寂寥の時節≪せきりょうのとき≫


 庭に立ち、濡れ縁を見上げる。大きく横長なガラス戸を開けた四角い空洞は影を落として、しん、と静まり返っている。
 縁側のすぐ正面には花壇があり、初夏に植えたひまわりが群がって咲いている。
 その脇には支柱を立てた小さな鉢植えがひとつ置いてある。白、紫、青の朝顔がその中で花を咲かせていた。
 蝉の声が遠く、静かな朝だった。
 昨日までの出来事が嘘のように。
 庭先に立つ制服姿の少女は、いつものようにホースから水を撒こうと、シャワーノズルに手を掛ける。そして、しばし放心したように花壇と蛇口周りを見比べる。それから発射口の向きを傍らの浅いバケツへと変える。わざと少し距離を置いて勢いよくその中へと水を送り込む。
 容器のギリギリ、溢れ返りそうになったところで給水を止める。
 少しばかり重いそのバケツをしっかりと抱え上げ、立ち上がる。反動で服が濡れるのも構わず。そして、全身を使って回転をつけ、勢いよくそれを放り投げた。
 勢いのついた水は高く、舞い上がり宙で大波のように弧を描く。飛沫を撒き散らしながら地面を濡らした。
 太陽光に照らされてきらきらと輝きながら滴る水滴を眺めながら、縁側に倒れ込んだ。
 勢いよく飛んだバケツが塀にぶつかり、少し嫌な音を立ててゴロゴロと転がった。
 びっしょりと濡れて色が変わったセーラー服。泥だらけのサンダル。ぬかるんだ地面。バランスの悪い水やり。
 惨状にも近い庭の景観。
 飛び散った水は縁側をも濡らし、飛沫は奥のガラス戸にも微かに届いている。
 けれども誰も、それを咎めはしない。
「もう、怒る人いないもーん」
 歌うように呟いて、少女は満面の笑みを浮かべた。
 何もかもをも構わず、縁側にゴロリと転がる。
 サンダルの片方は倒れ込んだ時に軽い円を描いて離れたところに落ちた。もう片方は、片足の先っぽにぶら下がるようにして揺れ、地面へと逆さに落ちていった。
 足が軽くなって、唇に浮かべた笑みが喉を鳴らし、声になって小さく放たれた時、良く透る男の声がした。
「おはようございます」
 玄関の方から、足音も立てずに現れた黒衣。
 真っ直ぐに伸びた長身は、纏う黒い袈裟と日の当たらない位置と相俟って、ひとつの影のようだ。
 丸められた頭よりも、足先の、下駄を履いた白い足袋が妙に目立つ。
 少女は両腕を真上に持ち上げ、反動を付けて上体を起こす。
「おはようございます。御坊」
 男は少女の家の隣に寺院を構える、年若い住職だった。
 現在の少女にとっては、保護者にも近い、一番身近な大人といえた。

 少女の家は古く、小さな平屋。
 寺とは、現在の住職の先代が他界するよりも以前からのお隣様だった。
 元々少女の父の生家だったその平屋は、祖母との同居に伴って戻ってきた父、その妻と娘の四人で暮らしていた。同居のきっかけは祖父の他界に伴う祖母の介護のためだった。
 今は祖父も、――その祖母も、両親もが、隣で眠っている。
 母が祖母の介護から解放されたのは去年の秋頃だった。突如体調を崩した祖母は少し離れた大きな病院に入ることになった。その容態が急変したのが、つい先日のこと。
 電話があったのは深夜だった。
 病院へと急いだ両親の乗った車が事故に巻き込まれた。祖母も持ち直すことなく、両親の訃報が届くより先に息絶えた。そして、病院に搬送された両親もそのまま――。
 一夜にして、少女は独りになった。
 通夜、葬式を終えたのが、ちょうど昨日のことだ。

 そんな境遇であることを全く意に介した様子になく、少女は笑っている。
「酷い有様ですね」
 若い住職は、庭にちらりと視線を向けて、苦笑を浮かべる。
 長い袖の片方をもう片方の手で押さえ、お辞儀のような所作で足下に転がったバケツを拾い上げる。そっと、庭の隅に添えるように置いた。
 少女は僧侶の動きを眺めながら、脳の片隅で、そんなところに――などと思う。
「いつまでそうしているのですか」
 溜息交じりにその言葉に、少女はつーんと顔を背ける。
「すぐに乾くよ。それにどうせもう、誰もいないんだからいいでしょ」
「……ご家族は哀しまれますよ」
「わたしは悲しくないもの。いなくなって、とっても清々してる!」
 ふふん、と得意げに腕を組んだ。
 住職は小さく息をはく。ぬかるみの酷くないところを選ぶように庭へと踏み込む。
 落ちたサンダルを片方ずつ拾い上げると、屈んで踏み石の上に揃えて並べた。
 少女がそれを目で追っていると、顔を上げた住職と目が合ってしまう。
「それでも、お祈りぐらいはしましょう。お隣なんですから。ーーさ、どうぞ一緒にいらっしゃい」
 差し出された手から、少女は目をそらす。
 その幼子のような素振りに、住職は苦笑を漏らした。
「では、気が向いたら、後からでも構いません。また様子を見に来ますので、貴方もいつでもいらっしゃい」
 手を下げ、立ち上がる。軽く裾を払い、背を向けると訪れた時と同じように静かに去って行く。
 少女はずっと顔を背けていたが、気配がなくなると顔を上げ庭から玄関へと視線を滑らせた。
 はじかれたように立ち上がり、踏み石に足を下ろす。置かれたサンダルを履こうとして、蹴っ飛ばしてしまい、もたつく足にいらいらする。慌てて拾い上げて足を乱暴に突っ込み、庭を駆け抜け、扉のない門壁に手を置く。
 そのまま勢いよく外へ出ようとして、聞こえてきた声に足を止めた。
「ああ御坊、ご苦労様です」
 声は寺と少女の家の向かいに住む老婆だった。少女の祖母とは長い付き合いのある。
「さっきまた音がしましたけど……今年もですか」
 老婆の声は低く、怪訝そうだ。足を止め、会釈を返す住職は老婆の言葉に困った様子だった。
「……盆も近いので」
「もう何年になるか……いい加減気味が悪くてねぇ。早く取り壊してくれないかしら」
 住職は微苦笑を浮かべたまま何も言わない。
「あらやだ、足止めして」
「いいえ。お勤めがございますので、また」
「ええ。また寄らせてもらいますよ」
 互いに会釈をして、老婆の方が先に去って行く。
 住職はこちらにしばし背を向けたまま老婆の姿を見送るように佇んでいる。
 少女は住職を追うかどうか、迷って門壁の影に身を潜めていた。
「出てきて構いませんよ」
 住職は塀に向かって振り返っていう。
 少女はそっと顔を覗かせた。
「聞いていましたか?」
 穏やかに訊ねられ、少女は少し迷って首を振る。
「なんのお話だったの?」
「そろそろお盆ですね」
 少女が見上げて問うと、住職は笑う。
「お寺は忙しいもんね」
 そう言うと、住職の黑い袈裟の袖を、摘まむようにして握る。
 住職は何も言わずに、微笑む。
「ええ。手伝って頂けると有難い」
「……気が向いたらね」
 少女が住職の顔をちらりと見上げるように言う。表情の見えない少し遠い横顔。口角がほんのわずかに上がるのを見て、少女もそっと俯いて笑った。

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