溺れる鳥と飛びたい魚


 ある日、漁港で人魚が釣れた。
 つけていた腕輪に釣り針が引っ掛かったようだった。
 防波堤の先を下半身を上下に叩いて、人魚はこわばった表情で、青年に訊ねる。
「食べ……ないんですか?」
「え、いらないけど。なんで?」
 釣った青年はそう返した。
 釣り人というには軽装な出で立ちから、近所の人間なのだろう。釣り竿しか持っていない。その釣り竿の具合をじろじろ確かめている。
 人魚には何の興味も関心もないようにも見えた。
「人魚を食べると、不老不死が手に入るんです」
「ああ……らしいね。聞いたことはあるよ」
「食べないんですか?」
 さも意外そうに人魚は重ねて青年に訊ねる。
「うん。不老不死とか、興味ないし。多分だけど、このへんの人はみんなそうじゃないかな」
 釣り竿が折れたりしていないのを確認して、竿を引っ込めた。
 獲物をどうするつもりもないという仕草だ。
「どうしてですか」
「昔は貴重だったみたいだけど、今は医療が発達して、嫌でも長生きできちゃうんだよ。でも、まぁ、探せば人魚の肉が欲しいって人もいるんだろうけど……探して欲しいの?」
 青年は、ようやく足元の人魚に視線を落とした。
 ぼんやりと、人魚って裸か貝殻つけてるわけじゃないのか等と考える。殆ど裸のようなものには違いないが。
 肩より長い髪は、白銀の光沢を帯びて輝きを放つ。不思議な色だ。
 出で立ちを眺めながら、人魚の言った言葉について青年は考える。
 探す手立てが無いわけではないが、と。
「その人たちに売らないのですか?」
「売って欲しいの? そりゃ、良いお金にはなるだろうけど」
「売られたいわけでは……」
「なら逃がしてあげるから帰りなよ。こんなところ、そんな姿でウロウロしてたら本当に変な人に捕まっちゃうよ」
「…………」
 人魚は言われるがまま、ちゃぷんと尾びれを海に沈める。だが、顔は青年を向いたまま、視線もじっと彼を見つめていた。
 ゆっくりと体を沈めていく。顔が半分近く浸かっても、両手はついたまま。何か言いたげな表情で。
 青年の脳裏に、『土左衛門』という言葉が浮かぶ。
 正直、ちょっと怖い。
「帰りたくないの?」
 青年は息をついて、防波堤に膝をついて身を乗り出す。
「………」
「食べられたらもう、会えないでしょ。せっかく綺麗なのに」
 じっと見つめて来る顔を覗き込むようにして、堤防の際にしゃがみこむ。不思議な色の髪が波に揺れている。
 海の底のような色の瞳が光に当たって波の色へと変わる。
「食べられたり捕まったりしていなくなるの勿体ないよ」
「……また、会える……?」
「うん、いつでもいいよ。また会お」
 不安そうに見上げてくる、波の色に滲んだ瞳を宥めるように見返して、微笑む。
 押し付けるようにして掌を見せ、横に振る。
 行っていい。の合図だった。
 波紋の真ん中がこぽ、と沈んで泡を残した。
 真っ直ぐに沈んで行く黒い影は、丸く小さく。少し左右に散るように伸びるそれは海藻のようにも見える。
 知らないで見ていたら、クラゲのように思えるのだろうか。
 音もなく、静かに。そして、あっ、という間に。それは海の奥底へと沈んで行く。
 ゆっくりと浮かんでくる、小さな泡、少し大きな泡。それらを押し流すように、打ち寄せて来た波がかき消す。
 青年は堤防を後にする。
 傍らの海面を眺めながら。そのずっと下の方で、青年の影に重なるように遠くでひらひらとついて来る、海藻のようなものを見つめて。
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