蕾の成長日記
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ノアは机の上の紙と、そこに記された見慣れない文字をじっと見つめていた。
曲線。点。縦線。意味は、まだわからない。けれど見た目だけは覚えられる。
(……たぶん、これで合ってる。見たまま、写した)
墨をつけたペンを握りしめ、彼女はゆっくりと筆を運んだ。
一文字、また一文字。自信はなかったけれど、もう一度やり直す勇気もなかった。
(できないって……言いたくない)
わからないと言えば、見捨てられるかもしれない。
そう思うのは、昔の習い性だ。
人並みに暮らすことも知らず、命令通りに動き、任務を果たせばいい世界で育った。
その世界では「できない」は価値がなかった。
けれど今は――違う。
それでも、怖さは消えていない。
「終わったのか?」
扉の方からカルエゴの声がした。
ノアは思わず背筋を伸ばし、小さくうなずく。
『……はい』
返事と同時に、書き上げた紙を両手で差し出した。
カルエゴはそれを無言で受け取り、視線を落とす。
静かな空気が流れた。
ノアの心臓が、ゆっくりと早鐘を打ち始める。
顔を上げるのが怖い。息も苦しい。
「……“火”と書いたつもりか?」
低い声。
ノアはこくりとうなずいた。
「これは“死”だ。形が似ていても、意味がまるで違う。――お前は、これが“火”だと、本当に思ったのか?」
(バレた)
そう思った瞬間、喉の奥がぎゅっとつまる。
言い訳が頭をめぐる。でも、声にならない。
やがて、カルエゴが一歩近づいた。
「……わからなかったのか?」
その問いに、ノアは唇を震わせた。
(わからなかった。ちゃんと教えてほしい。でも――怒られるのが怖い)
しばしの沈黙のあと、ようやく、小さく口が開く。
『……うん。わかんなかった』
それは、これまでの人生で初めて吐いた「弱さ」だった。
そう言っても、すぐに斬られることも、罰されることもない。
カルエゴはノアを見下ろしながら、長いまつげの奥にある瞳を少しだけ細めた。
「ならば、教える。それだけだ」
その声は、いつも通りだった。冷静で、威厳があって、優しさはない。
けれど、拒絶も、否定もなかった。
ノアは驚いて、顔を上げた。
『……怒らないの?』
思わず、口をついて出た。すぐに、自分でハッとする。
でもカルエゴは、少しだけあきれたように、目を細めた。
「なぜ怒る。知らないのは罪ではない。知ろうとせずに、誤魔化すのが罪だ」
『……』
(誤魔化したのは、わたし)
自分がしたことが、どれほど小さな嘘であっても、あの人の目にはちゃんと見えていた。
それでも「ならば教える」と言った。――その事実が、胸に痛く、そして優しかった。
『……ごめんなさい』
絞り出すような声だった。
だけど、はっきりと自分の意志で言えた。
カルエゴはノアの頭の上に、ふいに手を置いた。
その動作に意味があるのか、ノアにはわからなかった。
でも、重くない。冷たくない。
それだけで、今にも涙があふれそうになる。
それでも、泣くことも、笑うこともできなかった。
ノアはただ、手の下に感じるその存在のぬくもりを、ずっと心の中で繰り返していた。
(“できない”って言っても、大丈夫だった)
(……わたし、ここにいてもいいのかな)
その夜。寝室の薄暗い天井を見つめながら、ノアは初めて、そんなことを思った。
小さな光が、彼女の心の底で、ほんの少しだけ揺れていた。