寂寥の時節≪せきりょうのとき≫
家の前を左に小さな小道を挟むと、寺の敷地が見える。
緩やかな坂道をほんの数メートル登ると、すぐに寺門の前に辿り着く。
門までの距離は短い。階段も緩やかで蹴り上げは低く、踏み面が広い。
本当は、小道を渡ってすぐに側溝を跨ぎ壁際に添って少し横ばいで歩くだけで階段を登る必要もないぐらい。 見つかると「危ない」だの、「罰当たり」だのと文句を言われるからやらなくなっただけだ。
階段も、本当は横の塀をよじ登る方が手っ取り早い。近所のやんちゃな子供は一度はそうやって怒られる。少女もそうだった。
寺院を囲む壁を見上げて歩きながら、少女はそんなことを考える。
首を回して少女は住職の方を見上げた。
「御坊はその壁を伝って歩いたり、この壁をよじ登ったりしなかったんでしょうね」
「……そう、思いますか?」
住職は目を瞬かせる。少女が頷くと、目を細めて口元をもう片方の袖で覆い隠す。
――笑った。
少女は一歩足を前に進めたが、住職は立ち止まってしまった。門前を眺めるようにして。
「私は子供の頃に、この壁を歩いて足を滑らせたことがありますよ」
「御坊が?」
今度は少女が目を瞬かせた。
「ええ。先代にはこっぴどく叱られました」
住職は懐かしそうに笑う。
「この塀もよく登りましたよ。今も昔も、この辺りは子供の遊び場でしたからね。――貴方もよく遊びに来ていました」
そう、面白そうに少女を流し見る。
「朝早くや日暮れ時にも、よくこの階段に座り込んでいましたね」
「……もうそんな心配もありませんけどね」
少女はふと遠い目をしてから、そう言ってふふっと笑った。
住職は小さな少女がむすっとした表情で座り込んでいたのを思い出す。
「幼い頃は、よくここで泣いていた」
「ええ……」
朝と夕方、門前の掃除は学生時代も修行僧の間も今の住職がやっていた。
だから、そんな少女をみつけるのも決まって彼だった。
「御坊が相手をしてくれて、一緒にお寺の前を掃除したね」
家の前で蹲って居た時も、迎えに来て慰めもらった。
そんな時も、こうして手を引かれて。
少女にとって住職は、兄にも等しい存在だったように思う。
時々――と言うには頻繁に、少女の家からは大声や物音が響いていた。少女が家の前で蹲っている時は、たいていそういう時だった。
記憶の少女はいつも家の前で耳を塞いでいる。住職の姿を見ると駆け寄ってきては泣きじゃくった。
『お婆ちゃんもお父さんもきらい』
『大っ嫌い』
悲痛な声が今も住職の胸には重い。
記憶の中の少女の声が、今は隣で呪詛のように低く呟く。
「……偉そうで理不尽で勝手なお婆ちゃんと、お婆ちゃんの言いなりなお父さん。そんなお父さんとお婆ちゃんに頭の上がらない気弱なお母さん。みんな、みーんな大っ嫌いだった」
少女は歪んだ笑みを浮かべる。
「居なくなってくれて、本当に清々してる」
「そんなこと……」
「本当のことだもの。何よりも嬉しい」
少女が見上げた住職の表情は、酷く痛ましいものをみるような目で、思わず顔を背けた。かわりに、掴んだ袖を、強く握る。唇を噛みしめた。
「……行きましょう」
住職は、少女を促す。
少女は顔を背けたままそっと頷くと、おとなしく寺門をくぐろうとした。
その時、本能的に嫌悪感のようなものを感じて、背筋がぞっと凍りつく感覚を覚える。
思わず立ち止まる。
一歩手前、先に行った住職も袖を引かれて立ち止まる。
「どうか、しましたか?」
「……いいえ」
少女は強張った表情を浮かべながら、首を振る。
なんでもない。と繰り返した。
住職は見ないふりをする。
「……さあ、本堂で経を上げましょう」
本堂に近付くにつれ、少女の表情はこわばり、足取りも重くなる。
住職は黙ったまま、ゆっくりと少女を促した。
大きな仏像の前まで来て、袖を握る手をそっとほどくと、腰掛けるように言う。
だが、入り口の前に立ったまま、少女はかたかたと震えて後ずさった。
「ねえ、御坊……やっぱり……私……」
住職は準備を整えるために、棚を整えている。
震える声で少女は呼びかけたが、住職は振り返らない。
少女は思い立って、一際声を張った。
「御坊。せめて、そうだ……うちで、うちの仏壇で……」
祖母の部屋に、祖父の仏壇があったはずだ。
――きっと祖母も両親もそこに……。
少女は言いかけて、棚をハッと見つめた。そこには住職によって位牌が四つ並べられている。そして最後の五つめがその手でその棚に並べられようとしていた。
「五つ……?」
「おうちの御仏壇にあった位牌は、事故の後でこちらに。ご家族と一緒の方が良いでしょうから、と」
祖父、祖母、父、母。
住職はもう一つの位牌を手にして、少女に向き直る。
表の文字はよく読めない。だが書かれた日付は、他の三つと同じ。
住職は少女の前まで来て、それを裏返す。
「なん、で……私の……?」
そこには、少女自身の名前が彫られていた。
少女は呆然と住職を見上げる。
なんの冗談。と口走ろうとして開けた口が、言葉を発せぬまま塞がらない。
震える手で、入り口の柱にしがみつくようにして立ち尽くす。
住職は少女に背を向けた。
位牌を棚の一番前にそっと並べると、所定の位置に腰を下ろした。
静かに蝋燭に火を灯す。
――そして、静まり返った本堂の空気を割るような、澄んだ鈴の音が響く。
読経が始まる。
いや。と少女は、あえぐように息を漏らしながら、首を振り、後退る。
震える足が、重たく、思うように動かない。
がくがくと震える膝を引きずるように、壁伝いにして本堂の外に這い出る。
読経が追ってくるように思えた。
歩いても歩いても、先ほど通ってきたはずの廊下がどこまでも長く、出口が遠い。
外に出ても、そこから寺門までが果てしない距離に思えた。
それでも、少女の本能が住職の声を、この寺を忌避する。逃げ出さずにはいられない。
慣れ親しんだ寺の敷地が、まるで知らない場所のように思えた。
迷い込んで、出られなくなった牢獄のようだ。
離れているはずなのに、読経は頭の中でどんどん大きくなって響いていく。
次第に足が動かなくなり、そのまま床に膝をついた。
四つん這いのまま、少女はそれでも廊下を進む。
開いたままの玄関から、外に手を伸ばした後は、殆ど記憶にない。
視界も、方向もわからないまま、体を引きずって前に進む。
やがて倒れ込んだ先で、夢を見た。
祖母に叱られ、そのことで父に殴られる母。祖母を怒らせたことを父に叱られる少女を庇おうとして、やはり手を上げられる母。
そんな母親が少女に向かって手招きをしている。
少女は嫌だと突っぱねようとした。だが、父も祖母もそこに姿は見えない。
それなら――と、いう気がした。
緩やかな坂道をほんの数メートル登ると、すぐに寺門の前に辿り着く。
門までの距離は短い。階段も緩やかで蹴り上げは低く、踏み面が広い。
本当は、小道を渡ってすぐに側溝を跨ぎ壁際に添って少し横ばいで歩くだけで階段を登る必要もないぐらい。 見つかると「危ない」だの、「罰当たり」だのと文句を言われるからやらなくなっただけだ。
階段も、本当は横の塀をよじ登る方が手っ取り早い。近所のやんちゃな子供は一度はそうやって怒られる。少女もそうだった。
寺院を囲む壁を見上げて歩きながら、少女はそんなことを考える。
首を回して少女は住職の方を見上げた。
「御坊はその壁を伝って歩いたり、この壁をよじ登ったりしなかったんでしょうね」
「……そう、思いますか?」
住職は目を瞬かせる。少女が頷くと、目を細めて口元をもう片方の袖で覆い隠す。
――笑った。
少女は一歩足を前に進めたが、住職は立ち止まってしまった。門前を眺めるようにして。
「私は子供の頃に、この壁を歩いて足を滑らせたことがありますよ」
「御坊が?」
今度は少女が目を瞬かせた。
「ええ。先代にはこっぴどく叱られました」
住職は懐かしそうに笑う。
「この塀もよく登りましたよ。今も昔も、この辺りは子供の遊び場でしたからね。――貴方もよく遊びに来ていました」
そう、面白そうに少女を流し見る。
「朝早くや日暮れ時にも、よくこの階段に座り込んでいましたね」
「……もうそんな心配もありませんけどね」
少女はふと遠い目をしてから、そう言ってふふっと笑った。
住職は小さな少女がむすっとした表情で座り込んでいたのを思い出す。
「幼い頃は、よくここで泣いていた」
「ええ……」
朝と夕方、門前の掃除は学生時代も修行僧の間も今の住職がやっていた。
だから、そんな少女をみつけるのも決まって彼だった。
「御坊が相手をしてくれて、一緒にお寺の前を掃除したね」
家の前で蹲って居た時も、迎えに来て慰めもらった。
そんな時も、こうして手を引かれて。
少女にとって住職は、兄にも等しい存在だったように思う。
時々――と言うには頻繁に、少女の家からは大声や物音が響いていた。少女が家の前で蹲っている時は、たいていそういう時だった。
記憶の少女はいつも家の前で耳を塞いでいる。住職の姿を見ると駆け寄ってきては泣きじゃくった。
『お婆ちゃんもお父さんもきらい』
『大っ嫌い』
悲痛な声が今も住職の胸には重い。
記憶の中の少女の声が、今は隣で呪詛のように低く呟く。
「……偉そうで理不尽で勝手なお婆ちゃんと、お婆ちゃんの言いなりなお父さん。そんなお父さんとお婆ちゃんに頭の上がらない気弱なお母さん。みんな、みーんな大っ嫌いだった」
少女は歪んだ笑みを浮かべる。
「居なくなってくれて、本当に清々してる」
「そんなこと……」
「本当のことだもの。何よりも嬉しい」
少女が見上げた住職の表情は、酷く痛ましいものをみるような目で、思わず顔を背けた。かわりに、掴んだ袖を、強く握る。唇を噛みしめた。
「……行きましょう」
住職は、少女を促す。
少女は顔を背けたままそっと頷くと、おとなしく寺門をくぐろうとした。
その時、本能的に嫌悪感のようなものを感じて、背筋がぞっと凍りつく感覚を覚える。
思わず立ち止まる。
一歩手前、先に行った住職も袖を引かれて立ち止まる。
「どうか、しましたか?」
「……いいえ」
少女は強張った表情を浮かべながら、首を振る。
なんでもない。と繰り返した。
住職は見ないふりをする。
「……さあ、本堂で経を上げましょう」
本堂に近付くにつれ、少女の表情はこわばり、足取りも重くなる。
住職は黙ったまま、ゆっくりと少女を促した。
大きな仏像の前まで来て、袖を握る手をそっとほどくと、腰掛けるように言う。
だが、入り口の前に立ったまま、少女はかたかたと震えて後ずさった。
「ねえ、御坊……やっぱり……私……」
住職は準備を整えるために、棚を整えている。
震える声で少女は呼びかけたが、住職は振り返らない。
少女は思い立って、一際声を張った。
「御坊。せめて、そうだ……うちで、うちの仏壇で……」
祖母の部屋に、祖父の仏壇があったはずだ。
――きっと祖母も両親もそこに……。
少女は言いかけて、棚をハッと見つめた。そこには住職によって位牌が四つ並べられている。そして最後の五つめがその手でその棚に並べられようとしていた。
「五つ……?」
「おうちの御仏壇にあった位牌は、事故の後でこちらに。ご家族と一緒の方が良いでしょうから、と」
祖父、祖母、父、母。
住職はもう一つの位牌を手にして、少女に向き直る。
表の文字はよく読めない。だが書かれた日付は、他の三つと同じ。
住職は少女の前まで来て、それを裏返す。
「なん、で……私の……?」
そこには、少女自身の名前が彫られていた。
少女は呆然と住職を見上げる。
なんの冗談。と口走ろうとして開けた口が、言葉を発せぬまま塞がらない。
震える手で、入り口の柱にしがみつくようにして立ち尽くす。
住職は少女に背を向けた。
位牌を棚の一番前にそっと並べると、所定の位置に腰を下ろした。
静かに蝋燭に火を灯す。
――そして、静まり返った本堂の空気を割るような、澄んだ鈴の音が響く。
読経が始まる。
いや。と少女は、あえぐように息を漏らしながら、首を振り、後退る。
震える足が、重たく、思うように動かない。
がくがくと震える膝を引きずるように、壁伝いにして本堂の外に這い出る。
読経が追ってくるように思えた。
歩いても歩いても、先ほど通ってきたはずの廊下がどこまでも長く、出口が遠い。
外に出ても、そこから寺門までが果てしない距離に思えた。
それでも、少女の本能が住職の声を、この寺を忌避する。逃げ出さずにはいられない。
慣れ親しんだ寺の敷地が、まるで知らない場所のように思えた。
迷い込んで、出られなくなった牢獄のようだ。
離れているはずなのに、読経は頭の中でどんどん大きくなって響いていく。
次第に足が動かなくなり、そのまま床に膝をついた。
四つん這いのまま、少女はそれでも廊下を進む。
開いたままの玄関から、外に手を伸ばした後は、殆ど記憶にない。
視界も、方向もわからないまま、体を引きずって前に進む。
やがて倒れ込んだ先で、夢を見た。
祖母に叱られ、そのことで父に殴られる母。祖母を怒らせたことを父に叱られる少女を庇おうとして、やはり手を上げられる母。
そんな母親が少女に向かって手招きをしている。
少女は嫌だと突っぱねようとした。だが、父も祖母もそこに姿は見えない。
それなら――と、いう気がした。