蕾は、黒に包まれて目を覚ます
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その日は、朝から雨だった。
屋敷の書斎には、静かな雨音と羽ペンのかすれる音だけが響いていた。
ノアは小さなテーブルで魔術の書を読みながら、時折、そっとカルエゴの横顔に目を向けていた。
(静かだ……でも、落ち着く)
カルエゴがそばにいるだけで、不思議と心が穏やかになることにも、もう慣れ始めていた。
ふいに、ペンを置く音がして、カルエゴがこちらを見た。
「ノア。ひとつ、話がある」
背筋が自然と伸びる。ノアは素早く椅子から立ち上がった。
『何…?』
カルエゴは少しだけ視線を落とし、考えるように言葉を選んだ。
「この一年、お前は十分に力をつけた。読み書きも、魔術も、飛行も。……だが、それはすべて、ここで私に教わった範囲にすぎない」
ノアはうなずいた。けれど、その先の言葉が、想像とは少し違っていた。
「バビルス――学校だ。悪魔が通う学び舎。お前にも、そこへ通わせようと思っている」
一瞬、言葉の意味がわからなかった。
『…がっこう?』
「そうだ。学ぶ場だ。年齢も力も近い者たちの中で、刺激を受け、自分の立ち位置を知る。……お前には、それが必要だ」
ノアは小さく息を飲んだ。
バビルス――名前だけは、カルエゴの話で聞いたことがあった。そこに、自分が?
『でも、わたし…その、ひとりで』
言いかけて、言葉が詰まる。
カルエゴのそばを離れるということが、怖いのだと、今さら気づいてしまった。
そんなノアの表情を見ながら、カルエゴは静かに言った。
「私の保護下にあることは変わらない。何かあれば、すぐに対応する」
その声はあくまで冷静だったけれど、ほんのわずかに、優しさがにじんでいた。
ノアは、しばらく考えた。
新しい世界。知らない場所。けれど、自分がもっと変われるかもしれない場所。
(行ってみたい……怖いけど、でも)
ゆっくりと、ノアはうなずいた。
『うん、行ってみたい』
カルエゴは目を細め、書類の束に視線を戻した。
「制服は取り寄せてある。明日、受け取りの手配をリリィにしておけ」
それだけ言って、また静かにペンを走らせはじめた。
ノアの胸の奥に、不安と期待が小さく芽吹いていた。
彼のそばを離れるのが怖い――でも、それでも。
(きっと、私なら)
そう思わせてくれる人が、そばにいてくれたから。
***
あの日、カルエゴから「学校に行く」と告げられてから、数日が過ぎた。
屋敷の一角には、すでに用意された制服と指定の鞄、それに筆記用具や小さな魔道具が整然と並べられている。
鏡に映るその制服姿の自分を見ても、まだ実感が湧かない。
(学校……)
心のどこかで、ずっと夢のように感じていた言葉。
文字が読めず、魔術も使えず、人を信じることも知らなかった自分が、“生徒”になるという現実が、まだ少し怖かった。
椅子に座って、制服の袖を指でそっとなぞる。
リリィは「とても似合いますよ」「ノアちゃんならきっと大丈夫ですよ!」と笑ってくれた。
優しい言葉は、嬉しい。でも、それでも胸の奥には、言いようのないざわめきが残っていた。
(“普通”の生き方が……できるだろうか)
知らない場所。知らない人々。
これまで出会った誰よりも、たくさんの“魔”がいる場所に、自分は足を踏み入れることになる。
『(浮かないかな……嫌われないかな……)』
誰にも言えない不安が、そっと胸に影を落とす。
けれど同時に、心の奥で、小さな灯が揺れていた。
(でも……知りたい。世界を。もっと、強くなりたい)
カルエゴのように、誰かを守れる存在になりたい。
あの日、紅茶を口にした彼が“悪くない”と言ってくれたように、何かを認めてもらえるようになりたい。
胸に手を当てる。
その鼓動が、怖さと同じくらい、期待で膨らんでいるのを感じていた。
『……頑張ろ』
ぽつりと、小さく呟いたその声は、これまでと違って揺れていなかった。
ノアは立ち上がり、制服の襟をそっと整えた。
新しい場所、新しい出会い、そして自分の新しい一歩のために。