溺れる鳥と飛びたい魚
軒の上には青い看板。暖簾はなく、準備中の札が出ている格子状に木で出来た両引き戸。もうじき夕刻を迎えて飲み屋となる店の扉を、青年は躊躇なく開いた。
「ただいま」
「おう、氷魚。釣れたか」
包丁の手入れをしながら、カウンターに立つ板前風の男。氷魚と呼ばれた青年の叔父に当たる。
「ぼうずだよ。ここ魚いないんじゃない」
「んなわけあるかよ! んなら、今日も店で出すもんがねぇな」
豪快に笑いながら、裏口から外に出ていく。裏にある冷凍庫に材料を取りに行くのだろう。それとも、生け簀の魚だろうか。
「大人しく漁協の競りに行きなよ」
ぽつりと呟きつつも、本気でアテにされているとは思っていない。
毎朝、早くに仕入れに行っているのを知っている。
「あら、ヒオちゃん。お帰りなさい」
「ただいま、叔母さん」
裏口に消えた叔父と入れ代わりに、奥から叔母が出てくる。家の家事を終えたのだろう。
「なにかやることはある?」
「あらいいのよ、何にもしなくて。店のこともね。どうせあの人の趣味みたいなもんなんだから」
明るく手を前でパタパタさせながら笑う。小声にしたつもりだろうが、声のトーンは全く下がっていない。
「馬鹿野郎。どこが趣味だ」
戻って来た叔父が叔母に向かって低く怒声を飛ばす。怒声、と言っても本気で怒ってるわけでは、全くない。
「あら、聞こえちゃった。うふふ」
この夫婦はいつもこんな調子だから。
「……ありがと。じゃ、上に居るね」
「明日は頑張ってくれよ!」
「やめなさいってば」
二人に小さく伝えて、カウンターの前を通り過ぎようとした時、叔父からの軽口が飛んでくる。その肩を叔母さんが叩いていた。
はた、と足を止めて、訊ねてみる。
「あ、ねえ。叔父さんと叔母さんは、人魚の肉って食べたいと思う?」
二人は虚を突かれたような、豆鉄砲を食らったような顔をした。一瞬停止した後、同時に声を上げて笑い出した。
三人しか居ない店内に、笑い声が広がる。
ガラリと音がして、先ほど氷魚も通った引き戸が開かれる。
「随分と賑やかだね。もう開いてんのかい?」
見慣れた常連の顔だった。近所に住む親父の一人だ。
「んなわけあるか! うちの開店は十七時だ!! おめえさんは何年通ってんだよ。まだ暖簾も出してねぇだろ!」
「そりゃあすまんな」
かかっと一笑に付して、カウンターの端を陣取って座る。
「開いてねぇっつってんのによぉ」
全くもう、と憤慨したように悪態を付きながらいそいそと準備を始める。
本気で怒っている訳でないのは誰もが承知のことだ。
しかし、と
「叔父さん、もう開店時間回ってる」
氷魚は短い針が五を、長い針がてっぺんを過ぎた店の時計を指して言う。
「なんだと?! おい、さっさと暖簾上げて来い!」
指摘されて、叔父は叔母に向かって顎で使うようにして言う。そんな叔父に溜息をついて、氷魚はカウンターを出ようとする叔母を制した。
「いいよ、叔母さん。俺が上げて来る」
笑い声をあげている常連に向かって、頭を下げ、暖簾を手に店の戸をくぐる。
軒先に暖簾を引っ掛けて吊るし、外の明かりにスイッチを入れて、中に戻る。
「ありがとね、ヒオちゃん」
常連に酒を出していた叔母がそう言って肩を叩いた。
「ううん。じゃ、上にいるね」
「どう? 氷魚くん、一杯」
常連は楽しそうに徳利を持ち上げ、氷魚に向かって軽く振る。
「また今度、つまみが釣れた日にお願いします。おじさんに叱られますんで」
言葉の後半は手を添えて小声にしたが、カウンターから、一際大きく包丁がまな板にぶつかる音がした。
「じゃ、ごゆっくり」
常連と叔母にちらりと舌を見せ、飄々とした笑みを見せると店の奥へと消えていった。
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