蕾は、黒に包まれて目を覚ます
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「今日は外へ出てみるぞ」
カルエゴのその言葉に、私は一瞬だけ体を強張らせた。
屋敷の外。
その言葉は、かつての私にとって、誰かを追うか、誰かに追われる場所を意味していた。
けれど、カルエゴはそんな私の反応に何も言わず、ただ「ついてこい」と背を向けた。
私は戸惑いながらもその後ろを追う。彼の歩幅に合わせて、ぎりぎり届く距離で。
屋敷の庭を通り抜け、小道へと足を踏み出す。
太陽が優しく差し込んでいた。風の匂いも、空の広さも、今まで感じたことのないものだった。
しかし、しばらく歩いた先で、男がひとり角から現れたその瞬間——
(危険かもしれない)
脳が勝手に判断していた。
私は反射的にその男に向かって飛びかかり、肩を押し倒した。
「ッ! な、なんだお前!」
「ノアッ!」
カルエゴの鋭い声が、私の耳に響いた。
次の瞬間、肩を強く引かれ、私は地面から引き剥がされるようにして立たされた。
「何をしている。ここは戦場ではない。俺が隣にいるのだ、勝手に動くな」
私は息を切らしながら、ただ俯いた。
怖かった。敵意を感じたわけじゃない。でも、体が勝手に動いた。
そして、カルエゴに怒られたことが、胸にずしりと刺さっていた。
「……すまない」
やっとの思いで口から絞り出した謝罪に、カルエゴはしばし黙っていたが、
「……警戒心は時に必要だ。しかし、それを間違って使えば、ただの暴力だ」
そう言うと、彼は先に歩き出す。
私はその背中を、逃がさないようにぴたりと追いかけた。
今度は、腕が触れるほどの距離で。
彼のそばなら安全だと思ったのではない。
ただ、離れたくなかった。
もう、誰も襲ってこなくても。
もう、命令がなくても。
私はあの背中のすぐ後ろにいたかった。
「……どこに行くの?」
「街外れの小さな市場だ。人の出入りも少ない。訓練にはちょうどいい」
「訓練……?」
「他人の中で、“1人”として歩く練習だ」
私はうなずいた。
わからないことだらけだけど、カルエゴとなら、それを知っていける気がした。
***
街外れの市場は、賑わいというより、静かな日常の音に包まれていた。
野菜を並べる老夫婦、籠を抱えて歩く主婦、地面に座り込んでじゃれあう子どもたち。
誰もが忙しなく動いているのに、どこか柔らかく、穏やかだった。
私は人の視線におびえながらも、カルエゴの後ろをぴったりとついて歩いた。
もし彼が一歩でも先を急げば、私は腕をつかんででも止めていたかもしれない。
「ノア、こっちに来い」
そう言って、カルエゴは果物の屋台の前に立った。
赤い実が、かごいっぱいに盛られている。
甘い香りが鼻先をくすぐり、私は思わずその色に見惚れた。
「これは“リンゴ”だ。食べたことはあるか?」
「……ない」
「食ってみろ」
そう言って、カルエゴが代金を支払うと、店主は気さくに笑いながら紙に包んだ果実を差し出してきた。
私は戸惑いながらも、それを受け取った。
熱くも、冷たくもない。ただ、ずっしりと重い。
こんな風に、何かを“与えられる”ことが今までなかった。
「……どうすればいい?」
「手で割ってもいいし、齧ってもいい。食い方に決まりはない」
私は恐る恐る、かじった。
甘い。
驚いて目を見開いた私を見て、カルエゴがわずかに口角を上げた。
「どうだ?」
「……おいしい」
自然と出てしまった言葉に、自分で驚いた。
“おいしい”なんて、今まで口にしたことも、思ったこともなかった。
「よし。次はお前が買ってみろ」
「……私が?」
「金はやる。どう言えば物が手に入るか、覚えておけ」
差し出された小銭を受け取る手が、少し震えた。
私は一歩前に出て、周囲を見回す。
どの店も人と“会話”をしている。それが怖い。でも、やってみたい。
視線の先に、小さな焼き菓子を売っている少女がいた。
年は私と変わらない。目が合った瞬間、にこりと笑ってくれた。
私は、ゆっくり歩み寄り、息を飲んで言葉を吐いた。
「……ひとつ、ください」
「はいっ!30ビルだよ」
硬貨を渡すと、少女は紙に包んだ焼き菓子を手渡してくれた。
「ありがとね、お姉さん!」
その言葉に、胸が熱くなった。
“お姉さん”。
それは“人”として扱われた初めての呼び名だった。
私はふり返って、カルエゴを見た。
彼は遠くから見守っていたが、目が合うと、静かにうなずいた。
私も、うなずき返す。
こんな些細なことで、こんなに嬉しいだなんて——
私はやっぱり、変わりはじめているのかもしれない。
***
屋敷へ戻る馬車の中、私は焼き菓子の包みを握りしめたまま、無言で窓の外を眺めていた。
外の景色はゆっくりと後ろへ流れていく。
市場のざわめき、人々の笑い声。
それはほんの数時間前のことなのに、まるで夢の中の出来事のように思えた。
「緊張していたな」
カルエゴの声に、私はびくりと肩を跳ねさせた。
彼は、腕を組んだまま視線をこちらに寄越すでもなく、窓の向こうを見ていた。
「……あの子が、笑ってくれた」
ふいに口をついて出たのは、思いがけず自分の気持ちだった。
「焼き菓子を買ったときの子だな?」
私はこくりと頷いた。
「“お姉さん”って言ってくれた。……あんなふうに呼ばれたの、初めてだった」
「お前は、今日、“初めて”をいくつも経験した」
「……うん」
「人は、そうやって成長する。自分がどんなふうに見られ、どんなふうに在りたいかを、少しずつ選んでいく」
「選ぶ、か……」
私には、選ぶという発想そのものがなかった。
命令され、こなすだけの日々。自分の意思など必要なかった。
でも——
「“嬉しい”と思った」
「……ああ」
「“誰かに見てもらえること”が、こんなに嬉しいなんて……知らなかった」
カルエゴは、はじめて私に正面から顔を向けた。
その瞳に、責める色も、諦める影もない。
あるのはただ、肯定の光だった。
「お前は変わっていける。これから何度でも、“初めて”を経験すればいい」
私は膝の上の包みを見下ろし、そっと指を差し入れた。
焼き菓子の甘い香りがふわりと立ち昇る。
私はひと口それをかじってから、ぽつりとつぶやいた。
「カルエゴ……」
「なんだ」
「……ありがとう」
言葉にしたのは、たぶん、生まれて初めての感謝だった。
カルエゴはそれに応えず、ただ少し、口元を緩めた。
その静かな表情を、私は心の中に深く刻んだ。
カルエゴのその言葉に、私は一瞬だけ体を強張らせた。
屋敷の外。
その言葉は、かつての私にとって、誰かを追うか、誰かに追われる場所を意味していた。
けれど、カルエゴはそんな私の反応に何も言わず、ただ「ついてこい」と背を向けた。
私は戸惑いながらもその後ろを追う。彼の歩幅に合わせて、ぎりぎり届く距離で。
屋敷の庭を通り抜け、小道へと足を踏み出す。
太陽が優しく差し込んでいた。風の匂いも、空の広さも、今まで感じたことのないものだった。
しかし、しばらく歩いた先で、男がひとり角から現れたその瞬間——
(危険かもしれない)
脳が勝手に判断していた。
私は反射的にその男に向かって飛びかかり、肩を押し倒した。
「ッ! な、なんだお前!」
「ノアッ!」
カルエゴの鋭い声が、私の耳に響いた。
次の瞬間、肩を強く引かれ、私は地面から引き剥がされるようにして立たされた。
「何をしている。ここは戦場ではない。俺が隣にいるのだ、勝手に動くな」
私は息を切らしながら、ただ俯いた。
怖かった。敵意を感じたわけじゃない。でも、体が勝手に動いた。
そして、カルエゴに怒られたことが、胸にずしりと刺さっていた。
「……すまない」
やっとの思いで口から絞り出した謝罪に、カルエゴはしばし黙っていたが、
「……警戒心は時に必要だ。しかし、それを間違って使えば、ただの暴力だ」
そう言うと、彼は先に歩き出す。
私はその背中を、逃がさないようにぴたりと追いかけた。
今度は、腕が触れるほどの距離で。
彼のそばなら安全だと思ったのではない。
ただ、離れたくなかった。
もう、誰も襲ってこなくても。
もう、命令がなくても。
私はあの背中のすぐ後ろにいたかった。
「……どこに行くの?」
「街外れの小さな市場だ。人の出入りも少ない。訓練にはちょうどいい」
「訓練……?」
「他人の中で、“1人”として歩く練習だ」
私はうなずいた。
わからないことだらけだけど、カルエゴとなら、それを知っていける気がした。
***
街外れの市場は、賑わいというより、静かな日常の音に包まれていた。
野菜を並べる老夫婦、籠を抱えて歩く主婦、地面に座り込んでじゃれあう子どもたち。
誰もが忙しなく動いているのに、どこか柔らかく、穏やかだった。
私は人の視線におびえながらも、カルエゴの後ろをぴったりとついて歩いた。
もし彼が一歩でも先を急げば、私は腕をつかんででも止めていたかもしれない。
「ノア、こっちに来い」
そう言って、カルエゴは果物の屋台の前に立った。
赤い実が、かごいっぱいに盛られている。
甘い香りが鼻先をくすぐり、私は思わずその色に見惚れた。
「これは“リンゴ”だ。食べたことはあるか?」
「……ない」
「食ってみろ」
そう言って、カルエゴが代金を支払うと、店主は気さくに笑いながら紙に包んだ果実を差し出してきた。
私は戸惑いながらも、それを受け取った。
熱くも、冷たくもない。ただ、ずっしりと重い。
こんな風に、何かを“与えられる”ことが今までなかった。
「……どうすればいい?」
「手で割ってもいいし、齧ってもいい。食い方に決まりはない」
私は恐る恐る、かじった。
甘い。
驚いて目を見開いた私を見て、カルエゴがわずかに口角を上げた。
「どうだ?」
「……おいしい」
自然と出てしまった言葉に、自分で驚いた。
“おいしい”なんて、今まで口にしたことも、思ったこともなかった。
「よし。次はお前が買ってみろ」
「……私が?」
「金はやる。どう言えば物が手に入るか、覚えておけ」
差し出された小銭を受け取る手が、少し震えた。
私は一歩前に出て、周囲を見回す。
どの店も人と“会話”をしている。それが怖い。でも、やってみたい。
視線の先に、小さな焼き菓子を売っている少女がいた。
年は私と変わらない。目が合った瞬間、にこりと笑ってくれた。
私は、ゆっくり歩み寄り、息を飲んで言葉を吐いた。
「……ひとつ、ください」
「はいっ!30ビルだよ」
硬貨を渡すと、少女は紙に包んだ焼き菓子を手渡してくれた。
「ありがとね、お姉さん!」
その言葉に、胸が熱くなった。
“お姉さん”。
それは“人”として扱われた初めての呼び名だった。
私はふり返って、カルエゴを見た。
彼は遠くから見守っていたが、目が合うと、静かにうなずいた。
私も、うなずき返す。
こんな些細なことで、こんなに嬉しいだなんて——
私はやっぱり、変わりはじめているのかもしれない。
***
屋敷へ戻る馬車の中、私は焼き菓子の包みを握りしめたまま、無言で窓の外を眺めていた。
外の景色はゆっくりと後ろへ流れていく。
市場のざわめき、人々の笑い声。
それはほんの数時間前のことなのに、まるで夢の中の出来事のように思えた。
「緊張していたな」
カルエゴの声に、私はびくりと肩を跳ねさせた。
彼は、腕を組んだまま視線をこちらに寄越すでもなく、窓の向こうを見ていた。
「……あの子が、笑ってくれた」
ふいに口をついて出たのは、思いがけず自分の気持ちだった。
「焼き菓子を買ったときの子だな?」
私はこくりと頷いた。
「“お姉さん”って言ってくれた。……あんなふうに呼ばれたの、初めてだった」
「お前は、今日、“初めて”をいくつも経験した」
「……うん」
「人は、そうやって成長する。自分がどんなふうに見られ、どんなふうに在りたいかを、少しずつ選んでいく」
「選ぶ、か……」
私には、選ぶという発想そのものがなかった。
命令され、こなすだけの日々。自分の意思など必要なかった。
でも——
「“嬉しい”と思った」
「……ああ」
「“誰かに見てもらえること”が、こんなに嬉しいなんて……知らなかった」
カルエゴは、はじめて私に正面から顔を向けた。
その瞳に、責める色も、諦める影もない。
あるのはただ、肯定の光だった。
「お前は変わっていける。これから何度でも、“初めて”を経験すればいい」
私は膝の上の包みを見下ろし、そっと指を差し入れた。
焼き菓子の甘い香りがふわりと立ち昇る。
私はひと口それをかじってから、ぽつりとつぶやいた。
「カルエゴ……」
「なんだ」
「……ありがとう」
言葉にしたのは、たぶん、生まれて初めての感謝だった。
カルエゴはそれに応えず、ただ少し、口元を緩めた。
その静かな表情を、私は心の中に深く刻んだ。