猫と私の協奏曲

4.言えない

「はあ……」
 部屋に結華のため息が満ちる。そのため息でマルは耳をピクリと動かした。
「どうしよう……」
 手に握られているのは一枚の紙。これが結華の悩みの種となっていた。
「何を悩んでいるのだ」
 マルがぴょんと結華の机の上に乗って訊いた。
「うん……。もうすぐ授業参観なんだけどね……」
「ジュギョーサンカンとはなんだ?」
 マルは首をこてんと傾げる。
「授業参観とは普段の私たちのしている授業を保護者が見に来ることかな……」
「なるほど。結華は両親に出てほしいと願うのか?」
 マルの言葉に結華は俯いた。
「そこなんだよね……。お父さんもお母さんも忙しいからきっと来てくれないよ……」
「それでいいのか?」
 結華はマルの言葉に寂し気に微笑んだ。
「寂しいけどいいの……。お父さんとお母さんの仕事を邪魔するわけにはいかないから……」
 その言葉にマルはしばし考えた。結華は両親にわがままをめったに言わない。どこか彼女は両親に遠慮しているのだ。迷惑をかけたくない。良い子でいたい。それが彼女の心の中にあるような気がする。
 もっと両親に思ったことを言えばいいのに。マルはそう思っている。
「私、夕飯作ってくるね」
 そう言って結華は部屋を出て行ってしまった。
「…………」
 マルは机の上に置かれたものをじっと見た。それは授業参観のお知らせのプリントだった。
「こうするしかないか……」
 しばらくプリントをマルはじっと見ていたが何か思いついたらしい。
「結華の為だからな」
 その顔が怖かったことは夕飯の支度を終えた結華に「顔が凶悪になっているよ」と突っ込まれたことから分かる。
 夜中―――。
 結華はベッドの中ですやすやと眠っている。そんな結華をマルはじっと見つめていた。
 ガチャリと玄関から音がした。その音に耳をピクリと動かすとマルは結華の机の上に飛び乗った。そこからプリントを咥えると部屋を出て行った。
「ただいま~。結華は眠っているわよね……」
 帰って来たのは結華の母親だった。結華は彼女似だと一目で分かる。
「みゃあ」
 人前では結華との約束通り話さないマルはプリントを咥えて結華の母親の前に姿を現した。
「マルちゃん。出迎えてくれたの?」
 結華の母親はマルをなでた。マルは気持ちよさそうにしていたがプリントを結華の母親の足元に落とした。
「マルちゃん。これ何? プリント……?」
 結華の母親はプリントを拾って読んだ。
「結華……」
 プリントを読んで母親は悲し気な顔をした。
「あの子、いつも私たちにこれを持ってきたことないのよ……。遠慮しているのかしらね……。どうすればいいと思う? マルちゃん」
「みゃあ」
 知らないよとばかりにマルは鳴いたのだった。

       *           *

「ふう……」
 授業参観の日。結華は窓の外を見ながらため息をついた。結局結華は両親に授業参観の事は言えていない。
「結華~~!」
「ゆ~いか♪」
 若葉と小枝が結華の机にやってくる。
「結華のお父さん、お母さん、授業参観に来る?」
 若葉が訊いてくる。
「たぶん来ないと思う。二人とも忙しいし……。それに……授業参観のこと言っていないし……」
「「ええ!?」」
 若葉と小枝が驚く。
「どうして授業参観のこと言っていないの?」
「お母さんとお父さん疲れているから……」
 結華の返事に困ったように若葉と小枝は顔を見合わせた。両親の仕事の邪魔をしたくないのは分かるし、仕事で疲れている二人を休ませたいのも分かる。だが隠されるのも両親としては辛いのではないかと二人は思う。娘を悲しませるために彼らは仕事をしている訳ではないのだから。
「それは分かるけど……。お母さん、悲しむよ?」
「そうかしら? でもいつも土日に二人は疲れているようだったから……」
 結華の両親はかなり生徒に慕われているという事を結華は訊いたことがある。そんな両親を誇りに思っていた結華は仕事の邪魔だけはしたくなかったのだ。
「結華ってば……」
 どうして彼女は分からないんだろう。少しくらいわがまま言ったって怒るような両親ではないだろうに
「ホームルーム始めるぞ~」
 そこへ先生が入って来た。生徒たちが慌てて席に着く。
「お父さん、お母さんの良い子でいたい……」
 結華の呟きはあたりのざわめきに消されたのだった。
「さて。今日は授業参観だ。保護者の皆さんに皆さんの学習の成果を見てもらおうな」
 担任の黒髪を刈り上げた先生が言った。
「は~い!」
 みんな元気に返事をする。
「それでは出席をとるぞ」
 名前を呼ばれて返事をする生徒たちの声を聞き流しながら結華は自分の両親は来るわけがないと固く信じていた。
 授業参観があるのは土曜日。保護者向けに二時間だけ授業をやることになっている。授業の内容は一限目は国語、二限目は担任の担当科目である世界史だ。
「それでは授業を始めます」
 国語担当の女教師が授業の開始を宣言する。
「起立!」
 学級委員の声と共にみんな立ち上がる。
「礼!」
 お辞儀をしてみんな席に座る。
 それを見届けると教師は今日のプリントを配り始めた。
 プリントをちらりと眺めて結華は後ろを振り返った。そこにはちらほら保護者の姿があるが結華の両親の姿はない。
(言ってないのに来るわけないじゃない……)
 小学校のころ、運動会があった。その時は両親にちゃんとそのことを言ったのだが、彼らは来なかった。彼らの学校の運動会と重なってしまったのだ。その時は来ないのは当たり前だったのに裏切られた気がした。どこかで両親が来るのではないかと思ったのだ。そんなことが何度もあった。だから結華は期待するのを止めた。来ないのが分かっているなら言わない方がましだ。
(だから私は――)
 教師の声を聞き流しながら結華はつらつらと過去を思い出していた。
「結華。結華!」
 後ろの席の若葉が結華を突いてくる。
「何、若葉?」
 後ろを振り向かずに小声で結華は若葉に訊いた。
「あそこにいるの、結華の両親じゃない?」
「は? うちの両親が来るわけないじゃん?」
 結華はきょとんとした。授業参観のこと言ってないのだから来るわけがないのだ。
「本当だって!」
「うんうん。本当に結華の両親だって」
 隣の席の小枝までそんなことを言う。
「小枝まで……」
 結華は恐る恐る後ろを振り向いた。
「嘘……」
 そこにはにこにこと微笑んでいる結華の両親がいた。
「なんで……? 私言ってないのに……」
 結華は戸惑った。プリントを見せていない両親がどうしてここにいるのか。疑問だらけで後の授業は全く耳に入らなかった。
「お父さん、お母さん! どうしてここに?」
 二限目が始まる前の休み時間に結華は両親に駆け寄った。
「ふふっ。マルちゃんが授業参観のプリントを咥えて私の前にやってきてね……」
 結華の母親はにこにこと笑って言った。
「二人で相談して授業参観に出ることにしたんだよ」
「マルが……?」
 結華の脳裏にはいつもだらしなく太った風船猫の姿が思い浮かんだ。あの猫が両親にプリントを持って行ったのだろうか。結華には信じられなかった。
「いつも寂しい思いをさせてごめんね……。結華は我慢強い子だから言いたいことも言えないんだと思う。でも言わなきゃわかんないわ…………」
「寂しい時は寂しいって言っていいんだ。少しくらい言ってくれないと私たちには分からない。家族なんだから我儘言っていいんだよ」
 母親と父親が言った。
「我儘言っていいの?」
「ああ。少しくらいならね」
 父親が頷いた。
「本当は……私……寂しい……。一人は寂しいよ……」
「分かってる。寂しい思いさせてごめんね……」
 母親がゆっくりと結華の頭をなでる。そのしぐさに今まで苦しかった思いがよみがえり、結華は静かに涙を流した。
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