寂寥の時節≪せきりょうのとき≫
手を伸ばそうとした時、その母の姿が滲む。蜃気楼のように揺らいで消えてしまった。
再び、リーンと澄んだ音が聞こえて、少女は目を覚ます。
砂利の上。線香の香りが漂ってくる。
目を開けると、すぐ目の前が墓地だった。
本堂から裏に少し登ったところだとすぐに分かる。
茂った草の向こうに、今にも崩れそうな小さな家があった。
「……わたしの家」
呟いてみるが、とてもそれと認識することはできない。
少女の記憶とはあまりに違っていたからだ。
よろよろと、坂を下る。
読経は止んでいるようだ。
まだ身体は重たいが、歩けないほどではなかった。視界も思考もはっきりしている。
寺門へと歩みを進めた。
寺の外に出ると、空気が違う。更に体が軽くなるようだった。
足を速めて、家へと駆け戻る。玄関前を通り過ぎて、庭に抜けた。
生い茂った雑草。壁に伝う蔓。
人が住んでいる家には、どう見ても思えないだろう。
花壇には花もなく、朝顔が咲いていたはずの鉢は支柱が刺さっているだけ。
枯れてすらいない。そこには何もなかった。
ひびの入ったバケツだけが、玄関横の壁に丁寧に置かれている。
さっきぶちまけた水は、まだ乾き切っていない。
水道をひねると、水が出る。ひびの入ったバケツから、水はどんどんと溢れて流れていく。 少女は庭をうろうろと歩いた。
「あ~また。だれの仕業や」
背後から、聞き覚えのある嫌な声だ。
「こんな家、誰も寄り付かん言うのに……なんでこんな……」
老婆は曲がった腰で少女の前を素通りする。ぶつぶつと独り言を言いながら水道の水を止める。忌々しげに家を見上げて、震え上がるように首を振る。そそくさと玄関を出て行った。 足が弱っているらしい老婆は、少女の記憶よりも随分と老け込んでいる。
後ろをついて歩くようにして玄関まで見送る。
老婆はちらりとも少女を見なかった。
少女は迷いながら、玄関の門を出る。振り返ってみた家は、もう自分の家のようには思えなかった。
――だけど、完全に離れることもできない。
脇にずるずるとしゃがみ込んだ。
膝を抱えて、額を置く。
思い返してみると、父と母が死んだ後のことがきちんと思い出せない。昨日のことなのに。 忙しく、ばたばたしていたような気がしていた。
ふと自分の体を覆った影に気付く。
囲った腕の隙間から、白い足が見えて重たい顔を持ち上げる。
悲愴な面持ちをした住職の顔が、近くにあった。
「乱暴なことをしました」
すまなそうに告げる住職の表情は、ひどく蒼い。
「御坊にそんな顔をされたら、文句も言えないじゃない」
そう、泣き笑いのような表情を浮かべた。
「私、いつ死んだの」
住職に手を引かれながら、三度目の道を歩く。
「今年で丁度、五年になります」
「……そう」
さっきと同じように階段を上り、寺門をくぐる。
ふしぎと、数刻前に感じた不快感は訪れなかった。
むしろ晴れ晴れと、体が更に軽くなったような気さえする。
住職の手を離し、少女は軽い足取りで歩き出す。
今なら風に乗って飛んでだっていけそうだなんて、そんなことを思う。
通り抜ける風が心地いい。
「わたし、ずっと家に居たの。夜中に電話が鳴って、お父さんがお婆ちゃんが危ないって叫んだ……慌ただしく二人が車に乗り込んだ……」
二人が車に乗って病院に行き、事故に遭った。少女は自分は家にいて、助かったんだと思っていた――そう話す。
「お通夜もお葬式も終わって、一人になったと思ってた。家も庭も、自分だけのものになったって。それが嬉しかった」
少女は家の方を見る。
寺の壁に囲まれて、家は見えない。
見えるところに行こうとしてか、自然と足が墓地の方へと向く。
「ぜんぶ、まちがってたんだね」
住職はじっと目を閉じて、少女の後ろを歩いていた。
「毎年、この日を迎えると隣の家から物音が聞こえていました。貴方は毎朝庭の花壇に水をあげていましたから」
少女はさっき倒れた墓の前で足を止める。
墓地に入ってすぐの中央、一際大きく目を惹く墓石が立っている。
「さっきここでお母さんに呼ばれたの。あんなに嫌だと思っていたのに、消えてしまうのを見たら追いかけたくなっちゃった」
住職を振り返りながら微笑む。
「行って差し上げるといい。きっと待っていますよ」
「うん……迎えに来てくれてるうちに、かえらなきゃ、ね……」
俯いた少女の背を、住職は静かに見つめた。
「もう一度、お経読んでもらえるかなあ」
「勿論」
「今度はちゃんと聞いてるから」
もう一度振り返った少女の目に、微かに笑んだような住職が映る。
住職は少女に、そして目の前の墓石に一礼する。両手を胸の前で合わせ、数珠を微かに鳴らした。
よく透る張りのある声が経を読み上げる。
その声に包まれるような心地で、少女も目を閉じた。
「御坊。――ありがとう」
読経を終えた住職の耳に、微かに少女の声が聞こえたような気がする。
澄んだ鈴の音を、高く響かせる。
住職は深く、長く頭を下げると、昇っていく線香の煙をいつまでも見上げた。
その日から、隣家で起こる変事の一切が耐えたと云う――
再び、リーンと澄んだ音が聞こえて、少女は目を覚ます。
砂利の上。線香の香りが漂ってくる。
目を開けると、すぐ目の前が墓地だった。
本堂から裏に少し登ったところだとすぐに分かる。
茂った草の向こうに、今にも崩れそうな小さな家があった。
「……わたしの家」
呟いてみるが、とてもそれと認識することはできない。
少女の記憶とはあまりに違っていたからだ。
よろよろと、坂を下る。
読経は止んでいるようだ。
まだ身体は重たいが、歩けないほどではなかった。視界も思考もはっきりしている。
寺門へと歩みを進めた。
寺の外に出ると、空気が違う。更に体が軽くなるようだった。
足を速めて、家へと駆け戻る。玄関前を通り過ぎて、庭に抜けた。
生い茂った雑草。壁に伝う蔓。
人が住んでいる家には、どう見ても思えないだろう。
花壇には花もなく、朝顔が咲いていたはずの鉢は支柱が刺さっているだけ。
枯れてすらいない。そこには何もなかった。
ひびの入ったバケツだけが、玄関横の壁に丁寧に置かれている。
さっきぶちまけた水は、まだ乾き切っていない。
水道をひねると、水が出る。ひびの入ったバケツから、水はどんどんと溢れて流れていく。 少女は庭をうろうろと歩いた。
「あ~また。だれの仕業や」
背後から、聞き覚えのある嫌な声だ。
「こんな家、誰も寄り付かん言うのに……なんでこんな……」
老婆は曲がった腰で少女の前を素通りする。ぶつぶつと独り言を言いながら水道の水を止める。忌々しげに家を見上げて、震え上がるように首を振る。そそくさと玄関を出て行った。 足が弱っているらしい老婆は、少女の記憶よりも随分と老け込んでいる。
後ろをついて歩くようにして玄関まで見送る。
老婆はちらりとも少女を見なかった。
少女は迷いながら、玄関の門を出る。振り返ってみた家は、もう自分の家のようには思えなかった。
――だけど、完全に離れることもできない。
脇にずるずるとしゃがみ込んだ。
膝を抱えて、額を置く。
思い返してみると、父と母が死んだ後のことがきちんと思い出せない。昨日のことなのに。 忙しく、ばたばたしていたような気がしていた。
ふと自分の体を覆った影に気付く。
囲った腕の隙間から、白い足が見えて重たい顔を持ち上げる。
悲愴な面持ちをした住職の顔が、近くにあった。
「乱暴なことをしました」
すまなそうに告げる住職の表情は、ひどく蒼い。
「御坊にそんな顔をされたら、文句も言えないじゃない」
そう、泣き笑いのような表情を浮かべた。
「私、いつ死んだの」
住職に手を引かれながら、三度目の道を歩く。
「今年で丁度、五年になります」
「……そう」
さっきと同じように階段を上り、寺門をくぐる。
ふしぎと、数刻前に感じた不快感は訪れなかった。
むしろ晴れ晴れと、体が更に軽くなったような気さえする。
住職の手を離し、少女は軽い足取りで歩き出す。
今なら風に乗って飛んでだっていけそうだなんて、そんなことを思う。
通り抜ける風が心地いい。
「わたし、ずっと家に居たの。夜中に電話が鳴って、お父さんがお婆ちゃんが危ないって叫んだ……慌ただしく二人が車に乗り込んだ……」
二人が車に乗って病院に行き、事故に遭った。少女は自分は家にいて、助かったんだと思っていた――そう話す。
「お通夜もお葬式も終わって、一人になったと思ってた。家も庭も、自分だけのものになったって。それが嬉しかった」
少女は家の方を見る。
寺の壁に囲まれて、家は見えない。
見えるところに行こうとしてか、自然と足が墓地の方へと向く。
「ぜんぶ、まちがってたんだね」
住職はじっと目を閉じて、少女の後ろを歩いていた。
「毎年、この日を迎えると隣の家から物音が聞こえていました。貴方は毎朝庭の花壇に水をあげていましたから」
少女はさっき倒れた墓の前で足を止める。
墓地に入ってすぐの中央、一際大きく目を惹く墓石が立っている。
「さっきここでお母さんに呼ばれたの。あんなに嫌だと思っていたのに、消えてしまうのを見たら追いかけたくなっちゃった」
住職を振り返りながら微笑む。
「行って差し上げるといい。きっと待っていますよ」
「うん……迎えに来てくれてるうちに、かえらなきゃ、ね……」
俯いた少女の背を、住職は静かに見つめた。
「もう一度、お経読んでもらえるかなあ」
「勿論」
「今度はちゃんと聞いてるから」
もう一度振り返った少女の目に、微かに笑んだような住職が映る。
住職は少女に、そして目の前の墓石に一礼する。両手を胸の前で合わせ、数珠を微かに鳴らした。
よく透る張りのある声が経を読み上げる。
その声に包まれるような心地で、少女も目を閉じた。
「御坊。――ありがとう」
読経を終えた住職の耳に、微かに少女の声が聞こえたような気がする。
澄んだ鈴の音を、高く響かせる。
住職は深く、長く頭を下げると、昇っていく線香の煙をいつまでも見上げた。
その日から、隣家で起こる変事の一切が耐えたと云う――
3/3ページ