猫と私の協奏曲

5.暗闇を超えて

「マル。ありがとう」
 授業参観が終わって数日後、結華はマルにお礼を言った。なぜ今なのかというと彼はふらふらとどこか行ってしまうためなかなかお礼が言えなかったのだ。
「別に。親になかなか言い出せない。お前がうっとおしかっただけだ。お前の為じゃない」
 そう言ってマルはそっぽを向いた。
「だけどお礼が言いたかったのよ」
 そう言って結華は笑った。
「ふん。素直にお礼を言われるのも恥ずかしいものだな」
 よく見るとマルの頬は赤くなっていた。
「照れ屋さん……」
 くすくす笑って結華はマルをなでた。
「やめろ。くすぐったいっ!」
 ジタバタとマルは暴れる。面白がって結華はマルをくすぐる。それがしばらく続いていた。
「はーっ。死ぬかと思った……」
 数分後、マルは息が上がっていた。よっぽどくすぐったかったらしい。
「マルはくすぐったがりやね……。……あら?」
 結華はマルの事を笑っていたが、その笑いも止む。あたりが暗くなったのだ。
「なんだ? あたりが暗くなったぞ……」
「停電かな……」
 不安そうにあたりを見て、結華はマルを抱きしめた。
「何。すぐに停電は直るさ」
 結華の手が震えているのを感じてマルは優し気な声を出した。
「本当?」
「たぶんな」
 マルはそう言った。
「早く直るといいんだけど……」
 結華はそう願った。彼女は闇が怖かった。彼女にとって独りぼっちの闇は両親の帰りをただ待っていた幼いころの自分を思い起こさせるものだったのだ。
「結華。大丈夫だ。お前は一人ではない。わしがいる」
 マルの体温は温かくて一人ではないと実感できる。
(もうあの頃と違うんだ――)
『お父さん、お母さん。まだかな――?』
 ベッドの中で両親の帰りを待つ自分の声がする。小学校のころ、両親は今より帰りが遅く、午前様なんてよくあったのだ。そんなことも知らない幼い結華はベッドの中で両親の帰りを待った。話したいことが沢山あって。だけど両親は待てども待てども帰ってこなかった。そしていつの間にか寝てしまうのだ。暗闇の中、両親の帰りを待つのが結華はいつの間にか嫌いになった。そして暗闇がその記憶を思い起こさせるものとして怖くなった。
(怖いと分かったのは高学年になってからだけどね――)
 結華は苦笑した。お化け屋敷の闇に入った途端、パニックを起こした。若葉と小枝が慰めてくれたのが記憶に残っている。
「結華。大丈夫だ」
 ぺろりと腕をマルがなめた。ざらざらとした舌は彼が猫なんだという事を思い出させる。
「ねえ。マル。貴方はどうして陶器から猫になったの?」
 マルが陶器から猫になった日にぶつけた質問を結華はもう一度彼にぶつけた。今なら分かる気がしたのだ。
「前にもその質問をしたな。あの時は分からなかったが、今なら分かる」
 そう言ってマルは結華の腕から抜け出して向かい合った。闇の中でマルの二つの目が光る。
「詳しい事はよく分からん。だが、これだけは言える。お前が呼んだからだ」
「私が呼んだから? どういう事?」
 結華は首を傾げた。自分がマルの事を呼んだ? どういう意味だろう。
「お前はずっと寂しいと言っていただろう。表には出さなかったかもしれないが、心の中では寂しいと思ったはずだ」
 確かに寂しいと思っていたかもしれない。両親がなかなか帰ってこなくて寂しいと。
「お前は自分の寂しさを埋めるものを求めた。そんなお前がわしに出会った。わしに出会ってからは毎日話しかけてくれた」
 陶器のマルに結華は毎日のように話しかけた。生きているものに対するように。それは寂しさからきていたものだが、そうすることで結華は一人ではなくなった気がした。
「その行為がわしに前よりはっきりとした意識を宿らせた。そしてお前がわしを落としそうになったとき、境界を超えた」
「境界?」
 何の境界だというのだ。あったとしてもなんの境界なのだ。
「生きている者と作られた物の境目。大事にされた物の中にはたまにその境目を超えてしまうものがいるらしい。ここ数日わしは訊き込みまわってその事実にたどり着いた」
 授業参観から数日間、マルが大好きなご飯をすっぽかしていなかったのはこれが原因だったのだ。
「付喪神とは違うの?」
「それとも違う。付喪神は大切にされた物に宿った神だが、わしは本物の猫になったわけだからな。昔はわしみたいなのもたくさんいたらしい」
 マルはそう言って顔を洗った。
「でもそんなの聞いたことないわ……」
 マルみたいなのが沢山いたならその伝承も残っているはずではないのか。結華はそれが不思議でたまらなかった。
「秘密にされていたらしいからな。また妖怪や神と勘違いされた物もいたらしいし……」
「そう……」
 結華は頷いた。やがて彼女にはある一つの不安がむくむくと育っていった。
 マルは結華の孤独が求めた存在だ。授業参観をきっかけに両親とはよくしゃべるようになり、前より孤独ではなくなった。じゃあマルはどうなるのだろう。
「マルはいつまでここにいるの……?」
 不安になった結華はマルを抱きしめて訊いた。マルがいなくなるのがすごく嫌だった。彼は家族の一員で結華にとって必要な存在だった。マルが居なかったら結華は孤独を抱えたまま大人になっていたかもしれないのだ。
「いなくなったりしないよね……?」
「馬鹿者」
 バカと言われたはずなのに優しい声だったので結華は傷つかなかった。
「わしはそう簡単に消えたりしないし、いなくなったりしないわ。お前が望むままずっとここにいる」
「本当?」
 結華はマルが消えたりしないという約束が欲しかった。マルが来て結華の日常は変わった。一人での夕食はマルと一緒に。ごろごろしながら結華が宿題をするのを眺めたり、あの番組は面白いだのつまらないだのの文句を言い、お菓子が欲しいだのねだったり、友達から借りて来る漫画を読んだりといつもいつもマルと一緒だった。時たま喧嘩をしたり、じゃれたりしたりしている。彼女は一人から一人と一匹のにぎやかな日常を手に入れたのだ。それを手放したくはなかった。
「ああ。わしはお前の心から生まれた。だったらお前がいらないというまで傍にいるのが筋というものではないか」
「そっか……。よかった……」
 結華はほっとした。自分の心から生まれたのならマルは結華が望むまで傍にいるのだろう。
「そうさ。お前がいらないというまでわしは傍にいる……」
 その言葉に結華は泣き出した。ずっと一緒にいてくれるのがうれしくて。もう一人じゃないのがうれしくて。
「まったく……。泣き止むのを待ってやる。わしの寛大さをありがたがれ」
 そう言ってマルは結華が泣き止むまでずっとそばにいてくれた。結華が泣いている間に停電は直っていた。
 目を覚ますと結華の横にはマルがいた。あの後、泣きつかれて眠ってしまったらしい。
「ねえ、マル」
「何だ」
 マルは結華にちらりと視線をよこした。
「ずっとそばにいてくれるんだよね?」
「もちろんだ。ついて来るなと言ってもついて行くぞ」
 そう言ってマルは結華の肩に飛び乗った。
「うわっ!」
 結華は驚いて、バランスを崩した。
「これからもよろしく。マル」
「ああ。ずっとよろしくだ」
 結華とマルはそう言って笑いあった。

(おわり)
5/6ページ
スキ