温めてくれない
大学卒業と共に一人暮らしを始めた。何もかも真新しい家具や生活用品で囲まれた小さな自分だけの城。
なんの不満もない――はずだった。
と言うのも、実家を出てからどうにも眠りが浅い。
新生活に慣れない。
買ったばかりの寝具の寝心地に慣れない。
始まったばかりの社会人生活に慣れない。
心当たりは山ほどあった。
「眠そうな顔してるな」
今日も先輩上司に肩を叩かれる。
「早く布団に帰りたいんです」
「布団が恋人とはよく言ったモンだよな。けど若いんだから、シャキッとしろよ」
腑抜け面の僕を叱咤して、先輩は颯爽とオフィスの中へと消えていく。
少し強く押された背に押し付けられた手の感触が重たい。
真新しい買ったばかりの腕時計に視線を落とす。
就業開始の時間まで、後十五分。
「朝、布団が恋しくない奴なんていないって……」
あくびを噛み殺す脳内で、懐かしい光景が流れ出す。
これも白昼夢というのだろうか。――朝だけれども。
朝の日差しがカーテンの隙間からガラス越しに顔を覗かせている。頭の上でけたたましく鳴く目覚し時計。
『お布団は気持ちがいいでしょ? 出たくないでしょ?』
耳元で囁く優しく心地のいい誰かの声に、僕は呻くように頷く。
『お布団が貴方のことを大好きだからなの』
懐かしい声が、白いもやのかかり始めた脳に響く。
そうか。
と、僕は迷わず方向転換し、入りかけた扉に背を向ける。
追いかけて来るかのように、声はさらに響いて来る。
『あなたは布団を好きだと思ってるんでしょう? みんなそう言うの。でもね、本当は布団があなたのことを離したくないぐらいに好きなのよ』
その日、とある会社で新入社員が仕事を休んだ。
彼は朝、職場に出勤しようとしていたと社員の男性は言う。同時に、ビルの手前で引き返す姿を目撃したという声もあった。
会社は彼に連絡したが、応答はなく無断欠勤扱いとした。
一人暮らしを始めた彼の部屋にも姿はなく、実家にも姿を見せていないという。
翌日、実家の押入れに仕舞われた布団の間から彼の腕時計だけが見つかった。