蕾は、黒に包まれて目を覚ます
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「これは、“あ”。これは、“い”。」
リリィが机の向こうでやさしく声を出す。
私は鉛筆を握り、見よう見まねで文字をなぞる。
紙の上に自分の書いた線が残るのが、不思議だった。
「すごいですよ、ノアちゃん。今日だけで五文字も覚えましたね!」
リリィの笑顔に、私は目を伏せた。
「すごい」なんて言われたのは、初めてだった。
暗殺の訓練では、「早くやれ」「ミスをするな」「お前は道具だ」しか言われなかった。
でも今は違う。
私は、人として、名を持つノアとして、ひとつずつ言葉を覚えていく。
「……これは、ノ……?」
「はい、“ノ”です。ノアちゃんの“ノ”ですね」
指差したひらがなを、リリィが笑いながら読み上げてくれる。
「ノ……ア……これが、私の……」
「名前です。大切なあなたの、初めての名前」
私は自分で書いた“ノア”の文字を見つめた。
震える手でなぞったせいで形は歪んでいたけど、それでもちゃんと読めた。
「書けた……」
呟いた声に、自分で驚く。
そう、私は今、初めて“書けた”んだ。自分の名前を、自分の手で。
それだけのことなのに、胸が熱くなった。
「……誰かに読んでもらえるのって、あったかいんですね」
「え?」
「言葉って……生きてるみたい」
リリィが少し目を丸くして、それからやさしく微笑んだ。
「そうですね。言葉は、気持ちを届けるものですから」
私は、書き上げた“ノア”を両手で包むように持ち、もう一度じっと見つめた。
この名前で、これから何を話して、何を伝えていこう。
そんなことを考えながら、私は小さく笑った。
***
「ノア。今日はここまでにしておけ」
カルエゴが低く声をかけたとき、私はまだ筆を握っていた。
机の上には、何度も練習した文字――自分の名前や、短い単語が並んでいる。
でも、まだ足りない。
私は言葉で、カルエゴに何かを伝えたいと思った。
リリィが言っていた。「言葉は、気持ちを届けるもの」だと。
なら、私は――。
「カルエゴ」
まだ拙い声。呼吸も緊張で上手くできなかった。
けれどカルエゴは、きちんとこちらを見てくれた。
その視線があまりに真っ直ぐで、思わず目を伏せそうになったけれど……がんばって前を向いた。
「わたし、もっと……覚えたい。たくさん、言葉、知りたい」
「理由は?」
短い問い。
でもその中に、確かに“信じている”という温度があった。
私は、ぎゅっと指先に力を込めて、答えた。
「カルエゴと……はなしたいから」
「……」
「もっと、ちゃんと。私のこと、私の気持ち…言葉で伝えたい」
カルエゴはしばらく黙っていた。
目を伏せて、答えを待つ時間が長く感じる。
だが次の瞬間、彼の口元がわずかに緩んだ。
「そうか。それなら……好きなだけ学べ。お前の言葉を、俺は待っている」
心が、じんと熱くなった。
こんな気持ち、知らなかった。
私の言葉を、誰かが「待っていてくれる」なんて。
だから、私は学ぶ。もっと、正しく、強く、生きるために。
「……ありがとう、カルエゴ」
その日は初めて、言葉を“届けられた”日だった。
***
カルエゴと別れて部屋に戻る途中、廊下の窓から風が吹き込んだ。
外の空は淡く茜色に染まりはじめていて、それがなんだか、自分の胸の中にも広がっていくようだった。
自分の気持ちを、伝えられた。
その実感が、心の奥に小さな灯りをともす。
扉の前に立ったとき、ノックの音が聞こえた。
「ノアちゃん、失礼しますね。今日の教材を片付けに――」
「リリィ」
思わず、呼び止めていた。
リリィはちょっと驚いたように立ち止まり、私に向き直る。
「どうかしましたか?」
私は言葉を選ぶのに少し時間がかかった。
けれど、言わなきゃいけないことがある。心の底から、伝えたいことが。
「……ありがとう」
リリィは、きょとんと目を見開いた。
「今日まで……いっぱい、教えてくれて。やさしくしてくれて。わたし……ほんとうに、うれしい」
たどたどしい言葉だったかもしれない。
でも、私にとっては、やっとの想いだった。
「ノアちゃん……」
リリィはゆっくりと、私の頭に手を置いた。
その手のひらはあたたかくて、あの頃、冷たい闇の中で凍えた自分には知らなかった感触だった。
「わたしの方こそ、ありがとうですよ。ノアちゃんががんばってくれるから、私も嬉しいんです」
私はうなずいた。
涙は出なかったけど、胸の奥がじんとあたたかくなった。
伝えられる言葉があるって、こんなにも心を満たしてくれるんだ。
「また、あしたも……がんばる」
「ええ。明日は“す”から始めましょうか」
「うん」
私は、うなずくだけだった。
でもそれは、ただの反応じゃない。
心からの、決意だった。
笑えなくてもいい。
けれど私はもう、“無”のままじゃない。
私はノア。
名前を持つ、ひとりの人間。
そして今、ようやく……人と心を繋げるための“言葉”を、手に入れはじめたのだ。
リリィが机の向こうでやさしく声を出す。
私は鉛筆を握り、見よう見まねで文字をなぞる。
紙の上に自分の書いた線が残るのが、不思議だった。
「すごいですよ、ノアちゃん。今日だけで五文字も覚えましたね!」
リリィの笑顔に、私は目を伏せた。
「すごい」なんて言われたのは、初めてだった。
暗殺の訓練では、「早くやれ」「ミスをするな」「お前は道具だ」しか言われなかった。
でも今は違う。
私は、人として、名を持つノアとして、ひとつずつ言葉を覚えていく。
「……これは、ノ……?」
「はい、“ノ”です。ノアちゃんの“ノ”ですね」
指差したひらがなを、リリィが笑いながら読み上げてくれる。
「ノ……ア……これが、私の……」
「名前です。大切なあなたの、初めての名前」
私は自分で書いた“ノア”の文字を見つめた。
震える手でなぞったせいで形は歪んでいたけど、それでもちゃんと読めた。
「書けた……」
呟いた声に、自分で驚く。
そう、私は今、初めて“書けた”んだ。自分の名前を、自分の手で。
それだけのことなのに、胸が熱くなった。
「……誰かに読んでもらえるのって、あったかいんですね」
「え?」
「言葉って……生きてるみたい」
リリィが少し目を丸くして、それからやさしく微笑んだ。
「そうですね。言葉は、気持ちを届けるものですから」
私は、書き上げた“ノア”を両手で包むように持ち、もう一度じっと見つめた。
この名前で、これから何を話して、何を伝えていこう。
そんなことを考えながら、私は小さく笑った。
***
「ノア。今日はここまでにしておけ」
カルエゴが低く声をかけたとき、私はまだ筆を握っていた。
机の上には、何度も練習した文字――自分の名前や、短い単語が並んでいる。
でも、まだ足りない。
私は言葉で、カルエゴに何かを伝えたいと思った。
リリィが言っていた。「言葉は、気持ちを届けるもの」だと。
なら、私は――。
「カルエゴ」
まだ拙い声。呼吸も緊張で上手くできなかった。
けれどカルエゴは、きちんとこちらを見てくれた。
その視線があまりに真っ直ぐで、思わず目を伏せそうになったけれど……がんばって前を向いた。
「わたし、もっと……覚えたい。たくさん、言葉、知りたい」
「理由は?」
短い問い。
でもその中に、確かに“信じている”という温度があった。
私は、ぎゅっと指先に力を込めて、答えた。
「カルエゴと……はなしたいから」
「……」
「もっと、ちゃんと。私のこと、私の気持ち…言葉で伝えたい」
カルエゴはしばらく黙っていた。
目を伏せて、答えを待つ時間が長く感じる。
だが次の瞬間、彼の口元がわずかに緩んだ。
「そうか。それなら……好きなだけ学べ。お前の言葉を、俺は待っている」
心が、じんと熱くなった。
こんな気持ち、知らなかった。
私の言葉を、誰かが「待っていてくれる」なんて。
だから、私は学ぶ。もっと、正しく、強く、生きるために。
「……ありがとう、カルエゴ」
その日は初めて、言葉を“届けられた”日だった。
***
カルエゴと別れて部屋に戻る途中、廊下の窓から風が吹き込んだ。
外の空は淡く茜色に染まりはじめていて、それがなんだか、自分の胸の中にも広がっていくようだった。
自分の気持ちを、伝えられた。
その実感が、心の奥に小さな灯りをともす。
扉の前に立ったとき、ノックの音が聞こえた。
「ノアちゃん、失礼しますね。今日の教材を片付けに――」
「リリィ」
思わず、呼び止めていた。
リリィはちょっと驚いたように立ち止まり、私に向き直る。
「どうかしましたか?」
私は言葉を選ぶのに少し時間がかかった。
けれど、言わなきゃいけないことがある。心の底から、伝えたいことが。
「……ありがとう」
リリィは、きょとんと目を見開いた。
「今日まで……いっぱい、教えてくれて。やさしくしてくれて。わたし……ほんとうに、うれしい」
たどたどしい言葉だったかもしれない。
でも、私にとっては、やっとの想いだった。
「ノアちゃん……」
リリィはゆっくりと、私の頭に手を置いた。
その手のひらはあたたかくて、あの頃、冷たい闇の中で凍えた自分には知らなかった感触だった。
「わたしの方こそ、ありがとうですよ。ノアちゃんががんばってくれるから、私も嬉しいんです」
私はうなずいた。
涙は出なかったけど、胸の奥がじんとあたたかくなった。
伝えられる言葉があるって、こんなにも心を満たしてくれるんだ。
「また、あしたも……がんばる」
「ええ。明日は“す”から始めましょうか」
「うん」
私は、うなずくだけだった。
でもそれは、ただの反応じゃない。
心からの、決意だった。
笑えなくてもいい。
けれど私はもう、“無”のままじゃない。
私はノア。
名前を持つ、ひとりの人間。
そして今、ようやく……人と心を繋げるための“言葉”を、手に入れはじめたのだ。