蕾は、黒に包まれて目を覚ます
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窓の隙間から差し込む朝の光に、私はゆっくりと目を覚ました。
深く眠ったのは、何年ぶりだろう。夢は見なかったけれど、胸の奥に残る感触はあたたかい。
(……ここは、あの屋敷だ)
昨日のことが夢じゃなかったと知り、わずかに心がざわめく。
けれどその不安を押しのけるように、静かに扉がノックされた。
「おはよう。リリィよ、入っていいかしら?」
扉の向こうから聞こえる優しい声。
私は短く「うん」と返し、ベッドから身を起こす。
入ってきたリリィは、笑みを浮かべていた。
「眠れたみたいね。顔色がずいぶん良くなったわ」
温かいお湯の入った洗面器と、柔らかい布で顔を拭いてくれるリリィの手は、まるで母親のようだった。
身支度を整えると、彼女はふと一冊の本を取り出した。
「今日は“学び”のはじまりの日。カルエゴ様があなたを待っているわ」
***
リリィに連れられて入った書斎は、朝の光で満ちていた。
窓辺にはカルエゴが立っており、背を向けたまま語りかけてきた。
「よく眠れたか」
「……うん」
「そうか。なら、まずは“学ぶ”ことから始めよう」
彼は振り返り、机の上にあった分厚い本を手に取ると、私の前に差し出した。
「これは“言葉”を知るための本だ。お前は、文字を読めるか?」
私は首を横に振った。
今までの人生で、必要なかったものだ。
カルエゴは何も言わず、机の傍にある椅子を引いた。
「座れ」
指示に従い、私は静かに椅子に腰を下ろす。
彼はページを開くと、一つひとつ、丁寧に文字をなぞりながら発音してみせた。
「これは“A”。これは“B”。ひとつずつ覚えていけばいい」
「……こんなの、私にできる?」
思わず弱音のような声が漏れる。だが彼は微動だにせず答えた。
「できるようになるまで、俺が教える」
その言葉は、妙に安心感をくれた。
しばらくして、カルエゴはふと本を閉じた。
「お前には、名前があるか?」
私は黙って首を横に振る。
「呼ばれ方は?」
「……“犬”“ナイフ”“死神”……あとは、“それ”」
しばしの沈黙の後、カルエゴは低く言った。
「今日から、お前には名が必要だ。“名前”は、自分を証明するものだ」
そう言って彼は私の目を見た。
その視線はいつもと変わらず、まっすぐで、何も恐れていなかった。
「お前がこれから選ぶ生き方にふさわしい名を、一緒に探そう。だがその前に――俺の名を教えておく」
そう言って彼は、静かに口を開いた。
「俺の名はナベリウス・カルエゴお前の教師だ」
その名は、真っ直ぐに胸に刻まれた。
冷たく、鋭く、それでいてどこか、私を支えてくれる音だった。
(ナベリウス……カルエゴ)
私は声に出さずに何度も心の中で繰り返した。
そうして、私ははじめて自分の人生に“名前”という輪郭が生まれようとしていることを感じていた。
***
午後の日差しが、書斎の大きな窓からやわらかく差し込んでいた。
机の上には分厚い本が数冊積まれているが、今日は読み書きの練習ではなかった。
「今日は、名前を決める日だ」
カルエゴの言葉に、私は少しだけ息を呑んだ。
名前。
今まで持ったことのなかった、世界でたったひとつの“私だけのもの”。
「お前にふさわしい名前を、考えておいた」
そう言ってカルエゴは、書類の上に手を置いたまま、私の目をまっすぐに見た。
「だが、強制はしない。気に入らなければ、自分で決めてもいい」
私は小さく頷いた。
気に入らない、なんて思うはずがなかった。
彼が私のために考えてくれたものなら、それだけで胸が熱くなる。
「“ノア”――という名だ」
その言葉が空気を震わせた瞬間、胸の奥にぽっと灯りがともるのを感じた。
「ノア……?」
「お前がこれから穏やかな人生を送れるようにと願いを込めた」
ノア――。
呼ばれたことのない響き。
だけど、それはたしかに“私”のような気がした。
「……ノア、私はノア。私の名前……」
何度も繰り返し心の中で唱えた。
思わず口元に笑みが浮かぶ。
「ありがとう、カルエゴ……」
するとカルエゴは少し目を細め、珍しく柔らかな声で返した。
「その名に恥じぬよう生きろ。これからお前は、ノアとして歩いていく」
ノアとして生きる――。
過去のしがらみを断ち切るほどには強くなれていないかもしれない。
それでも。
私はたしかに、いま新しい一歩を踏み出したのだ。
***
カルエゴの屋敷に来てから数日。
名前をもらった日から、何かが少しずつ変わっていくのを、私は感じていた。
「今日は文字の練習をするぞ」
書斎の机の上に、真っ白な紙とインクのついた羽ペンが用意されていた。
私は机の前に座り、じっとペンを見つめる。
「これは“あ”。最も基本の文字のひとつだ」
カルエゴが、ゆっくりと見本を書いて見せる。
曲線と線がつながったその形は、不思議で、でもどこか美しかった。
「持ってみろ。手を貸す」
彼の大きな手が、私の手の上に重なり、ペンの握り方を導いてくれる。
ごつごつしていて温かい。
私はそのぬくもりに、ふと息を呑んだ。
「こうだ。力みすぎるな」
言われるままになぞってみるが、線はガタガタで、形も歪んでいた。
「……へたくそだ」
ぽつりとつぶやいた私に、カルエゴはあきれたように眉をひそめる。
「最初からうまく書ける者はいない。何事も練習だ。自分を卑下するな」
叱るような声。でも、それは私を否定するものではなかった。
「もう一度書け。焦るな」
私は息を整え、もう一度ペンを紙に滑らせる。
今度は少しだけ、線がなめらかになった気がした。
「……できた」
「そうだ、それでいい」
カルエゴは小さくうなずくと、私の書いた紙を見つめたまま静かに言った。
「お前はここから始まるんだ。新しい人生は、まず“知る”ことから始まる」
“知ること”。
今までの私にはなかったもの。
生きるために剣を握り、命令に従って人を斬ってきた手が、いまは文字を綴っている。
私は、小さく笑った。
紙の上に書かれた歪な文字が、少しだけ輝いて見えた。
深く眠ったのは、何年ぶりだろう。夢は見なかったけれど、胸の奥に残る感触はあたたかい。
(……ここは、あの屋敷だ)
昨日のことが夢じゃなかったと知り、わずかに心がざわめく。
けれどその不安を押しのけるように、静かに扉がノックされた。
「おはよう。リリィよ、入っていいかしら?」
扉の向こうから聞こえる優しい声。
私は短く「うん」と返し、ベッドから身を起こす。
入ってきたリリィは、笑みを浮かべていた。
「眠れたみたいね。顔色がずいぶん良くなったわ」
温かいお湯の入った洗面器と、柔らかい布で顔を拭いてくれるリリィの手は、まるで母親のようだった。
身支度を整えると、彼女はふと一冊の本を取り出した。
「今日は“学び”のはじまりの日。カルエゴ様があなたを待っているわ」
***
リリィに連れられて入った書斎は、朝の光で満ちていた。
窓辺にはカルエゴが立っており、背を向けたまま語りかけてきた。
「よく眠れたか」
「……うん」
「そうか。なら、まずは“学ぶ”ことから始めよう」
彼は振り返り、机の上にあった分厚い本を手に取ると、私の前に差し出した。
「これは“言葉”を知るための本だ。お前は、文字を読めるか?」
私は首を横に振った。
今までの人生で、必要なかったものだ。
カルエゴは何も言わず、机の傍にある椅子を引いた。
「座れ」
指示に従い、私は静かに椅子に腰を下ろす。
彼はページを開くと、一つひとつ、丁寧に文字をなぞりながら発音してみせた。
「これは“A”。これは“B”。ひとつずつ覚えていけばいい」
「……こんなの、私にできる?」
思わず弱音のような声が漏れる。だが彼は微動だにせず答えた。
「できるようになるまで、俺が教える」
その言葉は、妙に安心感をくれた。
しばらくして、カルエゴはふと本を閉じた。
「お前には、名前があるか?」
私は黙って首を横に振る。
「呼ばれ方は?」
「……“犬”“ナイフ”“死神”……あとは、“それ”」
しばしの沈黙の後、カルエゴは低く言った。
「今日から、お前には名が必要だ。“名前”は、自分を証明するものだ」
そう言って彼は私の目を見た。
その視線はいつもと変わらず、まっすぐで、何も恐れていなかった。
「お前がこれから選ぶ生き方にふさわしい名を、一緒に探そう。だがその前に――俺の名を教えておく」
そう言って彼は、静かに口を開いた。
「俺の名はナベリウス・カルエゴお前の教師だ」
その名は、真っ直ぐに胸に刻まれた。
冷たく、鋭く、それでいてどこか、私を支えてくれる音だった。
(ナベリウス……カルエゴ)
私は声に出さずに何度も心の中で繰り返した。
そうして、私ははじめて自分の人生に“名前”という輪郭が生まれようとしていることを感じていた。
***
午後の日差しが、書斎の大きな窓からやわらかく差し込んでいた。
机の上には分厚い本が数冊積まれているが、今日は読み書きの練習ではなかった。
「今日は、名前を決める日だ」
カルエゴの言葉に、私は少しだけ息を呑んだ。
名前。
今まで持ったことのなかった、世界でたったひとつの“私だけのもの”。
「お前にふさわしい名前を、考えておいた」
そう言ってカルエゴは、書類の上に手を置いたまま、私の目をまっすぐに見た。
「だが、強制はしない。気に入らなければ、自分で決めてもいい」
私は小さく頷いた。
気に入らない、なんて思うはずがなかった。
彼が私のために考えてくれたものなら、それだけで胸が熱くなる。
「“ノア”――という名だ」
その言葉が空気を震わせた瞬間、胸の奥にぽっと灯りがともるのを感じた。
「ノア……?」
「お前がこれから穏やかな人生を送れるようにと願いを込めた」
ノア――。
呼ばれたことのない響き。
だけど、それはたしかに“私”のような気がした。
「……ノア、私はノア。私の名前……」
何度も繰り返し心の中で唱えた。
思わず口元に笑みが浮かぶ。
「ありがとう、カルエゴ……」
するとカルエゴは少し目を細め、珍しく柔らかな声で返した。
「その名に恥じぬよう生きろ。これからお前は、ノアとして歩いていく」
ノアとして生きる――。
過去のしがらみを断ち切るほどには強くなれていないかもしれない。
それでも。
私はたしかに、いま新しい一歩を踏み出したのだ。
***
カルエゴの屋敷に来てから数日。
名前をもらった日から、何かが少しずつ変わっていくのを、私は感じていた。
「今日は文字の練習をするぞ」
書斎の机の上に、真っ白な紙とインクのついた羽ペンが用意されていた。
私は机の前に座り、じっとペンを見つめる。
「これは“あ”。最も基本の文字のひとつだ」
カルエゴが、ゆっくりと見本を書いて見せる。
曲線と線がつながったその形は、不思議で、でもどこか美しかった。
「持ってみろ。手を貸す」
彼の大きな手が、私の手の上に重なり、ペンの握り方を導いてくれる。
ごつごつしていて温かい。
私はそのぬくもりに、ふと息を呑んだ。
「こうだ。力みすぎるな」
言われるままになぞってみるが、線はガタガタで、形も歪んでいた。
「……へたくそだ」
ぽつりとつぶやいた私に、カルエゴはあきれたように眉をひそめる。
「最初からうまく書ける者はいない。何事も練習だ。自分を卑下するな」
叱るような声。でも、それは私を否定するものではなかった。
「もう一度書け。焦るな」
私は息を整え、もう一度ペンを紙に滑らせる。
今度は少しだけ、線がなめらかになった気がした。
「……できた」
「そうだ、それでいい」
カルエゴは小さくうなずくと、私の書いた紙を見つめたまま静かに言った。
「お前はここから始まるんだ。新しい人生は、まず“知る”ことから始まる」
“知ること”。
今までの私にはなかったもの。
生きるために剣を握り、命令に従って人を斬ってきた手が、いまは文字を綴っている。
私は、小さく笑った。
紙の上に書かれた歪な文字が、少しだけ輝いて見えた。