本編
帰還した三人は、いったんクローディアの執務室へ戻り、そこで明日以降の予定を共有。その後、アルは初日ということで、早めに退勤となった。
彼が執務室を去った後、クローディアはライザに森での一幕について小一時間ほど説教。罰として、予定していた夕方の鍛錬である自分との模擬戦を倍に増やし、徹底的に絞った。
―――そうして忙しくしている間に、気がつけば夜。
クローディアは、なぜか自宅に帰ることなく、闘技場に来ていた。
武舞台の一つに上がった彼女は、その上に一枚の紙を置いていた。血文字を思わせるいくつもの赤い古語が刻まれた不思議な紙だ。
(……あとは)
すると彼女は、持ってきた羽ペンとインクを使い、紙に古語を一つ書き足した。
(……)
書き終えた彼女は、少し紙から離れると、紙の中心を見つめたまま微動だにしない。まるでなにかの到来を待ち望むかのような神妙な面持ちは、期待と不安が入り混じったような、複雑な色をしていた。
―――1分ほど経ったところで、クローディアは至極残念そうに溜め息を吐いた。
「……これも、だめね」
そう呟く横顔は、心底から残念そうな悲痛に満ちていた。
(……詠唱文を口にしながらマナを込めると、魔法が発動する。それなら、マナが宿るといわれる血液で紙に詠唱を書いても、発動できると思ったけど……)
彼女が試していたのは、詠唱を伴わない魔法の発動実験だった。紙に刻まれていたのは、彼女の血液で書かれた、アリエル神の魔法の詠唱だ。
だが、その試みは徒労に終わった。
「……はぁ」
疲れからか、武舞台に仰向けに横たわり、天を眺めるクローディア。
天空には、透き通るような美しい夜空が広がり、星々が所狭しと輝いている。
(でも、当然ね。魔法の鍵は、詠唱とマナと想像。詠唱が神との対話を開き、マナと想像した魔法の思念をもとに、神より魔法を授かる。なら、想像に当たる要素がないといけない……)
そう。彼女も分かってはいたのだ。こんなこども騙しが成功するはずなどない、と。
だが、それでも一縷の望みを託して試さずにはいられないほど、今の聖痕騎士団には余裕がない。明日にもどこかの防衛拠点が落ちて、国が窮地に陥る可能性は大いにある。
(他の研究者は、地道に発掘作業を強化して、強力な魔法が発見されるのを期待するしかないって言うけど、これまで見つかった魔法を振り返っても、一気に劣勢を引っくり返せる可能性は低い。なんとしてでも、この方向で成果を出さないと……)
湧き上がりかけた無力感を、クローディアは瞳を固く閉じて無理やり押し潰す。
ふと、アルのことが頭を過ぎった。おそらくは彼女が追い求める詠唱破棄を、あるいは同様の効果をもたらすなんらかの手段を使いこなす不思議な青年。
ここはやはり、頭を下げてでも彼に秘密を請うべきか……。
(―――あんたみたいに綺麗なやつは)
「!?!?!?!?!?!?!?」
彼の名前を思い浮かべた途端、昼の一幕が脳裏を霞めた。それまで心地よくすらあった夜風が温く感じられるほど、顔がひどい熱を持つ。
クローディアは反射的に上半身を起こすと、頭を左右に激しく振ったり、頬を両手で叩いたりしながら、必死に雑念を飛ばそうとする。
「一人でなーに面白いことしてるの?」
そんな彼女のもとへ、一人の予期せぬ訪問者がやってきた。
シルフィだ。
「シ、シルフィ様?」
「どうしたの、こんな時間に闘技場なんかにこもって。まさかここで夜を明かすつもりじゃないわよね? ……それは?」
クローディアのもとまで来ると、シルフィは寄り添うように、隣に腰を下ろした。
「あ、えっと……少し試したいことがありまして。人がいる場所だと危険なので……」
「試したいこと?」
クローディアは、自身の仮説をシルフィに説明した。
「……なるほどね。確かに詠唱と同じ要素を紙の上に用意できれば、原理が同じ以上、魔法は発動してもおかしくないわね。でも、紙は人と違って想像を働かせることはできない」
「ええ……。それと同じ要素を紙の上でなんとか再現する必要があるんですけど……」
「用意しようにもできない、と」
シルフィの言葉に頷くクローディア。
二人の間に沈黙がたちこめる。クローディアは何を考えるでもなく、ただ茫然と膝を抱え、地面の一点を見つめていた。
―――と。
「……良い線、いってるかもしれないわね」
「え?」
欠片も予期しなかったシルフィの一言に、クローディアは思わず頭を上げた。
「実は、あなたに詠唱破棄の話を聞いてから、私も自分でいろいろ考えててね。これはまだ根拠もなにもない話だけど、私は、詠唱を鍵、マナを対価、魔法の思念を設計図のようなものじゃないかなって思ってるの」
「……設計図、ですか?」
「要は、鍵を開けて神との対話を開いて、設計図を見せて『この魔法を貸して下さい』って頼む。その対価としてマナを渡す。これが魔法の仕組みなんじゃないかってこと。だから、その魔法の設計図さえ手に入れば、紙の上で魔法を発現できるんじゃないかしら」
「で、ですが、設計図といっても、仮にあったとして、いったいどんな……」
「たとえば、神話の一場面を描いた絵画なんかには、魔法と思しき力を使っている光景が見られるわ。それらを探れば、あるいは手がかりが得られるかもしれない」
「……というと?」
「いくつもの古の絵画や壁画で同じような描かれ方をしていた場合、その共通点がその魔法の根幹たる特徴……つまり設計を図示した結果なのかもしれない。それを詠唱文と一緒に描いてみるとか」
「な、なるほど」
「まぁ、そもそも魔法の仕組みが本当にそうならの話だけどね」
とぼけたように笑うシルフィ。
だが、確かに机上の空論めいた話ではあるが、理屈の上では納得できた。実際、古の絵画や壁画の類いには、超常的な儀式の一端を担ったものも多い。たとえば、西の小国ノースタリアにある人型の地上絵は神を模したものといわれており、建国の祖である初代国王シーザーが類似性を軸にその絵から神を召喚し、力を借りて一代で国を成したと伝わる。
これまでは話が大き過ぎて空想の産物と切って捨ててきたが、あるいは事実だったのか。そうとなれば、明日からは王立図書館で絵画や壁画の歴史を調べてみようか……クローディアは明日以降の研究方針をさっそく練り直す。
―――その時だった。
「…………、―――――――――ッ!?」
突如、殺気めいた気配を感じたクローディア。
だが、気づいた時には遅かった。
咄嗟に立ち上がって後ろを振り返ると、夜空の彼方から目にも留まらぬ速さで何かが飛来。
それは一瞬で二人の目前まで迫り、今まさに隣のシルフィを貫こうとしていた。
「シルフィ様っ!」
反射的に叫ぶことしかできなかった、クローディア。
だが次の瞬間、飛来した何かはシルフィに当たる寸前、輝く壁のようなものに衝突。砕け散るように弾け飛び、一瞬で霧散した。
「……はぁ。相変わらず多いわね」
クローディアの不安と驚きをよそに、当のシルフィは平静どころか、謎の襲撃に溜め息を零して呆れていた。さながら、日常茶飯事だと言わんばかりに。
「シ、シルフィ様! 怪我は!?」
「大丈夫よ。大陸で名が売れ始めた頃から、こういう不意打ちは意外と多くてね。いつも念のため結界魔法を張ってるの。でも、王都の中で狙われるのは初めてね」
「……心当たりは、あるんですか?」
「むしろあり過ぎて絞れないわ。私がイングリッドの客将に座ったのが気に入らない他国の刺客。昔、仕事を奪う形になった流れの魔法研究者。挙げ出すと切りがないわね」
「当直に伝えて、すぐに調べてもらいます」
「大丈夫よ。たぶん捕まらないしね。明日、私から姫様に伝えておくわ。それより……」
シルフィはクローディアに向かって左手を伸ばすと、その右頬に優しく触れた。
予期せぬ展開と、吐息すら感じられそうな距離感に、クローディアは堪らず赤面して視線を逸らす。
「あなたは早く帰って休みなさい。このところ無理してるでしょ? 顔に出てるわよ」
「で、ですが……」
「あなたが倒れたら、元も子もないわ。だから無理はしないこと。いいわね?」
「……わ、わかりました」
二人はその後、闘技場を後にし、外に出たところで別れた。クローディアはシルフィに自宅までついていくと言ったが、やはり「大丈夫よ」と優しく固辞された。
一人になり、まだ賑わいの残る夜の雑踏の中を家路につくクローディア。
だが、その脳裏からは襲撃者のことが離れなかった。
国内屈指の実力を誇るクローディアですら対処できなかった一撃を放った、謎の刺客。
あれは、いったい何者だったのか……。
彼が執務室を去った後、クローディアはライザに森での一幕について小一時間ほど説教。罰として、予定していた夕方の鍛錬である自分との模擬戦を倍に増やし、徹底的に絞った。
―――そうして忙しくしている間に、気がつけば夜。
クローディアは、なぜか自宅に帰ることなく、闘技場に来ていた。
武舞台の一つに上がった彼女は、その上に一枚の紙を置いていた。血文字を思わせるいくつもの赤い古語が刻まれた不思議な紙だ。
(……あとは)
すると彼女は、持ってきた羽ペンとインクを使い、紙に古語を一つ書き足した。
(……)
書き終えた彼女は、少し紙から離れると、紙の中心を見つめたまま微動だにしない。まるでなにかの到来を待ち望むかのような神妙な面持ちは、期待と不安が入り混じったような、複雑な色をしていた。
―――1分ほど経ったところで、クローディアは至極残念そうに溜め息を吐いた。
「……これも、だめね」
そう呟く横顔は、心底から残念そうな悲痛に満ちていた。
(……詠唱文を口にしながらマナを込めると、魔法が発動する。それなら、マナが宿るといわれる血液で紙に詠唱を書いても、発動できると思ったけど……)
彼女が試していたのは、詠唱を伴わない魔法の発動実験だった。紙に刻まれていたのは、彼女の血液で書かれた、アリエル神の魔法の詠唱だ。
だが、その試みは徒労に終わった。
「……はぁ」
疲れからか、武舞台に仰向けに横たわり、天を眺めるクローディア。
天空には、透き通るような美しい夜空が広がり、星々が所狭しと輝いている。
(でも、当然ね。魔法の鍵は、詠唱とマナと想像。詠唱が神との対話を開き、マナと想像した魔法の思念をもとに、神より魔法を授かる。なら、想像に当たる要素がないといけない……)
そう。彼女も分かってはいたのだ。こんなこども騙しが成功するはずなどない、と。
だが、それでも一縷の望みを託して試さずにはいられないほど、今の聖痕騎士団には余裕がない。明日にもどこかの防衛拠点が落ちて、国が窮地に陥る可能性は大いにある。
(他の研究者は、地道に発掘作業を強化して、強力な魔法が発見されるのを期待するしかないって言うけど、これまで見つかった魔法を振り返っても、一気に劣勢を引っくり返せる可能性は低い。なんとしてでも、この方向で成果を出さないと……)
湧き上がりかけた無力感を、クローディアは瞳を固く閉じて無理やり押し潰す。
ふと、アルのことが頭を過ぎった。おそらくは彼女が追い求める詠唱破棄を、あるいは同様の効果をもたらすなんらかの手段を使いこなす不思議な青年。
ここはやはり、頭を下げてでも彼に秘密を請うべきか……。
(―――あんたみたいに綺麗なやつは)
「!?!?!?!?!?!?!?」
彼の名前を思い浮かべた途端、昼の一幕が脳裏を霞めた。それまで心地よくすらあった夜風が温く感じられるほど、顔がひどい熱を持つ。
クローディアは反射的に上半身を起こすと、頭を左右に激しく振ったり、頬を両手で叩いたりしながら、必死に雑念を飛ばそうとする。
「一人でなーに面白いことしてるの?」
そんな彼女のもとへ、一人の予期せぬ訪問者がやってきた。
シルフィだ。
「シ、シルフィ様?」
「どうしたの、こんな時間に闘技場なんかにこもって。まさかここで夜を明かすつもりじゃないわよね? ……それは?」
クローディアのもとまで来ると、シルフィは寄り添うように、隣に腰を下ろした。
「あ、えっと……少し試したいことがありまして。人がいる場所だと危険なので……」
「試したいこと?」
クローディアは、自身の仮説をシルフィに説明した。
「……なるほどね。確かに詠唱と同じ要素を紙の上に用意できれば、原理が同じ以上、魔法は発動してもおかしくないわね。でも、紙は人と違って想像を働かせることはできない」
「ええ……。それと同じ要素を紙の上でなんとか再現する必要があるんですけど……」
「用意しようにもできない、と」
シルフィの言葉に頷くクローディア。
二人の間に沈黙がたちこめる。クローディアは何を考えるでもなく、ただ茫然と膝を抱え、地面の一点を見つめていた。
―――と。
「……良い線、いってるかもしれないわね」
「え?」
欠片も予期しなかったシルフィの一言に、クローディアは思わず頭を上げた。
「実は、あなたに詠唱破棄の話を聞いてから、私も自分でいろいろ考えててね。これはまだ根拠もなにもない話だけど、私は、詠唱を鍵、マナを対価、魔法の思念を設計図のようなものじゃないかなって思ってるの」
「……設計図、ですか?」
「要は、鍵を開けて神との対話を開いて、設計図を見せて『この魔法を貸して下さい』って頼む。その対価としてマナを渡す。これが魔法の仕組みなんじゃないかってこと。だから、その魔法の設計図さえ手に入れば、紙の上で魔法を発現できるんじゃないかしら」
「で、ですが、設計図といっても、仮にあったとして、いったいどんな……」
「たとえば、神話の一場面を描いた絵画なんかには、魔法と思しき力を使っている光景が見られるわ。それらを探れば、あるいは手がかりが得られるかもしれない」
「……というと?」
「いくつもの古の絵画や壁画で同じような描かれ方をしていた場合、その共通点がその魔法の根幹たる特徴……つまり設計を図示した結果なのかもしれない。それを詠唱文と一緒に描いてみるとか」
「な、なるほど」
「まぁ、そもそも魔法の仕組みが本当にそうならの話だけどね」
とぼけたように笑うシルフィ。
だが、確かに机上の空論めいた話ではあるが、理屈の上では納得できた。実際、古の絵画や壁画の類いには、超常的な儀式の一端を担ったものも多い。たとえば、西の小国ノースタリアにある人型の地上絵は神を模したものといわれており、建国の祖である初代国王シーザーが類似性を軸にその絵から神を召喚し、力を借りて一代で国を成したと伝わる。
これまでは話が大き過ぎて空想の産物と切って捨ててきたが、あるいは事実だったのか。そうとなれば、明日からは王立図書館で絵画や壁画の歴史を調べてみようか……クローディアは明日以降の研究方針をさっそく練り直す。
―――その時だった。
「…………、―――――――――ッ!?」
突如、殺気めいた気配を感じたクローディア。
だが、気づいた時には遅かった。
咄嗟に立ち上がって後ろを振り返ると、夜空の彼方から目にも留まらぬ速さで何かが飛来。
それは一瞬で二人の目前まで迫り、今まさに隣のシルフィを貫こうとしていた。
「シルフィ様っ!」
反射的に叫ぶことしかできなかった、クローディア。
だが次の瞬間、飛来した何かはシルフィに当たる寸前、輝く壁のようなものに衝突。砕け散るように弾け飛び、一瞬で霧散した。
「……はぁ。相変わらず多いわね」
クローディアの不安と驚きをよそに、当のシルフィは平静どころか、謎の襲撃に溜め息を零して呆れていた。さながら、日常茶飯事だと言わんばかりに。
「シ、シルフィ様! 怪我は!?」
「大丈夫よ。大陸で名が売れ始めた頃から、こういう不意打ちは意外と多くてね。いつも念のため結界魔法を張ってるの。でも、王都の中で狙われるのは初めてね」
「……心当たりは、あるんですか?」
「むしろあり過ぎて絞れないわ。私がイングリッドの客将に座ったのが気に入らない他国の刺客。昔、仕事を奪う形になった流れの魔法研究者。挙げ出すと切りがないわね」
「当直に伝えて、すぐに調べてもらいます」
「大丈夫よ。たぶん捕まらないしね。明日、私から姫様に伝えておくわ。それより……」
シルフィはクローディアに向かって左手を伸ばすと、その右頬に優しく触れた。
予期せぬ展開と、吐息すら感じられそうな距離感に、クローディアは堪らず赤面して視線を逸らす。
「あなたは早く帰って休みなさい。このところ無理してるでしょ? 顔に出てるわよ」
「で、ですが……」
「あなたが倒れたら、元も子もないわ。だから無理はしないこと。いいわね?」
「……わ、わかりました」
二人はその後、闘技場を後にし、外に出たところで別れた。クローディアはシルフィに自宅までついていくと言ったが、やはり「大丈夫よ」と優しく固辞された。
一人になり、まだ賑わいの残る夜の雑踏の中を家路につくクローディア。
だが、その脳裏からは襲撃者のことが離れなかった。
国内屈指の実力を誇るクローディアですら対処できなかった一撃を放った、謎の刺客。
あれは、いったい何者だったのか……。