蕾は、黒に包まれて目を覚ます
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【カルエゴ視点】
朝の静けさに満ちた書斎で、カルエゴは書類に目を通していた。淡く香るインクの匂いと紙をめくる音だけが空間を支配している――そんな時だった。
控えめなノックの音。
誰かは言わずとも分かる。あの少女、ノアだ。
「……入れ」
そう返すと、扉が静かに開き、彼女が小さなトレイを抱えて現れた。
手には紅茶と、菓子。ぎこちない動作ながらも、彼女の瞳に宿る覚悟は明確だった。
『……練習、した。……飲んで、ほしい』
その声に、カルエゴの手が止まる。
口数が少なく、感情の起伏も少ない少女が、自分の意思で何かを差し出す。
その行為の意味を、彼は理解していた。
(……努力の跡があるな)
ティーカップを口に運ぶ。ふわりと香る葉の香り、少し濃いが、悪くない。
「……悪くない」
それが正直な感想だった。
それ以上の言葉を口にしようとした瞬間――ノアがふと、笑った。
ほんの一瞬、表情が緩んだ。
口元がやわらかくほころび、目がわずかに細められる。
(……笑った、だと?)
それは、作り物ではない。素の笑顔。心から湧いた“喜び”の表現。
胸に、何かがかすかに触れる。
感情ではなく、もっと原始的な反応――警戒でも警告でもない。
ただ、理解の及ばぬ感覚が、静かに彼の内側で波紋を描いた。
カルエゴは目を逸らすように、再び書類に視線を戻した。
「……そうか」
それ以上の言葉は出てこなかった。
だが、彼の中に、確かに何かが変わり始めていた。
あの無表情だった少女が、誰にでも向けるわけではない笑みを、自分に見せた。
(……愚かだ。こんなことで気を乱すとは)
それでも、指先が微かに紅茶の熱を残していることに気づきながら、カルエゴはもう一度、視線の先の少女を見た。
背を伸ばし、恥ずかしそうにうつむくその姿が、やけにまぶしく見えた。
***
街は、相変わらず喧しく、人であふれていた。
ノアはその隣で静かに歩いていたが、肩をすくめるようにして、少しだけ周囲を警戒していた。
鋭敏すぎるその感覚は、育ってきた環境の名残――けれど、以前よりも彼女の歩幅は、確かに自分に合わせられるようになっていた。
(慣れてきた、というべきか……)
ふと、背後から勢いよく誰かが近づいてくる気配。
殺気はない。通行人だ。だが、ノアの肩がわずかに跳ねた。
反射的に動こうとしたノアの前に、カルエゴはすっと腕を伸ばした。
「――下がれ」
その腕で、ノアの細い肩を自分の後ろへと引き寄せる。
軽い。思ったよりもずっと。
布越しに触れた感触が、驚くほどか弱くて、細い。
(……なんだ、これは)
これまで意識していなかった。
だが、こんなにも華奢だったのか、と遅れて気づく。
今まで刃のように鋭い存在として見ていた彼女が、こうして傍に立つと、あまりにも小さい。
守られることに慣れていない――そんな当たり前のことが、実感として胸に落ちる。
背後で息を呑む音がした。
驚いたのだろう。けれどその音には、ただの怯えとも違う、もっと複雑な感情が混じっていた。
振り返ると、ノアの瞳が自分を見上げていた。
何かを訴えるような、熱を帯びた視線。
そして一瞬、ほんの一瞬だけ、彼女の頬が赤らんでいるように見えた。
(……これは)
いつもの警戒でも、恐れでもない。
むしろ――戸惑いと、何か近しい感情。
それを理解する前に、カルエゴは視線をそらし、また歩き出した。
だが、背後に残った彼女の気配は、妙に意識の端に引っかかっていた。
(ただの保護対象だ。そうだろう)
なのに、なぜ。
あの肩に触れた瞬間の軽さが、今も手のひらに残っているようだった。
あの日以来、妙な違和感が胸の奥に残っていた。
ノアの肩に触れたときの感触。
わずかな温もりと、信じられないほどの軽さ。
あれがずっと、指先にこびりついて離れない。
(何を考えている……)
彼女はただの保護対象――そう、何度も自分に言い聞かせた。
過去に暗いものを抱えながらも、前に進もうとしている少女。
手を差し伸べるのは当然のことだ。
必要な知識を与え、守り、少しずつ社会に馴染ませていく――それだけのこと。
……それだけのはずだった。
なのに、ふとした拍子に思い出してしまう。
真剣に魔術の構えを取る姿。
こちらを見上げる、まだ少し不器用な視線。
そして――あの、笑顔。
初めて見た。
笑った顔なんて、それまで一度も見たことがなかった。
張りつめたような眼差しばかりだった彼女が、不意に見せたあの柔らかな表情は、明らかに異質だった。
(……くだらん)
舌打ちしそうになるのをこらえ、カルエゴは書類に目を戻す。
だが、視線の先にあるはずの文字は、頭の中にうまく入ってこなかった。
(たかが一度、笑っただけのことだ)
……本当に、それだけだろうか。
彼女がこの屋敷に来て、まだそう長い時間は経っていない。
だが、確かに少しずつ変わってきている。
読み書きを覚え、魔力を操り、魔術を習得し――それだけでなく、感情にも少しずつ、触れられるようになってきている。
その変化を、なぜか嬉しいと感じてしまった自分がいた。
(……俺が、何を考えている)
息を吐く。
肩の力が抜けないまま、椅子にもたれた。
彼女は、まだ壊れやすい。
踏み出したばかりの存在。
導くべき立場の自分が、その成長に惑わされてどうする。
だが、わかっている。
彼女が見せた笑顔は、確かに胸を打った。
あの一瞬に、何かが確かに芽吹いたのだ。
それが何かは、まだ認めるには早すぎる。
だが――
(あれが……続くなら)
また、彼女の笑顔が見たいと、そう思ってしまったことは事実だった。