《蟲》も右腕を背中側へ振り下ろした。
両者が交錯し金属音が弾ける。
「ッッッ!?」
斬れない。その動きはもちろん硬さも人間のそれではなかった。
続けざま《蟲》は天井から離れ空中で反転。即座にクローディアめがけて左腕を振り回す。
反射的に剣を構えて防ぐクローディア。だが勢いを殺し切れずにその体は護謨鞠のように吹き飛び壁に叩きつけられた。
「う、ぐっ、ッ!」
ランタンが砕け光が消える。同時に《蟲》は一気に接近し再び右腕を突き出した。
クローディアは寸でのところで横へ飛んで躱す。
(ッ!?)
直後にその腕を叩き込まれた壁が爆発したように弾け飛んだ。
(なんて力、ッ!)
一撃でも喰らえば間違いなく死を免れない。警戒したクローディアがいったん後方へ飛び退って距離を取る。
だが《蟲》は迷いなく一瞬でついてきた。
(速、ッ!?)
その右腕が横に薙がれる。再び剣を立てて防ぐクローディア。だがやはり力を逃がし切れず吹き飛ばされる。
「ぎ、ぃッ!?」
石壁に背中を強打し呼吸が乱れ一瞬だが意識が飛んだ。
「……ッ!?」
視界が戻ると目の前に《蟲》の腕が迫っていた。
「ぐ、ぅッ!」
なんとか横に転がって躱す「ッ!」だが《蟲》は容赦なく再び接近。両腕がまるで別の生き物のように次々と襲い来る。
その力は文字通り常軌を逸していた。まともに喰らえば人間の頭など一撃で砕けるだろう。加えて打撃はその巨体から想像できないほど恐ろしい速さで繰り出される。クローディアの速さを以てしても凌ぐのが精一杯で反撃の余裕などまるでない。
さらにその動きは微塵も衰える気配がなかった。シルフィは魔法で動いていると言っていたが、もしそうならマナが切れない限りは止まらない。
(なら倒すしかない、でもどうやって……ッ!?)
だが、戦略を整理する余裕もなかった。クローディアは縦横無尽に暴れ回る《蟲》の腕を必死に躱し捌き続ける。
もはや、ただただ死の危機を回避するだけで精一杯だった。
―――その時、
「ッッッ!?」
《蟲》に大きく吹き飛ばされたクローディアは突如なにかに手を引かれた。
直後、思い切り引っ張られて壁の陰に引きずり込まれる。続けざま口を塞がれ身動きも封じられた。
(な、なにっ!?)
咄嗟に抵抗しようと剣を握る手に力を込めた時、
「……動かないでください。音も立てないで」
今にも消え入りそうなほど小さな声が聞こえた。
その声の主を、クローディアは知っていた。
(ア、アイル!?)
彼女を拘束したのは、紫紺の短い髪と瞳の少女―――地下の安全確認に向かわせた彼女の部下であるアイリーン・グラム、アイルだ。
反射的に彼女の指示に従い、呼吸と動きを抑えるクローディア。敵前で物陰に身を潜めるなど愚策も甚だしいが、アイルに対する信頼の強さが彼女に躊躇なく決断を促した。
その選択が正しかったことは、すぐに示された。
―――《蟲》の動きが、止まったのだ。
(……?)
敵を見失った《蟲》が、嘘のようにぴたりと静まり返った。
しばし、その場で周りを見回す《蟲》。その後、一歩、また一歩と二人の隠れた壁に近づいてくる。だが、どうやらそこに二人がいるとは分かっていない様子だ。
息と気配を殺し、懸命に恐怖に耐えるクローディア。
やがて《蟲》は、クローディアたちが身を潜めた分岐に差しかかった。右を向けば、すぐさま二人を発見できただろう。
だが《蟲》は、ただ虚空を見上げるような姿勢で、その場で立ち尽くした。
するとアイルが、手にしていた折れた剣を、向かいの通りめがけて思い切り放り投げた。
それが地面に落ちた瞬間、
(ッ!?)
《蟲》は一瞬で反応し猛然と突進。剣の残骸めがけて接近すると容赦なく右腕を振り下ろして地面もろとも木っ端微塵に粉砕した。
だが、その感触に違和感を覚えたのか、《蟲》は再び虚空を見上げ、しばし立ち尽くす。やがてクローディアたちから遠ざかっていき、そのまま闇に溶けて消えた。
「……行った、みたいですね」
アイルが押し殺した声で吐露する。同時にクローディアの口を塞いでいた手を放した。
「あれはどうやら音に反応して、相手を探すようです……ここが暗いから、なのか……地面を強く擦った程度の音でも……敏感に反応します……う、ぐっ!」
「ア、アイんぐっ!?」
いきなり苦しみ出した部下に驚いたクローディア。だが、その口をアイルが再び塞ぐ。
「ダ、ダメです……大きな声を出しては……あいつに、気づかれます……」
「あ、貴方、どこか怪我を……ッ!?」
小声で尋ねたクローディアは、すぐにアイルの異常に気づいた。
彼女の左腕は、肩からだらりと垂れ下がっていた。その手は力なく開かれたままで、少なくとも折れているのは明白だ。
「……咄嗟に剣で防いだつもりだったんですが、間に合わなくて……受け方を誤って……たぶん、骨が砕けてます……」
頭を石壁に預け、天を仰ぎながら吐露するアイル。その声は、先ほどまでと違い息も絶え絶えだった。おそらくあの《蟲》が遠ざかるまでは必死に堪えていたのだろう。
歯を食いしばり、右手を強く握り締めるクローディア。悔い故か、あるいは怒り故か。
「あれは……この迷路のような地下道を、徘徊しているようです……目的は……分かりませんが……奥に、なにやら扉があったので……そこを守っているのかも、しれません……」
「扉?」
「はい……中は見ていないので……なにがあるのかは、わかりませんが……」
「……それはいいわ。とにかく、いまはいったん外に出るわよ。そのためにも、まずあいつをなんとかしないと……」
だがどうする、どうすればいい?
対策に窮し、苦慮するクローディア。必死に思考を回すも、妙案は出てこない。
(どれほど耐久力があるのか分からないけど、こっちの剣を腕で受けたということは、斬られると困る箇所があるということ。でも、そこを見極める余裕はない。魔法を使えば、たぶん終わらせられるけど……崩落の危険があるし、上のみんなを傷つけるかもしれない……)
しかし、状況を打開する切り札は、もはやクローディアの魔法―――《碧の剣》しかないのも自明だった。
なら使うしかない。だがどうやって?
(横に薙げば、ここが間違いなく崩落する。私もアイルも終わり。下手すれば、上のみんなも危険に晒しかねない……。縦に放てば、上の誰かが巻き込まれる可能性が高いけど、おそらく崩落は避けられる……)
なら、答えは縦しかない。《碧の剣》の一撃を以て《蟲》を両断する。
クローディアは意を決し、隣のアイルに小声で尋ねる。
「……アイル、どのくらい動ける?」
唐突な問いに、アイルはしばし考え込んだ。
「……走るだけなら、全力は厳しいですが、多少落として数分なら……。ただ、仮にあれと対峙した場合、恥ずかしながら、もって30秒が限界かと……」
「そう……。下に降りてきた階段の場所、覚えてる?」
「……はい、大丈夫です……この場所には覚えが、あります……」
アイルの答えを受けて、クローディアは記憶の地図を呼び起こす。
ここから階段までは、アイルが全力で最短距離を走って30秒、今の彼女なら60秒くらいか。そこから地上へ出るには最短でも数分。それだけの時間、あの《蟲》を抑え込む力が、自分にあるか……。
(……やるしかないわね)
クローディアは意を決し、静かに立ち上がった。今もあの《蟲》は、この地下を徘徊している。見つかる前に早く行動に移らなければ。
「―――アイル。辛いでしょうけど、今からみんなを連れて地上に戻ってくれる? そしてシルフィ様たちと地上のみんなに、尖塔より西には絶対に行かないでって伝えて欲しいの」
「……尖塔より、西には行かない……ですか?」
「ええ。どのくらいかかりそう?」
クローディアの質問に、アイルの少し考えた後、
「……5……いえ、4分だけください……それ、で……終わらせてみせます」
決意みなぎる答えと共に、アイルは左腕の激痛に顔を歪めながらも、音を立てないよう慎重に立ち上がる。クローディアの狙いを察したのか、あるいは知らずとも信じているのか、その瞳には欠片も迷いが揺らがない。
「……ごめんなさい。無理をさせるわね」
「大、丈夫です……帰ったら、超過手当を申請……しますから」
神妙なクローディアに対し、アイルが無理やり笑顔をつくり、冗談を口にする。普段は根っから真面目一筋な彼女の軽口に、クローディアは思わず面食らった。
「……ふふ、そうね。姫様がセシリア様から怒られるくらい出してあげるわ」
表情を綻ばせながら、クローディアも立ち上がる。そして黒剣を腰の鞘に収めると、
『……your name wind』
瞳を閉じ、できる限り小さな声で詠唱を始める。
『your name cutting and judgement edge』
正直、上手くいくかは未知数だ。アイルが4分以内に事を成せても、果たして自分が《蟲》を相手に4分も持ちこたえられるか……。
『your name Ariel』
だが、他に手はない。これがいま取れる最良の選択だ。
『your pray soaring sky and crushing peak』
詠唱が完了すると《碧の剣》がクローディアの手に宿る。全てを容赦なく両断する刃を放つ文字通り必殺の一振り。
「……準備はいい? 私があいつを誘き寄せるから、その間に階段めざして走って」
「……はい」
アイルが頷いたのを確認すると、クローディアは壁の陰から出る。そしてアイルから十分に離れたところで、近くの壁に思い切り後ろ回し蹴りを叩き込んだ。
鈍い打音が弾ける。これで《蟲》を自分のほうへ引き寄せ、その隙にアイルを上へ逃がす。それがクローディアの算段だった。
「ッ!?」
突如クローディアの目の前の壁をなにかが突き破った。破砕された石壁の破片が山のように一帯に弾け飛ぶ。
(か、壁を破って……ッ!?)
激しく舞い散る粉塵。その中にあの《蟲》の姿があった。
《蟲》は間髪入れずクローディアめがけて右腕を突き出す。
「ぐっ……ッ!」
咄嗟に剣で防ぐも不意をつかれた防御は体勢が甘く大きく吹き飛ばされたクローディア。
「クローディア様!」
アイルの不安気な叫びが一帯に響く。
その一声にクローディアは歯を食い縛り反射的に踏ん張った。
(駄目……ッ! 下がるわけにはいかない!)
だがアイルの声が大き過ぎたのか《蟲》は彼女のほうを向いた。
「行きなさいッッッ!」
その気を引くために腹の底から声を張り上げ同時に加速するクローディア。
(こっちを向きなさいッ!)
わずか一足その一瞬で《蟲》の懐に潜り込むと剣を腰溜めに構え「はぁッ!」一閃を抜き放つ。だが《蟲》はその巨体に似合わない速度で後方へ飛び退り難なく躱した。
(アイルは!?)
一瞬だけ視線を横に向けるとアイルの姿はなかった。行ったのだ。
(ここから4分、長いわね……―――ッ!?)
距離を取った《蟲》が一瞬でクローディアとの距離を詰め右腕を横に薙いだ。
(逃げるな! 逃げるなッッッ!)
己に言い聞かせて恐怖を押し殺すと同時にクローディアも一歩を踏み込み《蟲》の肘あたりで一撃を受ける。
「ぐ、っ!」
なんとか耐えたクローディアはそのまま突き進み相手とすれ違うと同時に腰を斬る。
「ッ!?」
だが鎧の表面を滑ったような感触だけが返ってきた。
(やっぱり魔法じゃないと倒せない、場所を探さないと!)
《蟲》の背後に回ったクローディアは、そのまま相手に背を向けて疾走。だが《蟲》も即座に反転して彼女を猛然と追い立てる。
逃げに徹すれば振り切れると思った。だが甘かった。天井まで届きそうなほどの巨躯にもかかわらず《蟲》の速度は尋常ではない。直線的に逃げていてはすぐに捕まる。
クローディアは頻繁に道を曲がって逃げ続ける。目的の場所をめざして。
(駄目……ッ! ここはまだ尖塔に近い、魔法は使えない……ッ!)
走り続けるクローディア。角を曲がる。
だが誤った。袋小路だ。
(しま……ッ!)
咄嗟に立ち止まり反転して別の道へ向かおうと試みる。
だが遅い。追いついた《蟲》が立ち塞がった。
(まず……ッ!)
動揺を抑える間もなく《蟲》が左腕を大きく振り回す(ぐ、ッ!)逃げ場がないクローディアは反射的に剣を盾にした。
「ぎィ、ッ!」
直後に左腕が叩き込まれ勢い良く吹き飛ばされた体は壁に豪快に激突し「が、は……ッ!」背中を強打して呼吸が止まり視界が一瞬だが確かに白く溶ける。
「……ッ!?」
瞬時に意識を取り戻すが眼前に《蟲》の右腕が迫っていた。
「こ、の……ッ!」
クローディアは咄嗟にその場で跳躍し一撃を躱す「ッ!」だが宙に浮き完全に無防備な彼女めがけて続けざまに《蟲》の左腕が鋭く突き出された。
「く、っ!」
なんとか後ろの壁を蹴り《蟲》を飛び越えるように躱し同時に首めがけて《碧の剣》を振り抜く「ッ!?」しかしそこも剣は通らずただ相手の衣を斬って終わった。
だがこれで袋小路からは脱した。しかし《蟲》は逃すまいと体を回転させて右腕を後方へ振り回す。
だがそこにもうクローディアの姿はなかった。
彼女は再び駆け出し、脳内の地図を頼りに地下を走る。走る。いったん北へ回り、ひたすら西をめざす。
(はぁ……ッ! はぁ……っ! は、ぁ……っ……ッ!)
先ほどは最短で西をめざして行き詰まった。なら大回りすればという安直な発想だったが、これが功を奏した。入った道は地下西側の奥深くへ通じていた。
新たな区画を脳内の地図に素早く重ねる。今いるのは地上の尖塔から50メドルほど北西。
ここならいける。
時間は? おそらく4分は経った。アイルは間に合ったか? あの体では4分で自分だけ地上へ戻るのも苦しいはずだ。
不安がないわけではなかった。もし魔法に仲間を巻き込めば間違いなく殺してしまう。
だが《蟲》を相手に耐えるのも既に限界が近い。
《蟲》はここでの戦いを苦にしない。だがクローディアはこの空間に不慣れだ。このままでは体力が尽きた瞬間に間違いなく敗北―――即ち死が待っている。
(ここで、決める……ッ!)
意を決したクローディアは曲がって入った道を行き止まりまで進むとそこで反転。
《蟲》が猛進してきた。
三たび接敵。
だが、今度の《蟲》は冷静だった。いきなり攻めこまず、クローディアの剣が届かない距離から彼女の様子を窺っている。接近し過ぎては巨体の脇を抜かれて逃がしてしまう、そんな先と同じ轍を踏まぬよう警戒してか、やや両腕を広げるように構えて。
剣を正眼に構え《蟲》と対峙するクローディア。
(……厄介ね。勢いよく攻め込んで来てくれたほうが、確実に一撃を与えられたのに……)
どうやら獣のように攻めるしか能がない存在ではないらしい。
となると、魔法を躱されてしまえば、おそらく二度と当てられないだろう。好機があるとすれば一度だけだ。
―――無音。
それまでの苛烈な戦闘から一転、地下に張り詰める不気味なほどの静寂。
場の空気が、燃えるようにひりつく。
心臓が跳ねる。何度も。何度も。
外すわけにはいかない。外したらどうなる? その恐怖に心が潰れそうになる。
息を呑む。
落ち着け。見極めろ。逃すな。
逃せば、終わりだ。
「……、―――ッ!」
《蟲》が動いた。
クローディアの足元を払うように左腕を薙ぐ。
咄嗟に後ろへ下がって躱したクローディアはそのまま相手の左側へ踏み出し、
「ッ!?」
しかしそこへ《蟲》の右腕が彼女めがけて左腕と十字を描くように襲いかかった。
「ふ、ッ!」
クローディアは体を思い切り前に屈め、速度を釣り上げて一撃を躱すとそのまま《蟲》の側面へ回り込み(いま、ッ!)《碧の剣》にマナを込めた。
同時に《蟲》がクローディアのほうへ頭部を向ける。
「ッ!?」
その口元と思しき箇所が光を放った。
なんだ? あれは一体なんだ?
だが理性の疑問とは別に本能は無意識に察していた。
(―――なにより口から火を吐きました)
スフィーリアの助言が脳裏を過る。
本能が警鐘を鳴らす。
逃げろ、と。
「ぐ、ぅッ!」
クローディアは半ば振り抜きかけた《碧の剣》を強引に止めると勢いのまま《蟲》の背後へ咄嗟に回り込む。
直後。
「ッッッ!?」
《蟲》が―――火を吐いた。
「っ、ッ!?」
直撃こそ避けたクローディア。だがその火は当たらずとも思わず目を顰めるほど恐ろしい熱を持っていた。触れずとも地を裂き、触れれば壁を跡形もなく溶かすほどの。
これがスフィーリアの言っていた火を吐く魔法か。
しかしその凄まじさは予想を遥かに超えていた。威力。速度。そしてなにより火を吐く気配がまるで読めない。魔法そのものも自分たちが知っている火炎系魔法の威力や速度を遥かに凌駕している。
いつまでも避けられない。体力が尽きて躱せなくなる前に決めなければ終わりだ。
だが容易なことではない。常人の騎士なら足がすくみ戦意を失っても不思議はない恐るべき魔法。それを掻い潜って懐に潜り込み《碧の剣》の一撃を叩き込むなど一つ間違えれば確実に死に至る諸刃の策だ。
不安で思考が淀む。恐怖で意志が折れかける。
―――だがもう手はない。
考えている場合ではない。やるしかない。やるしかないのだ。
直後に《蟲》の左腕が彼女の脇腹を狙った。
クローディアは咄嗟に《碧の剣》で一撃を止める。
直撃は防いだ。だがその身に途轍もない衝撃が叩き込まれる。
「ああぁぁあぁあぁああぁああッッッ!」
クローディアが吠えた。恐怖を無理やり払うように。自らを鼓舞するかのように。
彼女の身は《蟲》の一撃を受け止めてもなおその場から微動だにしなかった。まるで地面に根を張ったように《蟲》の前に立っている。
両者の足が、止まった。
「は、ぁ……ッ! は、あ……ぁ……ッ! はあぁッッッ!」
続けざまクローディアは《蟲》の首を狙って斬り下ろした。だが《蟲》の左腕で防がれる。
同時に《蟲》は右腕を引くとそのまま持ち上げクローディアの頭上めがけて振り下ろす。
だがそこには誰もいなかった。
クローディアは半身だけ開いて躱すと同時に《碧の剣》を薙いで《蟲》の左脇腹へ一撃を叩き込んだ。だが手に返ってきた感触は鋼を打ち付けたものだった。
やはり剣は通らない。だがそれでもクローディアは構わずに攻め続ける。
彼女の選択。それは足を止めて正面から対峙する道だった。
《碧の剣》を放つにはここしかない。ここを離れて窮地を脱したところで、再び《蟲》をこの場所まで誘導できるかは不明だ。その時に魔法を放てるだけの体力が残っているかも分からない。なによりあの火をいつまでも躱す自信がなかった。
なら答えは一つ。ここで決着をつけるしかない。
その決意を奮い立たせるため、クローディアはあえて《蟲》に正面から挑み、自ら退路を断った。倒せなければ死ぬ。その尋常ならざる恐怖を押し殺し、力に変えて。
―――それは、補佐官時代の教えでもあった。
彼女は入団直後から優秀な騎士だった。将来を嘱望され、未来を約束され、いつかは騎士団を背負って立つ数十年に一人の逸材だと期待を集めた。
しかし、そんな彼女が入団後に初めて味わったのは、自らの実力不足と不甲斐なさだった。
補佐官として入団したクローディアは、その初日に実力の確認として団長ベルヴェリオと手を合わせ―――手も足も出なかった。その圧倒的な、人智を超越した力を前に、わずか20秒で剣と、そして心を完膚なきまでに叩き折られた。
そのとき、クローディアはベルヴェリオから、最初の教えを授かった。
(―――そなたの剣は、確かに綺麗だ。だが、ただ型を守り、定石をなぞるだけの剣でしかない。それでは国は守れない)
(我々が相手にするのは《魔獣》だ。その一撃に定石は通用しない。相手のすべてを捌き、生まれる隙をつく、そんな戦術は今すぐ捨てろ)
(攻める力を磨け。力でも速さでも技でもなんでもいい。たとえ誰が相手だろうと押し切れるだけの武器をな。《魔獣》はそのような型にはまった攻勢が通用するほど甘くない)
(その剣、その身を血で汚す覚悟を持て。敵の血、そして己の血で汚す覚悟をな。そこへ踏み込む勇気を持てば、そなたは誰よりも強くなれるだろう)
以来、舞いとまで評されたクローディアの美しい剣技は鳴りを潜め、手数と速度で押し切る嵐の如き凄絶な剣へと生まれ変わった。
全ては国を、そして民を守るために。
さながら颶風と化して《蟲》へ襲いかかるクローディアの剣。そのあまりにも凄まじい速さに《蟲》が遅れを取り始めた。防御が間に合わず、全身の衣が次々と裂けていく。
焦りを覚えたのか《蟲》は防御を捨て、クローディアを倒すことに全てを傾け出した。傷つかない体を武器に彼女の剣撃には構わず、両腕を縦横無尽に振り回して襲いかかる。
《蟲》の連撃がクローディアを徐々に捕らえ出す。制服が綻び、肌が裂け、次第に全身が朱に染まり始めた。
だがクローディアは止まらない。《蟲》はこれまで剣撃を防御していた。ならその体は斬れるはずだ。そう確信した彼女はむしろさらに速度を釣り上げる。
そして、
「ああぁあぁあああッッッ!」
振り下ろされた《碧の剣》の一撃が―――《蟲》の肩に食い込み、左腕を断ち斬った。
直後、《蟲》の体が、わずかにぐらついた。
隙が、できた。
クローディアは一瞬で《蟲》の懐に潜り込む。
《蟲》は咄嗟に右腕を振り回して彼女の接近を嫌う。
だがクローディアは咄嗟に左腕で腰の黒剣を抜き一撃を防いだ。
―――懐に、入った。
「はぁぁぁぁッッッ!」
気合一閃。
クローディアはマナを込めた《碧の剣》を振り下ろした。
―――いかに尋常ならざる速さを誇る《蟲》でも、至近距離から放たれた一撃を躱すことは叶わなかった。
《碧の剣》から放たれた剣閃は轟音とともに《蟲》の左半身を、そして地下の壁と上階を容赦なく抉り取った。
《蟲》は…………沈黙した。
その体はしばし虚空を見上げたまま立ち往生し、
そのまま後ろへ……地へ、倒れ伏した。
「…………はぁッ! ……はぁ、ッ! ……は、ぁ! …………はぁ……はぁ……ッ……!」
やがて、訪れる静寂。
相手が動かなくなったのが分かると、クローディアの全身に張り巡らされていた緊張の糸が一瞬で解け、その体がへたりと膝から崩れ落ちる。
開けた空から、天へ昇る階段のように陽の明かりが差し込んできた。
「は、ぁ………………はぁ………………」
座り込んだクローディアは極度の疲労から、そのままうつ伏せに倒れ込んだ。まだほかに敵がいるかもしれないが、そこまで考える余裕はなかった。
すべてクローディアの思惑どおりに運んだ。地上と地下一階層目の仲間を尖塔より西側の区画から引き離し、クローディアは《蟲》を地下二層目の西側へ誘導。《碧の剣》の一撃を以て仕留める。もともと地上の西側に誰も配していなかったからこそ取れた作戦だ。万遍なく配していたら、アイルが仲間を移動させるのに4分では足りなかっただろう。それ以上この《蟲》を相手に持ちこたえられたか、クローディアには自信がなかった。
「クローディア様ッ!」
自分の名を叫ぶ声が微かに聞こえる。次いで近づいてくる幾重にも連なった足音と、一帯に広がる仄かな薄灯り。
クローディアはようやく、心の底から安堵の気持ちに包まれた。
「クローディア様! 大丈夫ですか!」
真っ先に駆け寄ってきたのはリズベットだ。ランタンの灯りに照らし出されたその表情は、薄暗い地下にあっても一目で分かるほど蒼白だった。
だから、クローディアは、出せる限りの明るい声と笑顔で、しっかりと答えた。
「……大丈夫よ。ちょっと疲れてるだけ」
そして、木龍月8日―――。
クローディアは、王都から北東およそ30キロメドルのところにある古戦場―――ライネル古砦跡にやって来ていた。
同地へ派遣されたのは、シルフィと王立魔道研究所の研究者を中心に結成された総勢8名の調査団、そして護衛を担う50名の聖痕騎士。発掘調査団の護衛としては小さい規模だが、王都の護衛などもあるため、これでも可能な限り人員を割いた形だ。
クローディアたちは、まず砦中央にある見張り用の尖塔の下に集まり、これからの方針と配置について確認する。
「レイナたちは東側を、クロードたちは南側を張って。キーリたちは尖塔からの遠方監視を交代で対応。西は大丈夫だろうからそこまで見なくていいけど、念のため警戒して。残りはシルフィ様たちの調査に護衛として同行を」
「はい」「了解」「わかりました」
ライネル古砦跡は、隣国の目と鼻の先だ。そこへ結構な規模の調査団を派遣すれば、隣国もさすがに気づくだろう。襲撃はしてこないだろうが、相手が不穏な動きと見て牽制してくる恐れもあるため、警戒するに越したことはない。
「クローディア、準備はいい?」
護衛側がそれぞれの持ち場へ向かうと同時に、調査団も準備が整ったようだ。
「はい。大丈夫です」
「ありがとう。じゃあ、行きましょう」
シルフィほか7人の研究者、そしてクローディアほか14人の騎士は、城砦中心部から北へ少し行ったところにある小屋のような施設へ向かった。
四方を石壁に囲われた空間は、暗く狭かった。中にはなにもなく、いったいどんな目的で用意された場所なのか、今となっては皆目検討もつかない。
だが、一つだけ妙なものが目についた。地面に木製の跳ね上げ扉があったのだ。周りの地面から少し低いため、用意した者はおそらく上に土を被せて隠していたのだろう。
騎士の一人が、取っ手を掴み、ゆっくり慎重に持ち上げる。
下から階段が現れた。二人が並んで通れるくらいの幅しかない。もし行く先から例の《蟲》でも現れれば、間違いなく抵抗できずに命を落とすだろう。
「私が先に行きます。アイル、灯りを」
「はい」
部下の一人にランタンを持たせて、先陣を切るクローディア。その左手には鞘に収まった剣が握られていた。アルの剣と同じくディライト鉱石で作られた彼女専用の長剣だ。地下で魔法を使うと崩落を招く恐れがあるため、今回《碧の剣》は使えない。
土でできた階段を降り、地下深くへ潜っていくクローディアたち。ようやく降り切ると、両壁と天井が石造りの、いかにも人の手が入った綺麗な地下道が真っ直ぐ伸びていた。冷えた空気だけが満ちる無音の空間は、それだけで緊張感を駆り立てる。
クローディアたちは、一歩、また一歩と慎重に進んだ。
―――通路はやがて、大きな部屋にたどり着いた。
一転して、雑然とした雰囲気の空間だ。発掘や建設に使われた道具と思しき残骸が、そこかしこに捨てられている。天幕のような巨大な布や、水を入れていたと思しき旅用の巨大な皮袋なども大量に落ちていた。ひと目で古いものだとわかる。
ひとまず室内を調査する一同。部屋の有様は、どことなく当時の生活感の名残を感じさせる……が、クローディアには、それ以上に不気味さを臭わせる光景に映った。
「どうやらめぼしいものはなさそうだけど、拠点にはできそうね」
シルフィが、クローディアに近づいてきた。
「はい。入り口まで一本道で引き返せるから撤退も楽ですし、ある程度の広さがあるので、仮に敵が出ても集団で対応できます」
「そうね。―――先へ続く道は3つあるけど、どうする? 一つずつ順番に見ていく?」
部屋には入ってきた入り口以外に、3つの道があった。1つは地下へ続く階段、2つは奥へと続く道が伸びている。
「ひとまず、それぞれの先の安全を確かめましょう。例の《蟲》が報告通りの強さだと、おそらく皆さんを守りながら戦う余裕はありません」
「わかったわ。……くれぐれも気をつけるのよ」
「はい。ありがとうございます」
クローディアは、それぞれの道の調査を、同行した騎士の中でも特に精鋭のアイル、リズベット、ミルザの3人に指示。ほかの者には、拠点の防衛と退路の保持を命じた。
クローディアが行くのが最も確実だったが、3つの通路のどこに例の《蟲》が現れるか分からないため、そうはいかない。そのため、ここで待機して《蟲》が現れた通路へクローディアが進む方針を取った。
調査を命じられた3人は、クローディアから《蟲》についての情報を聞くと、ランタンを手にそれぞれの通路へ入る。その実力はクローディアたち副団長格には及ばないが、おいそれとは遅れを取らない歴戦の実力者だ。
最初に戻ってきたのは、リズベットだった。出発からおよそ30分後。道の先にはいくつかの分岐と小さな部屋があっただけで、怪しい罠や待ち受ける敵は特になかったという。
クローディアは早速、シルフィたち研究者にそちらへ移動してもらった。もちろん調査のためだが、これで少なくとも彼らの安全は確保できる。
次に戻ってきたのは、ミルザ。彼の道もまた、複数の分岐と大小いくつかの部屋があっただけで、特に障害はなかったという。
クローディアは、騎士の一人をシルフィたちのもとへ報告に走らせる。これで2つの通路の安全は確保された。
残るはアイルの向かった地下だけだ。なら、やるべきことは決まっている。
「……リズベット、ここは任せるわ。もしなにかあったら、すぐに地上へ退避して」
「了解です。クローディア様は?」
「アイルの後を追うわ。私が戻るまで、誰も地下には近づけないで」
―――地下へ続く階段を降りると、そこも上層と似たような構造だった。
だが、その広さと複雑さは比ではなかった。基本的には格子状の構造のようだが、迷路のように通路が入り組んでいた。道も地下一階層のように人手が入っておらず、洞窟のように自然そのもの。そして、その壁は破壊の限りを尽くしたかのように、抉りに抉られている。
加えて、腰に固定したランタンがなければ、十分な視界を得られないほど一帯は暗い。騎士はあらゆる状況で戦えるように夜目も優れるが、それでもほぼ完全な暗中となると、確実に視認できるのは辺り数メドルが精一杯だ。
クローディアは頭のなかで地図を組みながら、慎重に奥をめざす。
シルフィの言っていた《蟲》がいるとすれば、おそらくここだろう。壁の大量の綻びも、侵入者を排除するために暴れた痕に違いない。
(……アイル、大丈夫よね)
先に入った仲間の身を案じつつも、なかなか先を急げない状況にクローディアはもどかしさを覚える。道をしっかり確認した上で進まなければ、おそらく上には戻れない。それほどに地下二階層目の構造は進む上で困難を極めた。
歩く。歩く。耳が痛いほど、無音の地下道を。時おり壁に印をつけながら。
どれほど奥まで来ただろうか。そもそも奥へ向かえているのだろうか。
5分、10分と歩いても、何も見つからない。アイルの姿も見えない。それに静かだ。
暗闇の中を、わずかな灯りとともに延々と回り続けるクローディア。
だが、何度も行き止まりに当たり、来た道を戻り、遅々として進まない道行きに、さすがの彼女の心にも疲弊の色が見え始めた。
―――その時を、待っているものがいるとも、知らぬまま。
(……ん?)
ふと、後ろに気配を感じ、後ろを振り返るクローディア。
ランタンが一帯を照らす。
……なにもいない。
気のせいか?
前に向き直る。
ランタンの光が、動く。
壁を、照らす。
ゆっくりと。
―――
(……?)
クローディアの動きが、止まった。
その表情が、固まる。
瞳が、凍る。
無意識に。
緊張で。
あるいは、衝撃で。
動揺で。
―――なにかが、視界を霞めた。
……なんだ?
なにが?
いま……なにが、見えた?
咄嗟に周囲へ視線を走らせるクローディア。
左。
右。
後ろ。
――――――上。
「ッ!?」
クローディアの瞳が……大きく見開かれた。
それは、いた。
―――影が、壁を這いずった。
天井に張りついた、ひとつの影。全身を黒い襤褸布で包んだような、巨大な人型を思わせる影。だが、その形は明らかに人のそれではなかった。手足はクローディアの身の丈を超えるほどに長く、布に覆われた体躯は2メドルを優に超えている。
巨大な蟲を思わせるそれは、逆さに張りついた天井からじっと、頭部と思しきものをクローディアのほうに倒していた。まるで彼女の様子を窺うように。
「くっ、ッ!」
咄嗟に腰の鞘から剣を抜くクローディア。
同時に《蟲》も右腕を背中側へ振り下ろした。
両者が交錯し金属音が弾ける。
「ッッッ!?」
斬れない。その動きはもちろん硬さも人間のそれではなかった。
続けざま《蟲》は天井から離れ空中で反転。即座にクローディアめがけて左腕を振り回す。
反射的に剣を構えて防ぐクローディア。だが勢いを殺し切れずにその体は護謨鞠のように吹き飛び壁に叩きつけられた。
「う、ぐっ、ッ!」
ランタンが砕け光が消える。同時に《蟲》は一気に接近し再び右腕を突き出した。
クローディアは寸でのところで横へ飛んで躱す。
(ッ!?)
直後にその腕を叩き込まれた壁が爆発したように弾け飛んだ。
(なんて力、ッ!)
一撃でも喰らえば間違いなく死を免れない。警戒したクローディアがいったん後方へ飛び退って距離を取る。
だが《蟲》は迷いなく一瞬でついてきた。
(速、ッ!?)
その右腕が横に薙がれる。再び剣を立てて防ぐクローディア。だがやはり力を逃がし切れず吹き飛ばされる。
「ぎ、ぃッ!?」
石壁に背中を強打し呼吸が乱れ一瞬だが意識が飛んだ。
「……ッ!?」
視界が戻ると目の前に《蟲》の腕が迫っていた。
「ぐ、ぅッ!」
なんとか横に転がって躱す「ッ!」だが《蟲》は容赦なく再び接近。両腕がまるで別の生き物のように次々と襲い来る。
その力は文字通り常軌を逸していた。まともに喰らえば人間の頭など一撃で砕けるだろう。加えて打撃はその巨体から想像できないほど恐ろしい速さで繰り出される。クローディアの速さを以てしても凌ぐのが精一杯で反撃の余裕などまるでない。
さらにその動きは微塵も衰える気配がなかった。シルフィは魔法で動いていると言っていたが、もしそうならマナが切れない限りは止まらない。
(なら倒すしかない、でもどうやって……ッ!?)
だが、戦略を整理する余裕もなかった。クローディアは縦横無尽に暴れ回る《蟲》の腕を必死に躱し捌き続ける。
もはや、ただただ死の危機を回避するだけで精一杯だった。
―――その時、
「ッッッ!?」
《蟲》に大きく吹き飛ばされたクローディアは突如なにかに手を引かれた。
直後、思い切り引っ張られて壁の陰に引きずり込まれる。続けざま口を塞がれ身動きも封じられた。
(な、なにっ!?)
咄嗟に抵抗しようと剣を握る手に力を込めた時、
「……動かないでください。音も立てないで」
今にも消え入りそうなほど小さな声が聞こえた。
その声の主を、クローディアは知っていた。
(ア、アイル!?)
彼女を拘束したのは、紫紺の短い髪と瞳の少女―――地下の安全確認に向かわせた彼女の部下であるアイリーン・グラム、アイルだ。
反射的に彼女の指示に従い、呼吸と動きを抑えるクローディア。敵前で物陰に身を潜めるなど愚策も甚だしいが、アイルに対する信頼の強さが彼女に躊躇なく決断を促した。
その選択が正しかったことは、すぐに示された。
―――《蟲》の動きが、止まったのだ。
(……?)
敵を見失った《蟲》が、嘘のようにぴたりと静まり返った。
しばし、その場で周りを見回す《蟲》。その後、一歩、また一歩と二人の隠れた壁に近づいてくる。だが、どうやらそこに二人がいるとは分かっていない様子だ。
息と気配を殺し、懸命に恐怖に耐えるクローディア。
やがて《蟲》は、クローディアたちが身を潜めた分岐に差しかかった。右を向けば、すぐさま二人を発見できただろう。
だが《蟲》は、ただ虚空を見上げるような姿勢で、その場で立ち尽くした。
するとアイルが、手にしていた折れた剣を、向かいの通りめがけて思い切り放り投げた。
それが地面に落ちた瞬間、
(ッ!?)
《蟲》は一瞬で反応し猛然と突進。剣の残骸めがけて接近すると容赦なく右腕を振り下ろして地面もろとも木っ端微塵に粉砕した。
だが、その感触に違和感を覚えたのか、《蟲》は再び虚空を見上げ、しばし立ち尽くす。やがてクローディアたちから遠ざかっていき、そのまま闇に溶けて消えた。
「……行った、みたいですね」
アイルが押し殺した声で吐露する。同時にクローディアの口を塞いでいた手を放した。
「あれはどうやら音に反応して、相手を探すようです……ここが暗いから、なのか……地面を強く擦った程度の音でも……敏感に反応します……う、ぐっ!」
「ア、アイんぐっ!?」
いきなり苦しみ出した部下に驚いたクローディア。だが、その口をアイルが再び塞ぐ。
「ダ、ダメです……大きな声を出しては……あいつに、気づかれます……」
「あ、貴方、どこか怪我を……ッ!?」
小声で尋ねたクローディアは、すぐにアイルの異常に気づいた。
彼女の左腕は、肩からだらりと垂れ下がっていた。その手は力なく開かれたままで、少なくとも折れているのは明白だ。
「……咄嗟に剣で防いだつもりだったんですが、間に合わなくて……受け方を誤って……たぶん、骨が砕けてます……」
頭を石壁に預け、天を仰ぎながら吐露するアイル。その声は、先ほどまでと違い息も絶え絶えだった。おそらくあの《蟲》が遠ざかるまでは必死に堪えていたのだろう。
歯を食いしばり、右手を強く握り締めるクローディア。悔い故か、あるいは怒り故か。
「あれは……この迷路のような地下道を、徘徊しているようです……目的は……分かりませんが……奥に、なにやら扉があったので……そこを守っているのかも、しれません……」
「扉?」
「はい……中は見ていないので……なにがあるのかは、わかりませんが……」
「……それはいいわ。とにかく、いまはいったん外に出るわよ。そのためにも、まずあいつをなんとかしないと……」
だがどうする、どうすればいい?
対策に窮し、苦慮するクローディア。必死に思考を回すも、妙案は出てこない。
(どれほど耐久力があるのか分からないけど、こっちの剣を腕で受けたということは、斬られると困る箇所があるということ。でも、そこを見極める余裕はない。魔法を使えば、たぶん終わらせられるけど……崩落の危険があるし、上のみんなを傷つけるかもしれない……)
しかし、状況を打開する切り札は、もはやクローディアの魔法―――《碧の剣》しかないのも自明だった。
なら使うしかない。だがどうやって?
(横に薙げば、ここが間違いなく崩落する。私もアイルも終わり。下手すれば、上のみんなも危険に晒しかねない……。縦に放てば、上の誰かが巻き込まれる可能性が高いけど、おそらく崩落は避けられる……)
なら、答えは縦しかない。《碧の剣》の一撃を以て《蟲》を両断する。
クローディアは意を決し、隣のアイルに小声で尋ねる。
「……アイル、どのくらい動ける?」
唐突な問いに、アイルはしばし考え込んだ。
「……走るだけなら、全力は厳しいですが、多少落として数分なら……。ただ、仮にあれと対峙した場合、恥ずかしながら、もって30秒が限界かと……」
「そう……。下に降りてきた階段の場所、覚えてる?」
「……はい、大丈夫です……この場所には覚えが、あります……」
アイルの答えを受けて、クローディアは記憶の地図を呼び起こす。
ここから階段までは、アイルが全力で最短距離を走って30秒、今の彼女なら60秒くらいか。そこから地上へ出るには最短でも数分。それだけの時間、あの《蟲》を抑え込む力が、自分にあるか……。
(……やるしかないわね)
クローディアは意を決し、静かに立ち上がった。今もあの《蟲》は、この地下を徘徊している。見つかる前に早く行動に移らなければ。
「―――アイル。辛いでしょうけど、今からみんなを連れて地上に戻ってくれる? そしてシルフィ様たちと地上のみんなに、尖塔より西には絶対に行かないでって伝えて欲しいの」
「……尖塔より、西には行かない……ですか?」
「ええ。どのくらいかかりそう?」
クローディアの質問に、アイルの少し考えた後、
「……5……いえ、4分だけください……それ、で……終わらせてみせます」
決意みなぎる答えと共に、アイルは左腕の激痛に顔を歪めながらも、音を立てないよう慎重に立ち上がる。クローディアの狙いを察したのか、あるいは知らずとも信じているのか、その瞳には欠片も迷いが揺らがない。
「……ごめんなさい。無理をさせるわね」
「大、丈夫です……帰ったら、超過手当を申請……しますから」
神妙なクローディアに対し、アイルが無理やり笑顔をつくり、冗談を口にする。普段は根っから真面目一筋な彼女の軽口に、クローディアは思わず面食らった。
「……ふふ、そうね。姫様がセシリア様から怒られるくらい出してあげるわ」
表情を綻ばせながら、クローディアも立ち上がる。そして黒剣を腰の鞘に収めると、
『……your name wind』
瞳を閉じ、できる限り小さな声で詠唱を始める。
『your name cutting and judgement edge』
正直、上手くいくかは未知数だ。アイルが4分以内に事を成せても、果たして自分が《蟲》を相手に4分も持ちこたえられるか……。
『your name Ariel』
だが、他に手はない。これがいま取れる最良の選択だ。
『your pray soaring sky and crushing peak』
詠唱が完了すると《碧の剣》がクローディアの手に宿る。全てを容赦なく両断する刃を放つ文字通り必殺の一振り。
「……準備はいい? 私があいつを誘き寄せるから、その間に階段めざして走って」
「……はい」
アイルが頷いたのを確認すると、クローディアは壁の陰から出る。そしてアイルから十分に離れたところで、近くの壁に思い切り後ろ回し蹴りを叩き込んだ。
鈍い打音が弾ける。これで《蟲》を自分のほうへ引き寄せ、その隙にアイルを上へ逃がす。それがクローディアの算段だった。
「ッ!?」
突如クローディアの目の前の壁をなにかが突き破った。破砕された石壁の破片が山のように一帯に弾け飛ぶ。
(か、壁を破って……ッ!?)
激しく舞い散る粉塵。その中にあの《蟲》の姿があった。
《蟲》は間髪入れずクローディアめがけて右腕を突き出す。
「ぐっ……ッ!」
咄嗟に剣で防ぐも不意をつかれた防御は体勢が甘く大きく吹き飛ばされたクローディア。
「クローディア様!」
アイルの不安気な叫びが一帯に響く。
その一声にクローディアは歯を食い縛り反射的に踏ん張った。
(駄目……ッ! 下がるわけにはいかない!)
だがアイルの声が大き過ぎたのか《蟲》は彼女のほうを向いた。
「行きなさいッッッ!」
その気を引くために腹の底から声を張り上げ同時に加速するクローディア。
(こっちを向きなさいッ!)
わずか一足その一瞬で《蟲》の懐に潜り込むと剣を腰溜めに構え「はぁッ!」一閃を抜き放つ。だが《蟲》はその巨体に似合わない速度で後方へ飛び退り難なく躱した。
(アイルは!?)
一瞬だけ視線を横に向けるとアイルの姿はなかった。行ったのだ。
(ここから4分、長いわね……―――ッ!?)
距離を取った《蟲》が一瞬でクローディアとの距離を詰め右腕を横に薙いだ。
(逃げるな! 逃げるなッッッ!)
己に言い聞かせて恐怖を押し殺すと同時にクローディアも一歩を踏み込み《蟲》の肘あたりで一撃を受ける。
「ぐ、っ!」
なんとか耐えたクローディアはそのまま突き進み相手とすれ違うと同時に腰を斬る。
「ッ!?」
だが鎧の表面を滑ったような感触だけが返ってきた。
(やっぱり魔法じゃないと倒せない、場所を探さないと!)
《蟲》の背後に回ったクローディアは、そのまま相手に背を向けて疾走。だが《蟲》も即座に反転して彼女を猛然と追い立てる。
逃げに徹すれば振り切れると思った。だが甘かった。天井まで届きそうなほどの巨躯にもかかわらず《蟲》の速度は尋常ではない。直線的に逃げていてはすぐに捕まる。
クローディアは頻繁に道を曲がって逃げ続ける。目的の場所をめざして。
(駄目……ッ! ここはまだ尖塔に近い、魔法は使えない……ッ!)
走り続けるクローディア。角を曲がる。
だが誤った。袋小路だ。
(しま……ッ!)
咄嗟に立ち止まり反転して別の道へ向かおうと試みる。
だが遅い。追いついた《蟲》が立ち塞がった。
(まず……ッ!)
動揺を抑える間もなく《蟲》が左腕を大きく振り回す(ぐ、ッ!)逃げ場がないクローディアは反射的に剣を盾にした。
「ぎィ、ッ!」
直後に左腕が叩き込まれ勢い良く吹き飛ばされた体は壁に豪快に激突し「が、は……ッ!」背中を強打して呼吸が止まり視界が一瞬だが確かに白く溶ける。
「……ッ!?」
瞬時に意識を取り戻すが眼前に《蟲》の右腕が迫っていた。
「こ、の……ッ!」
クローディアは咄嗟にその場で跳躍し一撃を躱す「ッ!」だが宙に浮き完全に無防備な彼女めがけて続けざまに《蟲》の左腕が鋭く突き出された。
「く、っ!」
なんとか後ろの壁を蹴り《蟲》を飛び越えるように躱し同時に首めがけて《碧の剣》を振り抜く「ッ!?」しかしそこも剣は通らずただ相手の衣を斬って終わった。
だがこれで袋小路からは脱した。しかし《蟲》は逃すまいと体を回転させて右腕を後方へ振り回す。
だがそこにもうクローディアの姿はなかった。
彼女は再び駆け出し、脳内の地図を頼りに地下を走る。走る。いったん北へ回り、ひたすら西をめざす。
(はぁ……ッ! はぁ……っ! は、ぁ……っ……ッ!)
先ほどは最短で西をめざして行き詰まった。なら大回りすればという安直な発想だったが、これが功を奏した。入った道は地下西側の奥深くへ通じていた。
新たな区画を脳内の地図に素早く重ねる。今いるのは地上の尖塔から50メドルほど北西。
ここならいける。
時間は? おそらく4分は経った。アイルは間に合ったか? あの体では4分で自分だけ地上へ戻るのも苦しいはずだ。
不安がないわけではなかった。もし魔法に仲間を巻き込めば間違いなく殺してしまう。
だが《蟲》を相手に耐えるのも既に限界が近い。
《蟲》はここでの戦いを苦にしない。だがクローディアはこの空間に不慣れだ。このままでは体力が尽きた瞬間に間違いなく敗北―――即ち死が待っている。
(ここで、決める……ッ!)
意を決したクローディアは曲がって入った道を行き止まりまで進むとそこで反転。
《蟲》が猛進してきた。
三たび接敵。
だが、今度の《蟲》は冷静だった。いきなり攻めこまず、クローディアの剣が届かない距離から彼女の様子を窺っている。接近し過ぎては巨体の脇を抜かれて逃がしてしまう、そんな先と同じ轍を踏まぬよう警戒してか、やや両腕を広げるように構えて。
剣を正眼に構え《蟲》と対峙するクローディア。
(……厄介ね。勢いよく攻め込んで来てくれたほうが、確実に一撃を与えられたのに……)
どうやら獣のように攻めるしか能がない存在ではないらしい。
となると、魔法を躱されてしまえば、おそらく二度と当てられないだろう。好機があるとすれば一度だけだ。
―――無音。
それまでの苛烈な戦闘から一転、地下に張り詰める不気味なほどの静寂。
場の空気が、燃えるようにひりつく。
心臓が跳ねる。何度も。何度も。
外すわけにはいかない。外したらどうなる? その恐怖に心が潰れそうになる。
息を呑む。
落ち着け。見極めろ。逃すな。
逃せば、終わりだ。
「……、―――ッ!」
《蟲》が動いた。
クローディアの足元を払うように左腕を薙ぐ。
咄嗟に後ろへ下がって躱したクローディアはそのまま相手の左側へ踏み出し、
「ッ!?」
しかしそこへ《蟲》の右腕が彼女めがけて左腕と十字を描くように襲いかかった。
「ふ、ッ!」
クローディアは体を思い切り前に屈め、速度を釣り上げて一撃を躱すとそのまま《蟲》の側面へ回り込み(いま、ッ!)《碧の剣》にマナを込めた。
同時に《蟲》がクローディアのほうへ頭部を向ける。
「ッ!?」
その口元と思しき箇所が光を放った。
なんだ? あれは一体なんだ?
だが理性の疑問とは別に本能は無意識に察していた。
(―――なにより口から火を吐きました)
スフィーリアの助言が脳裏を過る。
本能が警鐘を鳴らす。
逃げろ、と。
「ぐ、ぅッ!」
クローディアは半ば振り抜きかけた《碧の剣》を強引に止めると勢いのまま《蟲》の背後へ咄嗟に回り込む。
直後。
「ッッッ!?」
《蟲》が―――火を吐いた。
「っ、ッ!?」
直撃こそ避けたクローディア。だがその火は当たらずとも思わず目を顰めるほど恐ろしい熱を持っていた。触れずとも地を裂き、触れれば壁を跡形もなく溶かすほどの。
これがスフィーリアの言っていた火を吐く魔法か。
しかしその凄まじさは予想を遥かに超えていた。威力。速度。そしてなにより火を吐く気配がまるで読めない。魔法そのものも自分たちが知っている火炎系魔法の威力や速度を遥かに凌駕している。
いつまでも避けられない。体力が尽きて躱せなくなる前に決めなければ終わりだ。
だが容易なことではない。常人の騎士なら足がすくみ戦意を失っても不思議はない恐るべき魔法。それを掻い潜って懐に潜り込み《碧の剣》の一撃を叩き込むなど一つ間違えれば確実に死に至る諸刃の策だ。
不安で思考が淀む。恐怖で意志が折れかける。
―――だがもう手はない。
考えている場合ではない。やるしかない。やるしかないのだ。
直後に《蟲》の左腕が彼女の脇腹を狙った。
クローディアは咄嗟に《碧の剣》で一撃を止める。
直撃は防いだ。だがその身に途轍もない衝撃が叩き込まれる。
「ああぁぁあぁあぁああぁああッッッ!」
クローディアが吠えた。恐怖を無理やり払うように。自らを鼓舞するかのように。
彼女の身は《蟲》の一撃を受け止めてもなおその場から微動だにしなかった。まるで地面に根を張ったように《蟲》の前に立っている。
両者の足が、止まった。
「は、ぁ……ッ! は、あ……ぁ……ッ! はあぁッッッ!」
続けざまクローディアは《蟲》の首を狙って斬り下ろした。だが《蟲》の左腕で防がれる。
同時に《蟲》は右腕を引くとそのまま持ち上げクローディアの頭上めがけて振り下ろす。
だがそこには誰もいなかった。
クローディアは半身だけ開いて躱すと同時に《碧の剣》を薙いで《蟲》の左脇腹へ一撃を叩き込んだ。だが手に返ってきた感触は鋼を打ち付けたものだった。
やはり剣は通らない。だがそれでもクローディアは構わずに攻め続ける。
彼女の選択。それは足を止めて正面から対峙する道だった。
《碧の剣》を放つにはここしかない。ここを離れて窮地を脱したところで、再び《蟲》をこの場所まで誘導できるかは不明だ。その時に魔法を放てるだけの体力が残っているかも分からない。なによりあの火をいつまでも躱す自信がなかった。
なら答えは一つ。ここで決着をつけるしかない。
その決意を奮い立たせるため、クローディアはあえて《蟲》に正面から挑み、自ら退路を断った。倒せなければ死ぬ。その尋常ならざる恐怖を押し殺し、力に変えて。
―――それは、補佐官時代の教えでもあった。
彼女は入団直後から優秀な騎士だった。将来を嘱望され、未来を約束され、いつかは騎士団を背負って立つ数十年に一人の逸材だと期待を集めた。
しかし、そんな彼女が入団後に初めて味わったのは、自らの実力不足と不甲斐なさだった。
補佐官として入団したクローディアは、その初日に実力の確認として団長ベルヴェリオと手を合わせ―――手も足も出なかった。その圧倒的な、人智を超越した力を前に、わずか20秒で剣と、そして心を完膚なきまでに叩き折られた。
そのとき、クローディアはベルヴェリオから、最初の教えを授かった。
(―――そなたの剣は、確かに綺麗だ。だが、ただ型を守り、定石をなぞるだけの剣でしかない。それでは国は守れない)
(我々が相手にするのは《魔獣》だ。その一撃に定石は通用しない。相手のすべてを捌き、生まれる隙をつく、そんな戦術は今すぐ捨てろ)
(攻める力を磨け。力でも速さでも技でもなんでもいい。たとえ誰が相手だろうと押し切れるだけの武器をな。《魔獣》はそのような型にはまった攻勢が通用するほど甘くない)
(その剣、その身を血で汚す覚悟を持て。敵の血、そして己の血で汚す覚悟をな。そこへ踏み込む勇気を持てば、そなたは誰よりも強くなれるだろう)
以来、舞いとまで評されたクローディアの美しい剣技は鳴りを潜め、手数と速度で押し切る嵐の如き凄絶な剣へと生まれ変わった。
全ては国を、そして民を守るために。
さながら颶風と化して《蟲》へ襲いかかるクローディアの剣。そのあまりにも凄まじい速さに《蟲》が遅れを取り始めた。防御が間に合わず、全身の衣が次々と裂けていく。
焦りを覚えたのか《蟲》は防御を捨て、クローディアを倒すことに全てを傾け出した。傷つかない体を武器に彼女の剣撃には構わず、両腕を縦横無尽に振り回して襲いかかる。
《蟲》の連撃がクローディアを徐々に捕らえ出す。制服が綻び、肌が裂け、次第に全身が朱に染まり始めた。
だがクローディアは止まらない。《蟲》はこれまで剣撃を防御していた。ならその体は斬れるはずだ。そう確信した彼女はむしろさらに速度を釣り上げる。
そして、
「ああぁあぁあああッッッ!」
振り下ろされた《碧の剣》の一撃が―――《蟲》の肩に食い込み、左腕を断ち斬った。
直後、《蟲》の体が、わずかにぐらついた。
隙が、できた。
クローディアは一瞬で《蟲》の懐に潜り込む。
《蟲》は咄嗟に右腕を振り回して彼女の接近を嫌う。
だがクローディアは咄嗟に左腕で腰の黒剣を抜き一撃を防いだ。
―――懐に、入った。
「はぁぁぁぁッッッ!」
気合一閃。
クローディアはマナを込めた《碧の剣》を振り下ろした。
―――いかに尋常ならざる速さを誇る《蟲》でも、至近距離から放たれた一撃を躱すことは叶わなかった。
《碧の剣》から放たれた剣閃は轟音とともに《蟲》の左半身を、そして地下の壁と上階を容赦なく抉り取った。
《蟲》は…………沈黙した。
その体はしばし虚空を見上げたまま立ち往生し、
そのまま後ろへ……地へ、倒れ伏した。
「…………はぁッ! ……はぁ、ッ! ……は、ぁ! …………はぁ……はぁ……ッ……!」
やがて、訪れる静寂。
相手が動かなくなったのが分かると、クローディアの全身に張り巡らされていた緊張の糸が一瞬で解け、その体がへたりと膝から崩れ落ちる。
開けた空から、天へ昇る階段のように陽の明かりが差し込んできた。
「は、ぁ………………はぁ………………」
座り込んだクローディアは極度の疲労から、そのままうつ伏せに倒れ込んだ。まだほかに敵がいるかもしれないが、そこまで考える余裕はなかった。
すべてクローディアの思惑どおりに運んだ。地上と地下一階層目の仲間を尖塔より西側の区画から引き離し、クローディアは《蟲》を地下二層目の西側へ誘導。《碧の剣》の一撃を以て仕留める。もともと地上の西側に誰も配していなかったからこそ取れた作戦だ。万遍なく配していたら、アイルが仲間を移動させるのに4分では足りなかっただろう。それ以上この《蟲》を相手に持ちこたえられたか、クローディアには自信がなかった。
「クローディア様ッ!」
自分の名を叫ぶ声が微かに聞こえる。次いで近づいてくる幾重にも連なった足音と、一帯に広がる仄かな薄灯り。
クローディアはようやく、心の底から安堵の気持ちに包まれた。
「クローディア様! 大丈夫ですか!」
真っ先に駆け寄ってきたのはリズベットだ。ランタンの灯りに照らし出されたその表情は、薄暗い地下にあっても一目で分かるほど蒼白だった。
だから、クローディアは、出せる限りの明るい声と笑顔で、しっかりと答えた。
「……大丈夫よ。ちょっと疲れてるだけ」