本編
◯神暦3917年 木龍月3日 魔道王国イングリッド 王都マルドゥーク 王立魔道研究所
木竜月3日。
「―――このように国や部族にとって重要な位置を占めていたと思しき魔法は、その存在を秘匿するため、書籍や碑文に残す際は少し変わった細工が施されている場合があります」
クローディアは再び教鞭を取っていた。だが、今日は騎士訓練校ではなく、王立魔道研究所の一室だ。
王立魔道研究所は、魔法の研究拠点としてはもちろん、研究者の見習いを育成する役割も担っており、騎士訓練校と同様、在籍する研究者が後進を育てている。
クローディアは普段、研究所の教壇には立たないが、急きょ穴埋めで臨時講師を務めたり、彼女以外には難しい講義を担当したりすることがある。今回は後者だ。
教室に居並ぶ生徒は研究者の卵たち総勢百五〇人。だが、騎士訓練校の生徒たちの明るい雰囲気とは違い、彼らの表情は漏れなく硬い。少しも聞き逃すまいと鬼気迫る雰囲気すら感じさせる緊張感に満ちている。
その理由は、今回の講義「解読基礎論」の内容だった。クローディアが専任で担当する数少ない講義の一つで、研究者の見習いが最初にぶつかる壁として知られていた。
「たとえば《碧の剣》の詠唱が発見された時の詩文は、次のように一見なんの脈絡もない文字列で構成されていました」
クローディアは、白墨で黒板に不可解な文字列を書き綴っていく。
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qzgeifxrpgkkvimfihsghmrxrikrhmr
qzgeifxrfevrd
qzgetefqjzfevimjyqfihpegjcvimtrfy
「な、なんだあれ?」「古語……だよね?」「だけど意味が全く通らないし、そもそも文節がないぞ?」「あれが詠唱文なの?」
見慣れない文字列を不思議そうに眺める生徒たち。
「クローディア様。それって、古語ですよね?」
生徒の一人がクローディアに尋ねると、彼女は「ええ、そうです」とあっさり頷く。
「これは本来の詠唱文の文字を、別の文字に置き換えています。並べてみると、分かりやすいでしょう」
クローディアは続けて、本来の詠唱文を隣に書き足した。
your name wind
your name cutting and judgement edge
your name Ariel
your pray soaring sky and crushing peak
「両者を対照すると、yがqに、oがzに、uがgに対応しています。このように別の文字に置き換えて本来の詠唱文を隠したわけですね。これから皆さんに身につけてもらうのは、このような正体を秘匿された文字列を元に戻す技術です」
「で、ですが、いったいどうやって……?」「手がかり、ないですよね?」
「それは今後の講義でお伝えしていきますが、一つは出現頻度です。たとえば、古語の単語にはaやeが多く使われ、逆にjやq、xなどは、ほとんど使われないことが分かっています。この事実から、何度も登場している秘匿文のfやrは、aやeの可能性が高いと判断できます。他にも、古語ではqの後ろは必ずuしか来ないので、ある秘匿文字の正体がqだと分かれば、その直後の秘匿文字の正体は、必然的にuと分かります。こうしたさまざまな手がかりを使いながら、元の文章を突き止めていくわけです」
クローディアは白墨を置くと、黒板に書いた文字を消していく。
「ですが、秘匿文字と元の文字が、いつもこうした一対一対応の関係にあるとは限りません。また、そもそも別の文字に置き換えて秘匿されるとも限りません。その一例として、一つの文字を複数の数字で置き換えるという特殊な秘匿法が確認されています」
続けてクローディアは、新たに黒板に妙な文字列を書き始めた。
a 10 23 31 40 49 62 71 82
b 37 61
c 21 64 73
d 11 27 39 51
e 2 30 41 50 63 70 74 78 83 89 96 99
f 34 55
g 22 60
「……え、なにあれ?」「どういうことですか?」
およそ理解が及ばない内容に、困惑する生徒たち。
「文字を別の文字に置き換えて秘匿する先ほどの方法は、文字の出現頻度という手がかりをどうしても残してしまいます。では、それを消すにはどうすればいいのか? その対策の一つとして編み出されたのが、この数字を使った秘匿法です。たとえば、1万文字の古語の本があった場合、その中にaは約800文字、eは約1200文字の頻度で現れることが分かっています。100文字に換算すれば、aは8文字、eは12文字ですね。そこで、aには8個の、eには12個の数字を割り振ります。そして、ある文を秘匿する時に、この割り振った数字を均等に使います。こうすることで、秘匿文中にはあらゆる数字がほぼ同じ割合で出現するようになるので、出現頻度を手がかりに解読するのは、ほぼ不可能になります」
「……あ、本当だ」「なるほど……」「……え、でも、そうなったら、どうやって解読すればいいの?」「ただ、数字が並ぶだけだよな。それこそ手がかりない気が……」
生徒たちに広がる驚きと疑問。
「その話は、また今度にしましょう。とにかく、こうした解読の技術は、古語の解読はもちろん他の言語、それこそ私たちが全く知らない言語で書かれた書物や碑文などの解読にも必要です。言い換えれば、この解読技術を身につけなければ、魔法研究者としてやっていけません。脅すわけではありませんが、それはしっかり覚えておいてください」
クローディアの言葉に生徒たちが気を入れ直したところで、12時の鐘が鳴った。講義終了の時間だ。
「……今日はここまでですね。次の時間は、最初に今日のおさらいを兼ねて簡単な試験をするので、復習を忘れないように。以上」
終了の号令と同時に、疲れ切った生徒たちが漏れなく大きな溜め息を漏らし、次々と机に倒れ伏していった。全員、漏れなく疲労困憊といった様子で、これから昼食休憩の時間だというのに、ほとんどの生徒が椅子から立ち上がろうとしない。
もっとも、無理もないだろう。「解読基礎論」をはじめとする古語解読に絡んだ講義は、時に現役の研究員ですら音を上げるほど難解な内容で知られ、毎年多くの生徒が苦しむ。時には研究者の道を諦める者も出るほどだ。
それでもクローディアの講義は分かりやすいと生徒たちに評判で、彼女が担当して以降は、脱落者は出なくなった。
だが、クローディア以外で満足に担当できるのは、今のところシルフィしかおらず、その彼女は発掘の最前線に立つため国を空けることが多い。よって、実質クローディアが一人で回していた。解読は魔法の発掘において最も重要な技術のため、この事態は望ましくなかったが、他の指導者がなかなか育たないのが現状だ。
(来週、みんなちゃんと来るといいけど……)
教壇で資料を片しながら、それとなく生徒たちの様子を窺うクローディア。他の講義とは違い、古語解読の講義だけは終わった後、いつも生徒たちの反応を心配していた。
だが、人手不足を恐れて脱落者を出すまいと講義を甘くしても、技術を持たない研究者が生まれるだけだ。研究者の質と量は、どちらを優先すべきかという問題ではない。どちらも等しく満たすべきである以上、そのために自分たち指導者側にさらなる研鑽が求められる。
資料を手に教室を出て、自分の研究室へ足を向けるクローディア。すると、誰かが「お疲れさま」と彼女の背中に声をかけた。
クローディアが後ろを振り向くと、立っていたのはシルフィだった。
「シルフィ様、どうされたんですか?」
少し逸る鼓動を抑え、落ち着いて尋ねるクローディア。
「ちょっと話、というかお願いがあってね。一緒にお昼がてら相談させてもらえないかと思って。このあと時間ある?」
「あ、はい。大丈夫です」
二人はいったんクローディアの研究室へ向かって講義の資料を戻し、そのあとシルフィの提案で研究所内の食堂へ向かった。
王立魔道研究所は、騎士団の詰め所から南へ少し歩いた小高い丘の上にある。その敷地は四方1キロメドルを超えるほど広大で、四隅に4本の巨大な塔が立っていた。それぞれに研究者たちの研究室や講義室などがあり、その各塔から等距離にあたる広大な中庭には、図書館や食堂などの共用施設が置かれている。
二人は食堂へ入ると窓際の席に着席。注文を取りに来た店員にサンドイッチとスープ、コーヒーを頼むと、シルフィが口を開いた。
「それにしても、あなたも大変ね。研究所の講義まで受け持つなんて。まぁ、あなたの解読技術はずば抜けてるし説明も上手いから、みんなが頼るのもわからなくはないけど」
「シルフィ様のおかげです。それにたいした負担ではありません」
クローディアの暗号解読技術は、もともと周りの研究員と一線を画する技量だったが、シルフィの教えを受けてからさらに磨きがかかった。結果、古語解読に関しては、講義に実務にと彼女を頼る者が多い。
「うーん。そう言ってくれるのはありがたいけど、もうちょっと他の研究員にも頑張ってもらいたいところなんだけど……」
「気になさらないでください。むしろシルフィ様のおかげで、状況は以前からずいぶん変わりました。感謝しかありません」
申し訳なさそうに頬をかくシルフィに対し、クローディアの表情は明るかった。
実際、シルフィの尽力は目覚ましい。彼女が来る前、クローディアが担当していた講義は5を数え、騎士訓練校の講義と併せると10を超えた。当時、研究員の評価項目は大部分を研究関連が占め、故に多くの研究員が後進育成に及び腰だった。
そうした育成を阻む仕組みを作り変えるため、各所へ根回しするなど奔走してくれたのがシルフィだった。それだけでなく、講義体系の見直しや指導者の育成にも注力し、以前より遥かに整った研究所の体制を築き上げてくれた。
「そう言ってもらえると、ありがたいわ。……っと、ごめんなさい、話が逸れたわね。本題いいかしら?」
「はい」
シルフィはクローディアの同意が取れると、スープを口にしてから静かに話を切り出した。
「―――ライネル古砦跡、知ってるわよね?」
「《ライネル戦役》で使われた砦ですよね?」
ライネル古砦跡。遥か昔、東の隣国チャダルクと、その同盟国であるマルディア、そしてルーデンスの連合軍が、イングリッドと空白地帯だったライネル地方の領有権をめぐって戦争になった。その《ライネル戦役》の際、聖痕騎士団が拠点とした古くから残る城砦だ。
当時すでに廃墟と化していたが、四方3キロメドルに及ぶ巨大な砦は、一時的な野営地として十分な機能を発揮した。地上50メドルを超える中央の尖塔は数キロメドル先の敵襲も容易に察知し、《大迷宮》と呼ばれた迷路を思わせる複雑な造りは騎士たちに安息をもたらした。
「そう。あの《大迷宮》ね。実は最近、あそこの調査を進めてたの。ちょっと気になることがあってね」
「気になること?」
「少し前なんだけど、古戦記を漁ってたら、砦の地下に大量の抜け道があったと思しき記述が散見されたの。たぶん敵に気づかれずに逃げたり、裏をついたりするために用意されたものだと思うんだけど、どうにも妙なところがあったのよ」
「妙なところ?」
「気になって砦の復元予想図を作ってみたんだけど、そこに文献に残っていた地下通路を書き起こしたら、ちょうど中央の尖塔の真下あたりだけ、なんにもなかったの。ぽっかり四方500メドルくらいの空間が空いてる感じね」
「空間……壕舎のようなものでしょうか?」
「まだなんとも言えないけど、先遣隊から明らかに人の手で造られた通路みたいなものがあったって報告が入ったから、その可能性はありそうね。……ただ、ちょっと問題もあってね」
「問題?」
「ええ。実は先遣隊が地下に入った時、遺跡の守護者みたいな謎めいた存在がいたの。そいつのせいで大勢が負傷して、いったん離脱したのよ」
「守護者? いったい、どんな?」
「……巨大な蟲がいたんですって」
「……え?」
「正確には、蟲のように動くなにかね。形は人間みたいだったけど、手足が異様に長かったそうよ。全身を布で覆ってたせいで正体は不明だけど、明らかに人間には不可能な動きをしていたみたいだから、巨大な絡繰人形みたいなものじゃないかしら」
「に、人形が勝手に動いてるんですか?」
「あっても不思議はないわ。人形師はパペットを魔法で動かすし、天軍の操槍術なんかも原理は似たようなものね。手を離れた物を動かす魔法はそこまで珍しくないわ」
「ですが、あれはいずれも送り込んだマナの限り動くだけで、操り手がいないのに動き続けることは……」
「だからこそ、調べる価値があるのよ。……あなたなら分かるでしょ?」
「調べる価値……?」
シルフィは一度、コーヒーに手を伸ばして、話を切った。
「……おそらくは詠唱者の存在にかかわらず、勝手に発動すると思われる魔法……つまり、詠唱破棄の、あるいはそれに代わる、なんらかの手がかりがあるかもしれないわ」
「……あ」
シルフィの予想に、クローディアが目を見開く。
そうだ。もしシルフィの言った通りなら、その蟲は操者が不在にも関わらず動いていることになる。……魔法の詠唱なしで、源であるマナを切らすこともなく。
「どういう理屈か分からないし、結果的に詠唱破棄とは何の関係もないかもしれない。でも、明らかに私たちの魔法とは別の原理に従って発動している魔法の可能性が高いわ」
「それだけでも、調査する理由としては十分ですね」
「ええ。―――それで、今日の相談っていうのは、その調査隊の護衛のこと。3日後、私は調査隊を連れて、ライネル古砦跡の調査に向かうわ。そしてその護衛に、私はあなたを指名した。姫様からもあなたさえ良ければ問題ないと許可をもらったわ。……どうやらその蟲、団長格じゃないと抑えられそうにないのよね。先遣隊が潜った時、スフィーリアが両腕を犠牲にしないと部下を逃がせなかったくらいには強いらしいわ」
「―――ッ!? スフィーリアが、ですか……?」
シルフィの報告に、クローディアの表情が険しく曇る。
スフィーリア・ベルカ・カイゼルハート。昨年、騎士訓練校から聖痕騎士団へ入り、わずか1年でミネルヴァの補佐官へ登用された四大騎士家系の一つカイゼルハート家の才女。騎士としての実力はもちろん、頭脳も明晰。度胸と判断力にも優れ、すでに中核任務の指揮を任されるほど優秀な逸材だ。
それでも入団直後は、名門の誇りが強すぎて功を焦る頑なな一面や、輪を乱しやすい悪癖があり、騎士団上層部、特にカイルなどは「自分勝手が気張っても邪魔なだけだ」と手厳しい評価を下していた。だが、ミネルヴァの下についてからは、誰もが恐れる彼女の<矯正>を受けてすっかり丸くなった。
……両腕を失ってでも仲間を守り通そうとする気概を躊躇なく振り絞れるほどに。
「おそらく、あなたたち副団長以上じゃないと、少なくとも単身では抑えられないほどに強いと思って間違いないわ。つまり、それだけ危険な仕事になる。―――どう?」
問われるまでもなく、クローディアの答えは決まっていた。
「行きます。行かせてください」
その瞳には、輝きにも似た闘志が滾っていた。
シルフィは何かを察したのか、言葉は発さず、ただ頷いてクローディアに応えた。
「―――出発は、さっきも言ったけど3日後。あとで申請した護衛隊の名簿を、あなたの部屋に届けてもらうわ。食料とかの調達は全て終わってるから、そこは大丈夫。あと、スフィーリアは入院中だけど、もう面会できるから話も聞けるわ」
「はい。ありがとうございます」
その後、2人は仕事の話を打ち切り、他愛ない世間話とともに昼食を取った。クローディアには、シルフィがいつもより饒舌だった気がしたが、きっとスフィーリアの話を聞いてから顔が強張っていた自分を気遣ってくれたのだろう。
そう思うと、感謝以上に後ろめたさが胸を締めつけた。……自分はまだ弱い。誰かを守るはずのこの身を、誰かに守ってもらわなければならないほどに。
スフィーリアはライザと同期で、二人とも自分に憧れてくれて、どちらが先に自分の補佐官になるかを競っていた。そしてライザの配属が決まった日、スフィーリアは一人、誰もいない宵時の闘技場で、大声で泣き腫らした。―――誰よりも誇り高く、たとえ人目がなくとも決して弱さを顕わにしてこなかったスフィーリアが。
そのとき、たまたま闘技場にいて、現場の物陰で居合わせたクローディアは、それ以来、折りに触れて彼女を気遣うようになった。普段は厳しい表情を崩さないスフィーリアも、クローディアにだけは実の妹のように懐いてきた。……その度にライザが怒って、二人が喧嘩して、面倒臭いことにはなるのだが。
そんなスフィーリアは、たとえ直属の部下でなくとも、仕事で絡むことがなくとも、クローディアにとっても大切な妹のような存在だった。魔法の秘密を掴めるかもしれないという動機以上に、彼女を奮い立たせるほどには。
―――昼食後、クローディアはシルフィと別れると、執務室へ戻る前に別の場所へ寄った。騎士団の詰め所から少し離れたところにある騎士団専用の国営病院だ。
受付に用件を説明し、向かったのはシルフィに聞いた3階の病室。ノックすると「はい、どうぞ」と、凛とした品のある声が中から響いた。
部屋へ入ると、菫色の長い髪に兎耳のような紫色のリボンが印象的な少女が、寝台で体を起こしていた。スフィーリアだ。
「ク、クローディア様!?」
予期せぬ訪問者に面食らって、素っ頓狂な声を上げながらおろおろするスフィーリア。普段の気品と礼節を固めたような振る舞いは欠片もなく、クローディアの頬が思わず緩む。
「久しぶりね、スフィーリア。いま大丈夫だった?」
「あ、ええ……ですが、急にどうされたんですか?」
「シルフィ様からライネル古砦跡の件を聞いて、お見舞いにと思って。でも、元気そうでほっとしたわ」
「そうでしたか……わざわざ申し訳ありません。私が不甲斐ないばかりに……」
布団を掴んで瞳を瞑り、唇を噛みしめるスフィーリア。
クローディアは彼女に近づくと、その頭を笑顔で優しく撫でた。
「こういう時は『申し訳ありません』じゃなくて『ありがとうございます』だって教えたでしょ? 貴方の悪い癖よ」
「す、すみま……あ、ありがとうございます」
頬を赤く染め、恥ずかしそうに俯くスフィーリア。
クローディアは近くにあった椅子を引き寄せ、スフィーリアの横で腰を下ろした。
「それで、スフィーリア。大変なところ申し訳ないんだけど、一つ聞かせて欲しいことがあるの。貴方にとっては辛い記憶だろうから、気が引けるんだけど……」
「いえ、大丈夫です。あの《蟲》のことですよね」
毅然と答えるスフィーリア。シルフィから再探索の話を聞いていたのか、どうやらクローディアの質問を予想していたようだ。
「……ええ。いったいどういう相手だったの?」
「実は、私にも正直よく分からないんです……。灯りが少なくて相手の姿がよく見えなかった上、全身を黒い布で覆っていたので。―――ただ、明らかに人間ではありませんでした。異様に長い手足や、およそ人間に不可能な動き、なにより口から火を吐きました」
「ひ、火を吐いた?」
「はい。……正確には、火かどうか分かりませんが、石壁をいとも容易く溶かすほど凄まじい熱を持っていたことは確かです。かなり大きく躱しても制服が焦げ落ちるほどでした。……あり得ない話ですが、おそらく魔法としか考えられないかと……」
魔法で動いている生物が、自らの意志で魔法を使う……そんな話は聞いたことがない。魔法で操った人や人形を介して別の魔法を発動させる試みは過去に何度も試されたが、想像の過程を担保できず、いずれも失敗している。
操り手が不在にもかかわらず動き、自らの意志で魔法を放つ。およそ魔法の常識を外れた不気味な存在に、クローディアの表情も険しくなる。
いったいどんな原理で動いているというのか―――。
「……操者の姿は、あった?」
「……申し訳ありません。そこまで気を回す余裕がなく、確かなことは……。ただ、おそらくいなかったと思います」
念のため聞いてみたが、やはり操り手はいないようだ。
「そう、ありがとう。悪いわね、病み上がりにいろいろ聞いてしまって」
「いえ、とんでもありません。そ、その……クローディア様のためなら……」
「ん? なにか言った?」
赤い顔をうつむかせて、ぼそぼそ呟くスフィーリア。なにか言いたげな様子だったが……言葉の続きは突然の闖入者によって阻まれた。
「なぁにぃデレデレしとんじゃぁああぁぁあぁぁあぁぁぁああぁああぁあぁ!」
いきなり病室の窓を開けて飛び込んできた人影―――ライザは、鼻息を荒げながら寝台のスフィーリアに掴みかかろうとした。
彼女は、クローディアに言い寄ろうとしたり、妙に良い雰囲気になったりする者の気配を敏感に察知しては、こうしてどこからともなく乱入してその者を排除しようとする。特に、その相手がスフィーリアの場合は、殺意すら滾るほどだ。
……が、
「あぁあああぶふぇッッッ!?」
……当然、その襲撃を易々と許すクローディアではない。
彼女は、いつの間にか二人の間に割って入り、ライザの頭を右手で鷲掴みにしていた。普段の清楚で冷静な彼女からは、およそ考えられない鬼の形相で。
「……仕事を放り出しただけじゃなく、あまつさえ怪我人を襲撃するとか、いったいなにを考えているのかしら、ライザ?」
「いいぃいいぃぃ痛いです痛いです痛い痛い痛い痛い先輩ムリムリムリムリこのままだといろいろイッちゃいますイッちゃいますイギイイィィィイイィィイイイィイィィイイィィィイイイイィィイイィイィッッッッッ!!??」
奇天烈な悲鳴を発しながら必死に拘束を振りほどこうと、なぜか緩んだ表情で溺れたように藻掻くライザ。だが、クローディアに許すつもりは更々なかった。
彼女はライザの奇声も抵抗も無視して、窓際までそのまま引きずっていくと、
「―――出ていきなさい」
そのまま容赦なく、窓の外へ放り投げた。
「げぶんッ!?」と、地面から湿った声がした。
木竜月3日。
「―――このように国や部族にとって重要な位置を占めていたと思しき魔法は、その存在を秘匿するため、書籍や碑文に残す際は少し変わった細工が施されている場合があります」
クローディアは再び教鞭を取っていた。だが、今日は騎士訓練校ではなく、王立魔道研究所の一室だ。
王立魔道研究所は、魔法の研究拠点としてはもちろん、研究者の見習いを育成する役割も担っており、騎士訓練校と同様、在籍する研究者が後進を育てている。
クローディアは普段、研究所の教壇には立たないが、急きょ穴埋めで臨時講師を務めたり、彼女以外には難しい講義を担当したりすることがある。今回は後者だ。
教室に居並ぶ生徒は研究者の卵たち総勢百五〇人。だが、騎士訓練校の生徒たちの明るい雰囲気とは違い、彼らの表情は漏れなく硬い。少しも聞き逃すまいと鬼気迫る雰囲気すら感じさせる緊張感に満ちている。
その理由は、今回の講義「解読基礎論」の内容だった。クローディアが専任で担当する数少ない講義の一つで、研究者の見習いが最初にぶつかる壁として知られていた。
「たとえば《碧の剣》の詠唱が発見された時の詩文は、次のように一見なんの脈絡もない文字列で構成されていました」
クローディアは、白墨で黒板に不可解な文字列を書き綴っていく。
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qzgetefqjzfevimjyqfihpegjcvimtrfy
「な、なんだあれ?」「古語……だよね?」「だけど意味が全く通らないし、そもそも文節がないぞ?」「あれが詠唱文なの?」
見慣れない文字列を不思議そうに眺める生徒たち。
「クローディア様。それって、古語ですよね?」
生徒の一人がクローディアに尋ねると、彼女は「ええ、そうです」とあっさり頷く。
「これは本来の詠唱文の文字を、別の文字に置き換えています。並べてみると、分かりやすいでしょう」
クローディアは続けて、本来の詠唱文を隣に書き足した。
your name wind
your name cutting and judgement edge
your name Ariel
your pray soaring sky and crushing peak
「両者を対照すると、yがqに、oがzに、uがgに対応しています。このように別の文字に置き換えて本来の詠唱文を隠したわけですね。これから皆さんに身につけてもらうのは、このような正体を秘匿された文字列を元に戻す技術です」
「で、ですが、いったいどうやって……?」「手がかり、ないですよね?」
「それは今後の講義でお伝えしていきますが、一つは出現頻度です。たとえば、古語の単語にはaやeが多く使われ、逆にjやq、xなどは、ほとんど使われないことが分かっています。この事実から、何度も登場している秘匿文のfやrは、aやeの可能性が高いと判断できます。他にも、古語ではqの後ろは必ずuしか来ないので、ある秘匿文字の正体がqだと分かれば、その直後の秘匿文字の正体は、必然的にuと分かります。こうしたさまざまな手がかりを使いながら、元の文章を突き止めていくわけです」
クローディアは白墨を置くと、黒板に書いた文字を消していく。
「ですが、秘匿文字と元の文字が、いつもこうした一対一対応の関係にあるとは限りません。また、そもそも別の文字に置き換えて秘匿されるとも限りません。その一例として、一つの文字を複数の数字で置き換えるという特殊な秘匿法が確認されています」
続けてクローディアは、新たに黒板に妙な文字列を書き始めた。
a 10 23 31 40 49 62 71 82
b 37 61
c 21 64 73
d 11 27 39 51
e 2 30 41 50 63 70 74 78 83 89 96 99
f 34 55
g 22 60
「……え、なにあれ?」「どういうことですか?」
およそ理解が及ばない内容に、困惑する生徒たち。
「文字を別の文字に置き換えて秘匿する先ほどの方法は、文字の出現頻度という手がかりをどうしても残してしまいます。では、それを消すにはどうすればいいのか? その対策の一つとして編み出されたのが、この数字を使った秘匿法です。たとえば、1万文字の古語の本があった場合、その中にaは約800文字、eは約1200文字の頻度で現れることが分かっています。100文字に換算すれば、aは8文字、eは12文字ですね。そこで、aには8個の、eには12個の数字を割り振ります。そして、ある文を秘匿する時に、この割り振った数字を均等に使います。こうすることで、秘匿文中にはあらゆる数字がほぼ同じ割合で出現するようになるので、出現頻度を手がかりに解読するのは、ほぼ不可能になります」
「……あ、本当だ」「なるほど……」「……え、でも、そうなったら、どうやって解読すればいいの?」「ただ、数字が並ぶだけだよな。それこそ手がかりない気が……」
生徒たちに広がる驚きと疑問。
「その話は、また今度にしましょう。とにかく、こうした解読の技術は、古語の解読はもちろん他の言語、それこそ私たちが全く知らない言語で書かれた書物や碑文などの解読にも必要です。言い換えれば、この解読技術を身につけなければ、魔法研究者としてやっていけません。脅すわけではありませんが、それはしっかり覚えておいてください」
クローディアの言葉に生徒たちが気を入れ直したところで、12時の鐘が鳴った。講義終了の時間だ。
「……今日はここまでですね。次の時間は、最初に今日のおさらいを兼ねて簡単な試験をするので、復習を忘れないように。以上」
終了の号令と同時に、疲れ切った生徒たちが漏れなく大きな溜め息を漏らし、次々と机に倒れ伏していった。全員、漏れなく疲労困憊といった様子で、これから昼食休憩の時間だというのに、ほとんどの生徒が椅子から立ち上がろうとしない。
もっとも、無理もないだろう。「解読基礎論」をはじめとする古語解読に絡んだ講義は、時に現役の研究員ですら音を上げるほど難解な内容で知られ、毎年多くの生徒が苦しむ。時には研究者の道を諦める者も出るほどだ。
それでもクローディアの講義は分かりやすいと生徒たちに評判で、彼女が担当して以降は、脱落者は出なくなった。
だが、クローディア以外で満足に担当できるのは、今のところシルフィしかおらず、その彼女は発掘の最前線に立つため国を空けることが多い。よって、実質クローディアが一人で回していた。解読は魔法の発掘において最も重要な技術のため、この事態は望ましくなかったが、他の指導者がなかなか育たないのが現状だ。
(来週、みんなちゃんと来るといいけど……)
教壇で資料を片しながら、それとなく生徒たちの様子を窺うクローディア。他の講義とは違い、古語解読の講義だけは終わった後、いつも生徒たちの反応を心配していた。
だが、人手不足を恐れて脱落者を出すまいと講義を甘くしても、技術を持たない研究者が生まれるだけだ。研究者の質と量は、どちらを優先すべきかという問題ではない。どちらも等しく満たすべきである以上、そのために自分たち指導者側にさらなる研鑽が求められる。
資料を手に教室を出て、自分の研究室へ足を向けるクローディア。すると、誰かが「お疲れさま」と彼女の背中に声をかけた。
クローディアが後ろを振り向くと、立っていたのはシルフィだった。
「シルフィ様、どうされたんですか?」
少し逸る鼓動を抑え、落ち着いて尋ねるクローディア。
「ちょっと話、というかお願いがあってね。一緒にお昼がてら相談させてもらえないかと思って。このあと時間ある?」
「あ、はい。大丈夫です」
二人はいったんクローディアの研究室へ向かって講義の資料を戻し、そのあとシルフィの提案で研究所内の食堂へ向かった。
王立魔道研究所は、騎士団の詰め所から南へ少し歩いた小高い丘の上にある。その敷地は四方1キロメドルを超えるほど広大で、四隅に4本の巨大な塔が立っていた。それぞれに研究者たちの研究室や講義室などがあり、その各塔から等距離にあたる広大な中庭には、図書館や食堂などの共用施設が置かれている。
二人は食堂へ入ると窓際の席に着席。注文を取りに来た店員にサンドイッチとスープ、コーヒーを頼むと、シルフィが口を開いた。
「それにしても、あなたも大変ね。研究所の講義まで受け持つなんて。まぁ、あなたの解読技術はずば抜けてるし説明も上手いから、みんなが頼るのもわからなくはないけど」
「シルフィ様のおかげです。それにたいした負担ではありません」
クローディアの暗号解読技術は、もともと周りの研究員と一線を画する技量だったが、シルフィの教えを受けてからさらに磨きがかかった。結果、古語解読に関しては、講義に実務にと彼女を頼る者が多い。
「うーん。そう言ってくれるのはありがたいけど、もうちょっと他の研究員にも頑張ってもらいたいところなんだけど……」
「気になさらないでください。むしろシルフィ様のおかげで、状況は以前からずいぶん変わりました。感謝しかありません」
申し訳なさそうに頬をかくシルフィに対し、クローディアの表情は明るかった。
実際、シルフィの尽力は目覚ましい。彼女が来る前、クローディアが担当していた講義は5を数え、騎士訓練校の講義と併せると10を超えた。当時、研究員の評価項目は大部分を研究関連が占め、故に多くの研究員が後進育成に及び腰だった。
そうした育成を阻む仕組みを作り変えるため、各所へ根回しするなど奔走してくれたのがシルフィだった。それだけでなく、講義体系の見直しや指導者の育成にも注力し、以前より遥かに整った研究所の体制を築き上げてくれた。
「そう言ってもらえると、ありがたいわ。……っと、ごめんなさい、話が逸れたわね。本題いいかしら?」
「はい」
シルフィはクローディアの同意が取れると、スープを口にしてから静かに話を切り出した。
「―――ライネル古砦跡、知ってるわよね?」
「《ライネル戦役》で使われた砦ですよね?」
ライネル古砦跡。遥か昔、東の隣国チャダルクと、その同盟国であるマルディア、そしてルーデンスの連合軍が、イングリッドと空白地帯だったライネル地方の領有権をめぐって戦争になった。その《ライネル戦役》の際、聖痕騎士団が拠点とした古くから残る城砦だ。
当時すでに廃墟と化していたが、四方3キロメドルに及ぶ巨大な砦は、一時的な野営地として十分な機能を発揮した。地上50メドルを超える中央の尖塔は数キロメドル先の敵襲も容易に察知し、《大迷宮》と呼ばれた迷路を思わせる複雑な造りは騎士たちに安息をもたらした。
「そう。あの《大迷宮》ね。実は最近、あそこの調査を進めてたの。ちょっと気になることがあってね」
「気になること?」
「少し前なんだけど、古戦記を漁ってたら、砦の地下に大量の抜け道があったと思しき記述が散見されたの。たぶん敵に気づかれずに逃げたり、裏をついたりするために用意されたものだと思うんだけど、どうにも妙なところがあったのよ」
「妙なところ?」
「気になって砦の復元予想図を作ってみたんだけど、そこに文献に残っていた地下通路を書き起こしたら、ちょうど中央の尖塔の真下あたりだけ、なんにもなかったの。ぽっかり四方500メドルくらいの空間が空いてる感じね」
「空間……壕舎のようなものでしょうか?」
「まだなんとも言えないけど、先遣隊から明らかに人の手で造られた通路みたいなものがあったって報告が入ったから、その可能性はありそうね。……ただ、ちょっと問題もあってね」
「問題?」
「ええ。実は先遣隊が地下に入った時、遺跡の守護者みたいな謎めいた存在がいたの。そいつのせいで大勢が負傷して、いったん離脱したのよ」
「守護者? いったい、どんな?」
「……巨大な蟲がいたんですって」
「……え?」
「正確には、蟲のように動くなにかね。形は人間みたいだったけど、手足が異様に長かったそうよ。全身を布で覆ってたせいで正体は不明だけど、明らかに人間には不可能な動きをしていたみたいだから、巨大な絡繰人形みたいなものじゃないかしら」
「に、人形が勝手に動いてるんですか?」
「あっても不思議はないわ。人形師はパペットを魔法で動かすし、天軍の操槍術なんかも原理は似たようなものね。手を離れた物を動かす魔法はそこまで珍しくないわ」
「ですが、あれはいずれも送り込んだマナの限り動くだけで、操り手がいないのに動き続けることは……」
「だからこそ、調べる価値があるのよ。……あなたなら分かるでしょ?」
「調べる価値……?」
シルフィは一度、コーヒーに手を伸ばして、話を切った。
「……おそらくは詠唱者の存在にかかわらず、勝手に発動すると思われる魔法……つまり、詠唱破棄の、あるいはそれに代わる、なんらかの手がかりがあるかもしれないわ」
「……あ」
シルフィの予想に、クローディアが目を見開く。
そうだ。もしシルフィの言った通りなら、その蟲は操者が不在にも関わらず動いていることになる。……魔法の詠唱なしで、源であるマナを切らすこともなく。
「どういう理屈か分からないし、結果的に詠唱破棄とは何の関係もないかもしれない。でも、明らかに私たちの魔法とは別の原理に従って発動している魔法の可能性が高いわ」
「それだけでも、調査する理由としては十分ですね」
「ええ。―――それで、今日の相談っていうのは、その調査隊の護衛のこと。3日後、私は調査隊を連れて、ライネル古砦跡の調査に向かうわ。そしてその護衛に、私はあなたを指名した。姫様からもあなたさえ良ければ問題ないと許可をもらったわ。……どうやらその蟲、団長格じゃないと抑えられそうにないのよね。先遣隊が潜った時、スフィーリアが両腕を犠牲にしないと部下を逃がせなかったくらいには強いらしいわ」
「―――ッ!? スフィーリアが、ですか……?」
シルフィの報告に、クローディアの表情が険しく曇る。
スフィーリア・ベルカ・カイゼルハート。昨年、騎士訓練校から聖痕騎士団へ入り、わずか1年でミネルヴァの補佐官へ登用された四大騎士家系の一つカイゼルハート家の才女。騎士としての実力はもちろん、頭脳も明晰。度胸と判断力にも優れ、すでに中核任務の指揮を任されるほど優秀な逸材だ。
それでも入団直後は、名門の誇りが強すぎて功を焦る頑なな一面や、輪を乱しやすい悪癖があり、騎士団上層部、特にカイルなどは「自分勝手が気張っても邪魔なだけだ」と手厳しい評価を下していた。だが、ミネルヴァの下についてからは、誰もが恐れる彼女の<矯正>を受けてすっかり丸くなった。
……両腕を失ってでも仲間を守り通そうとする気概を躊躇なく振り絞れるほどに。
「おそらく、あなたたち副団長以上じゃないと、少なくとも単身では抑えられないほどに強いと思って間違いないわ。つまり、それだけ危険な仕事になる。―――どう?」
問われるまでもなく、クローディアの答えは決まっていた。
「行きます。行かせてください」
その瞳には、輝きにも似た闘志が滾っていた。
シルフィは何かを察したのか、言葉は発さず、ただ頷いてクローディアに応えた。
「―――出発は、さっきも言ったけど3日後。あとで申請した護衛隊の名簿を、あなたの部屋に届けてもらうわ。食料とかの調達は全て終わってるから、そこは大丈夫。あと、スフィーリアは入院中だけど、もう面会できるから話も聞けるわ」
「はい。ありがとうございます」
その後、2人は仕事の話を打ち切り、他愛ない世間話とともに昼食を取った。クローディアには、シルフィがいつもより饒舌だった気がしたが、きっとスフィーリアの話を聞いてから顔が強張っていた自分を気遣ってくれたのだろう。
そう思うと、感謝以上に後ろめたさが胸を締めつけた。……自分はまだ弱い。誰かを守るはずのこの身を、誰かに守ってもらわなければならないほどに。
スフィーリアはライザと同期で、二人とも自分に憧れてくれて、どちらが先に自分の補佐官になるかを競っていた。そしてライザの配属が決まった日、スフィーリアは一人、誰もいない宵時の闘技場で、大声で泣き腫らした。―――誰よりも誇り高く、たとえ人目がなくとも決して弱さを顕わにしてこなかったスフィーリアが。
そのとき、たまたま闘技場にいて、現場の物陰で居合わせたクローディアは、それ以来、折りに触れて彼女を気遣うようになった。普段は厳しい表情を崩さないスフィーリアも、クローディアにだけは実の妹のように懐いてきた。……その度にライザが怒って、二人が喧嘩して、面倒臭いことにはなるのだが。
そんなスフィーリアは、たとえ直属の部下でなくとも、仕事で絡むことがなくとも、クローディアにとっても大切な妹のような存在だった。魔法の秘密を掴めるかもしれないという動機以上に、彼女を奮い立たせるほどには。
―――昼食後、クローディアはシルフィと別れると、執務室へ戻る前に別の場所へ寄った。騎士団の詰め所から少し離れたところにある騎士団専用の国営病院だ。
受付に用件を説明し、向かったのはシルフィに聞いた3階の病室。ノックすると「はい、どうぞ」と、凛とした品のある声が中から響いた。
部屋へ入ると、菫色の長い髪に兎耳のような紫色のリボンが印象的な少女が、寝台で体を起こしていた。スフィーリアだ。
「ク、クローディア様!?」
予期せぬ訪問者に面食らって、素っ頓狂な声を上げながらおろおろするスフィーリア。普段の気品と礼節を固めたような振る舞いは欠片もなく、クローディアの頬が思わず緩む。
「久しぶりね、スフィーリア。いま大丈夫だった?」
「あ、ええ……ですが、急にどうされたんですか?」
「シルフィ様からライネル古砦跡の件を聞いて、お見舞いにと思って。でも、元気そうでほっとしたわ」
「そうでしたか……わざわざ申し訳ありません。私が不甲斐ないばかりに……」
布団を掴んで瞳を瞑り、唇を噛みしめるスフィーリア。
クローディアは彼女に近づくと、その頭を笑顔で優しく撫でた。
「こういう時は『申し訳ありません』じゃなくて『ありがとうございます』だって教えたでしょ? 貴方の悪い癖よ」
「す、すみま……あ、ありがとうございます」
頬を赤く染め、恥ずかしそうに俯くスフィーリア。
クローディアは近くにあった椅子を引き寄せ、スフィーリアの横で腰を下ろした。
「それで、スフィーリア。大変なところ申し訳ないんだけど、一つ聞かせて欲しいことがあるの。貴方にとっては辛い記憶だろうから、気が引けるんだけど……」
「いえ、大丈夫です。あの《蟲》のことですよね」
毅然と答えるスフィーリア。シルフィから再探索の話を聞いていたのか、どうやらクローディアの質問を予想していたようだ。
「……ええ。いったいどういう相手だったの?」
「実は、私にも正直よく分からないんです……。灯りが少なくて相手の姿がよく見えなかった上、全身を黒い布で覆っていたので。―――ただ、明らかに人間ではありませんでした。異様に長い手足や、およそ人間に不可能な動き、なにより口から火を吐きました」
「ひ、火を吐いた?」
「はい。……正確には、火かどうか分かりませんが、石壁をいとも容易く溶かすほど凄まじい熱を持っていたことは確かです。かなり大きく躱しても制服が焦げ落ちるほどでした。……あり得ない話ですが、おそらく魔法としか考えられないかと……」
魔法で動いている生物が、自らの意志で魔法を使う……そんな話は聞いたことがない。魔法で操った人や人形を介して別の魔法を発動させる試みは過去に何度も試されたが、想像の過程を担保できず、いずれも失敗している。
操り手が不在にもかかわらず動き、自らの意志で魔法を放つ。およそ魔法の常識を外れた不気味な存在に、クローディアの表情も険しくなる。
いったいどんな原理で動いているというのか―――。
「……操者の姿は、あった?」
「……申し訳ありません。そこまで気を回す余裕がなく、確かなことは……。ただ、おそらくいなかったと思います」
念のため聞いてみたが、やはり操り手はいないようだ。
「そう、ありがとう。悪いわね、病み上がりにいろいろ聞いてしまって」
「いえ、とんでもありません。そ、その……クローディア様のためなら……」
「ん? なにか言った?」
赤い顔をうつむかせて、ぼそぼそ呟くスフィーリア。なにか言いたげな様子だったが……言葉の続きは突然の闖入者によって阻まれた。
「なぁにぃデレデレしとんじゃぁああぁぁあぁぁあぁぁぁああぁああぁあぁ!」
いきなり病室の窓を開けて飛び込んできた人影―――ライザは、鼻息を荒げながら寝台のスフィーリアに掴みかかろうとした。
彼女は、クローディアに言い寄ろうとしたり、妙に良い雰囲気になったりする者の気配を敏感に察知しては、こうしてどこからともなく乱入してその者を排除しようとする。特に、その相手がスフィーリアの場合は、殺意すら滾るほどだ。
……が、
「あぁあああぶふぇッッッ!?」
……当然、その襲撃を易々と許すクローディアではない。
彼女は、いつの間にか二人の間に割って入り、ライザの頭を右手で鷲掴みにしていた。普段の清楚で冷静な彼女からは、およそ考えられない鬼の形相で。
「……仕事を放り出しただけじゃなく、あまつさえ怪我人を襲撃するとか、いったいなにを考えているのかしら、ライザ?」
「いいぃいいぃぃ痛いです痛いです痛い痛い痛い痛い先輩ムリムリムリムリこのままだといろいろイッちゃいますイッちゃいますイギイイィィィイイィィイイイィイィィイイィィィイイイイィィイイィイィッッッッッ!!??」
奇天烈な悲鳴を発しながら必死に拘束を振りほどこうと、なぜか緩んだ表情で溺れたように藻掻くライザ。だが、クローディアに許すつもりは更々なかった。
彼女はライザの奇声も抵抗も無視して、窓際までそのまま引きずっていくと、
「―――出ていきなさい」
そのまま容赦なく、窓の外へ放り投げた。
「げぶんッ!?」と、地面から湿った声がした。