本編

◯神暦3917年 水龍月8日 魔道王国イングリッド 王都マルドゥーク

 翌日、クローディアは騎士団の詰め所、その執務室にいた。
 来る途中、闘技場の入り口には、すでに傭兵試験の合格者が貼り出されていた。まだ見に来ていた者はいなかったが、しばらくすれば一喜一憂で盛り上がる声が部屋まで届くだろう。
 合格者はこの後、一時的に宿を充てがわれて、しばし王都に滞在。その間に各地の分団から事前に回収した配置希望数などに応じて赴任先が決定され、各自出発となる。
 一方、特に優れた評価を得て正規の団員に推薦された者は、推薦した副団長と報酬などの条件を協議し、双方が合意すれば晴れて入団となる。

「せんぱーい。お連れしましたー」

 扉をノックする音と同時にライザの明るい声が響く。その協議のため、あの青年を宿まで迎えに行ってもらっていた。
 ドアの取っ手が静かに回されると、ライザの後ろから、あの青年が入ってきた。朝が弱いのか、眠そうに欠伸をしている。

「朝早くにお呼び立てして申し訳ありません。どうぞおかけください」
「どうも……」

 ソファーを勧めると、青年は手を挙げて礼に替え、ゆっくり腰を下ろした。
 クローディアも、その向かいに座る。ライザは、彼女の後ろに控えた。

「改めまして、アル・レイナードさん。道中でライザがお伝えしたかと思いますが、今回の傭兵試験の結果、私たちは貴方を正規の騎士団員として迎え入れたいと思っています」

 端的に本題を告げると、クローディアは間のテーブルに1枚の書類を置いた。契約書だ。
 青年―――アル・レイナードは、驚いた風もなく、すんなり書類を手に取った。
 クローディアが提示した条件は、報酬として月50万クラン相当の金貨。休暇は安息日。任務と合同訓練以外は自由行動だが、上官へ行動予定の共有は必須。任務は上官から通達。3ヵ月に一度、実力試験があり、不合格の場合は強制的に脱退。そして、しばらくは今の宿屋で暮らしてもらうが、準備が出来次第、詰め所の敷地内にある寮の一室を提供―――。

「……ただの一傭兵を登用するにしては、ずいぶん至れり尽くせりだな」
「騎士団の中では、ごく一般的な待遇です」
「上官っていうのは?」
「私です。貴方にはしばらく、私の直属として働いてもらいます」
「寮っていうのは、俺以外も入れるのか? 連れが一人いるんだが」

 彼の言葉で、クローディアもあの獣人の少女のことを思い出した。

「ええ、大丈夫です。あと、そこには書いてありませんが、今日から寮の準備ができるまでの宿の費用は全額こちらで負担します」
「ほんと、ずいぶんと高待遇だな」
「それだけ戦力の確保に苦慮している裏返しでしかありません。いかがでしょう?」

 クローディアの打診に、アルは考えることもなく答えを口にした。

「ああ。かまわない。もとより、こっちもそのつもりだから応募したんだしな」
「そうですか。ありがとうございます」
「ただ、一つだけ条件がある」
「条件?」

 無事に話がまとまり、安堵しかけたクローディアが、意外な申し出に目を見開く。

「敬語は止めてくれないか。正直やりにくい」

 意外な要望を前に、クローディアはしばし呆気に取られる。だが、特に問題はないので、そのまま承諾する。

「わかりました。……慣れるまで、時間はかかるかもしれないけど」

 早速、敬語を使ったのを少し恥ずかしがるクローディア。その様子がおかしかったのか、部屋に入ってから初めてアルが微笑んだ。

「じゃ、じゃあ、早速で申し訳ないんだけど、詰め所の中を案内しておくわ。廊下で待ってるから、制服に着替えたら外に来て。この部屋を使ってもらって構わないから」
「了解」

 クローディアの言葉を受けて、用意しておいた制服をライザがアルに手渡す。そして二人は一足先に執務室を後にして、廊下で彼の準備が終わるのをしばし待った。

「……それにしても、ずいぶん普通な人ですよね。《魔獣殺し》なんていうから、もっと大きくて強面の人を想像してたんですけど」

 待っている最中、ライザが小声で尋ねてきた。

「実力は噂を語るに申し分ないほどよ。少なくとも魔法に関しては、私より上ね」
「え……ほ、ほんとですか?」
「ええ」

 クローディアは廊下の窓から見える中庭を眺めながら、改めて昨日のアルとの一戦を振り返っていた。―――正確には、彼の魔法を。
 今回、彼を自分の直属にしたのは、クローディアの我が侭だった。
 あれほど貴重な戦力なら通常、最前線の要衝であり戦力が乏しくなったルヴァン関へ配置するのが妥当だ。だが、彼女はベルヴェリオに直談判し、彼が3ヵ月だけ自分の下に入るよう取り計らってもらった。
 目的はもちろん、彼の魔法の秘密を探るためだ。

(……あの人は、おそらく詠唱なしで魔法を発動する方法、あるいはそれと同等の方法を知っている。それが掴めれば、騎士団の防衛力を一気に上げられる)
「悪い。待たせた」

 声に振り返ると、制服姿のアルが執務室から出てきた。黒襟の白いシャツに黒のズボンというシンプルな格好だ。長袖が苦手なのか、袖は捲られている。

「サイズはどう?」
「上は大丈夫だが、下が少しだけ長いかな。勝手に詰めていいなら、宿でやるんだが」
「かまわないわ。じゃあ、行きましょう」

 クローディアの先導で、3人は詰め所の中を上から見て回る。
 詰め所はロの字型の3階建てで、3階は北棟にベルヴェリオやクローディアたち役付きの執務室、東棟と西棟に会議室、南棟に蔵書室がある。2階は北棟に食堂、東棟に談話室や娯楽室などの有閑施設、西棟と南棟に一時帰還した騎士の宿泊室。1階は、専属鍛冶師たちの作業場や資材保管室、室内訓練場、当直の勤務室など、さまざまな施設が入っている。

「そして、ここが中庭ね。といっても、特になにもないけど」

 最後に三人は、中庭に来ていた。広がる草地にいくつも花壇や樹木が植わっており、ここが王都内であることを忘れさせる自然の美しさにあふれている。

「私たちがよく使うのは、2階の食堂や1階の施設ね。あとは、訓練で隣の闘技場を使うくらいかしら。とりあえずこんな感じだけど、気になることはある?」
「闘技場は、勝手に使っていいのか?」
「騎士団員なら自由に使えるわ。ただ、傭兵試験や訓練校の鍛錬が優先されるから、そこだけ気をつけて」
「詰め所の施設は、連れは使えるのか?」

 アルの質問に、クローディアは一瞬、不思議そうな表情を浮かべた。

「連れって……あのとき背負ってた獣人の女の子よね?」

 念のため聞いてみると、彼は「ああ」と即答した。

「特に楽しいものはないと思うけど……いちおう問題はないわ」
「今まで森で暮らしてたやつだから、たまに自然が恋しくなるみたいでな。こういう場所があるなら、たまにはと思ってな」

 中庭を見回しながら、それまでと一転、やわらかい声で答えるアル。
 森で暮らしてたやつ―――その言葉から察するに、どうやら親類などではなさそうだ。あるいは旅路で道行きを共にするようになったのかもしれない。

「あら? もしかしてクローディア?」

 しばし中庭で時間を潰していると、背後から声をかけられた。透き通るような清楚な声だ。
 振り返ると、一人の女性がこちらへ向かって歩いてきた。紫色の髪を後ろの高い位置でまとめ、砂色のローブ調の衣装を全身に巻き、肩にケルブ族の伝統衣装であるカラフルな一枚布を羽織っている。その姿は、陶器のような白い肌とやわらかい笑顔、そして美しい紫紺の輝きを放つ慈愛に満ちた瞳もあいまって、さながら聖母を思わせた。

「シルフィ様、戻られてたんですか?」

 やや上ずった声でクローディアが呼びかける。
 シルフィ。世界を渡り歩く流浪の魔法研究者だ。これまでいくつもの伝承や碑文から数多の魔法を発見して世に広め、大陸中で英雄視されている。特に彼女がここ10数年で大半を掘り起こした治癒魔法は、明確な治療法のなかった多くの疫病から大陸中の人々を救ってきた。
 そんな彼女の功績を聞きつけたイングリッド王家は8年前、旅の途上で同国へ立ち寄った彼女を客将として召し抱えた。行き詰まった魔法の研究を前進させるためだ。

「昨日の夜にね。予定より調査が早く終わって」
「そうだったんですか。今日はどうして詰め所に?」
「姫様にちょっと報告があったのよ。でもちょうど不在みたいで、蔵書室で時間を潰そうかなと思って。あなたたちは昼休み?」
「あ、いえ、昨日の傭兵試験で新しく正規の団員を迎え入れたので、施設の案内を。あ、彼がそうです。アル・レイナードです」

 どこか普段の冷静さを欠いた、落ち着きのない受け答えのクローディア。だが、それも仕方がなかった。
 彼女にとってシルフィは、魔法研究者として憧れの存在だった。誰もが届かない発想に易々と辿り着き、次々と新たな地平を切り拓いてきた彼女の仕事ぶりは、まさに神業。クローディアが取り組んでいる詠唱破棄の研究も、他の学者は気にも留めなかったが、彼女だけは「面白い」と真摯に話を聞いてくれた。
 その後も、遺跡発掘などで自分より遥かに多忙の中、時間を作ってはクローディアの研究に協力してくれる良き理解者として支えてくれている。疲れているはずなのに、いつだって明るい笑顔で。
 一縷の光も見えない詠唱破棄の研究を、それでも諦めずに続けられているのは、シルフィの存在があればこそだった。クローディアは、そんな彼女に頭が上がらないだけでなく、今では崇拝あるいは恋慕に近い感情すら抱いている。

「へぇ! 久しぶりの大抜擢ね。私が来てからだと、カイル君以来じゃないかしら。アル君、だっけ。これから国のためによろしくね♪」
「は、はぁ……」

 突然の珍妙な乱入者に驚いたのか、アルは戸惑っている。もっとも、誰彼かまわず気さくに接する彼女と初めて相対した者は、だいたいこうなるのが常だ。
 すると、シルフィは「……んんん?」と、顎に手を当てて不思議そうにアルを眺め始めた。

「ど、どうしたんですか、シルフィ様?」
「……んー、気のせいかしら。どこかで見たことあるような気がして……もしかして他の国で会ったことある?」
「い、いえ、たぶんないかと。俺はイングリッドを出たことは、ほとんどないですから」
「そっか。じゃあ、勘違いかな。ごめんね、変なこと聞いて」

 茶目っ気たっぷりに、両手を合わせて片目を閉じながら謝るシルフィ。その所作に毒気を抜かれたのか、アルも「は、はぁ」としどろもどろだ。

「おそらく風の噂で聞いたんじゃないでしょうか。彼は《魔獣殺し》として、その風貌が大陸中で噂されていましたから」
「え!? 彼、あの《魔獣殺し》なの!?」
「は、はい」
「うっそ、ほんとに!? 私、一度でいいから話を聞きたいと思ってたのよ! 今度ちょっと時間ちょうだい! お願いちょっとだけでいいから! ね! ね!?」

 アルの手を握り、祈るように懇願するシルフィ。
 クローディアすら驚き困惑する彼女の熱量に、初対面のアルがいよいよたじろぎ、押し切られるように「は、はぁ……まぁ……」と間の抜けた同意を口にする。

「いよっし! それじゃあ今度また連絡するわ! またねー!」

 上機嫌のシルフィは、手を振りながら小走りで南棟へと消えていった。
 ほんのわずかな、しかし嵐のようなひと時が過ぎ去り、しばし茫然と立ち尽くす三人。

「せ、先輩。そろそろ仕事、行きます?」

 ライザが沈黙を破った。

「……あ。そ、そうね。―――アル。いきなりで悪いんだけど、これから一つ仕事に付き合ってちょうだい」
「あ、ああ」

 どこかシルフィの気に当てられたままの三人は、ぎこちない雰囲気の中、中庭を後にした。
9/27ページ
スキ