夏の二人
「どうかしたの? この部屋に、何か用事?」
音のしない教室を覗き込んでいた俺は、背後からの声に飛び上がった。
情けない声を上げ、弾かれたように振り返る。そのまま後退ったものだから、背中を勢いよく教室のドアにぶつけた。結構な音を立てて、背後のドアが震える。
「ごめんなさい。急に声をかけたから……そんなに驚くと思わなかった」
目の前に立った女子生徒は目をぱちくりとさせながら、両手を合わせた。そして、ちらりと鍵をかざして見せると、俺の背後のドアを指で示す。慌ててカニのように横にずれた。
「あ、えっと、一昨日かな。ここで何か弾いてた?」
「ここのオルガンのこと?」
解錠したドアを開いて、彼女はどうぞと俺を部屋へと促す。中に入った彼女は教室の電気を点けて奥へと迷わず向かう。
俺はその後に続く。足を踏み入れると、中は少し埃っぽい。あまり使われていない、独特の匂いがした。
これのことじゃない? と彼女は俺に訊ねるようにしながら、大きな布をまくり上げる。布の下から出てきたのは、以前に見た茶色い箱だった。
「そう、それ!」
「一昨日かはわからないけど、ほとんど毎日先生に頼んで使わせてもらってるよ」
言って、彼女は箱の前に座る。俺の位置からだと、裏に回るような形だ。そっと足を寄せると、白い鍵盤が見えた。
流れ出したメロディに思わず言葉と、突きつけるように指が飛び出した。
「その曲! ショパン? のなんて曲?」
「これは、ショパンじゃないよ」
彼女は少し驚いたような目を、俺の指先に向ける。鍵盤の上の両手の動きと、奏でられている音に、乱れや淀みはないまま。
「これは、バッハの曲。J.S.バッハの『G線上のアリア』だよ」
「えっ」
彼女の言葉に、気恥ずかしさとショックを受け、顔が熱くなるのがわかった。背筋には変な汗まで噴き出してくる。小首を傾げながらも、鍵盤に視線を戻した彼女から、そっと顔を背けた。
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