海へ出る

 ゆっくりと目を開けた俺に、手にした文庫本から視線を上げた高瀬は少し首を傾ける。
「目は覚めた? もう時期、着くよ」
 アナウンスが、京都駅を案内した。
 欠伸をしながら俺は呟き、
「すげぇ寝てた気がする……」
「すごく眠っていたよ」
 もう一度欠伸を噛み殺す俺に、高瀬が苦笑交じりに答えた。
 電車がホームに入っていくと、流れる車窓の向こうには人の波が見える。
 背中で表情を察したのか、先に立ち上がった俺の後ろで「連休だからね」と高瀬が笑った。
 ホームを降り、乗るために待っていた人垣が開けた隙間を、同じく電車から降りた人の波に流されるように歩く。
 次の乗り換えの路線を聞いておいてよかったと思う。
 ちらりと確認した案内板から記憶した字を見つけて、そちらに向かう。
 途中には幾度か行列を割る必要もあった。
 やがて降りた電車が新しく人を乗せて走り去り、ようやくホームの視界が開けて、空間が広がる。
 そこに後ろから、やや足取り重く追いついてくる高瀬の姿があった。
 階段を上り、改札を横目に奥のホームへと向かう。
「宇治、だっけ?」
「桃山で降りて、少し観光しよう」
 高瀬に言われるまま、奈良線の桃山駅へと向かう。
 少し傾斜のある坂道を少し進むと、運動公園の中へと入っていく。敷地内を散歩気分で歩いていく。
 遊園地跡だという、桃山城とも呼ばれる建物。
 歴史的にはかつて豊臣秀吉が移住にしたという伏見の城。それを模して造られたというこの模造天守が、現在に残る伏見桃山城の姿だった。
 古いものではないようで、黒と赤が目に残る、意外にしっかりとした綺麗な城が目前に構えている。
「天守閣には登れないみたい」
 残念だね。と漏らした高瀬の言葉は本音だろう。俺も頷きながら、感嘆の声を上げた。
「思ったより立派なもんだな」
 高瀬から、時代劇のロケなんかにも使われたそうだと聞き、納得する。

 城周りや庭園を見て回りながら写真を撮って、駅へ戻る。
 途中で連絡を入れておいたらしく、今夜世話になる高瀬の親戚が既に迎えにきてくれていた。
「ありがとうおじさん」
「いらっしゃい! 早汽さわきくん。よく来たね」
 恰幅が良く、高瀬にはあまり似ていない年配の男性がにこやかに歓迎してくれる。
「どうぞよろしくお願いします」
 挨拶し、どうぞと促されながら車に乗った。
 長くない車中、男性は気遣ってか終始話しかけてくれる。
 内容は、他愛のないよくある話題だった
「大学はどう?」
「京都は初めて?」
「課題だって? 大変だね」
 等。
 相槌を打ち、聞かれるままに高瀬や俺が答えているうちに、車は一軒家の駐車場に入庫する。
「どうぞ、狭くて何もないけど」
 決まり切った文句を言いながら、扉を開けて先に中へと上がって奥に声をかける。
 家の奥から現れた女性は、高瀬のおじさんの奥さんだろう。
 高瀬と一緒に、二人に向かって頭を下げた。
「今夜一晩、お世話になります」
 次いで用意しておいた手土産を差し出す。
 奥さんは朗らかな笑みと礼を述べ受け取ると、俺たちを家の中へと促した。
「何もない家ですけど、どうぞゆっくりしていってね」
 と、やはり旦那さんと同じことを述べた。

 二人で一つの和室に案内され、そこで互いに大きく息を吐いた。
 窓のすぐ外は、本当に目の前が宇治川の堤防がある。
 開いた窓から風を感じていると、高瀬が言った。
「ここから歩いて10分ほどのところに、伏見港の跡地になった公園があるんだ。後で散歩に行こう」
 車を出そうと言ってくれる旦那さんの親切を丁寧に断り、俺たちは町を散策しながら公園内を歩いた。
「ここが河川港だったのか……」
 綺麗に整備された水門。その前には資料館が建っている。
「さっき見た模造の城がまだ本物だった頃、ここは市中からの荷運びの舟が盛んに出入りし賑わっていたんだよ」
 高瀬が時折こうして説明を織り交ぜながら、俺を案内してくれる。それを聞きながら、写真を撮り、レポートになりそうなメモを取った。
「あんまり想像はつかないな」
 軽口を叩きながらも、なぜだか初めて来たはずのその場所に、不思議な懐かしさのようなものを感じずにはいられなかった。
 資料館を出た後は公園内をぐるりと巡って、辺りを散策して今夜の宿として間借りする家へと戻る。
 辺りはまだ明るかったが、時刻は夕方を回っていた。

 空の色が変わり始める。少し早めの夕食だと呼ばれて食事をご馳走になった。
 辺りが暗くなり夜の色が濃くなった頃、窓の外をじっと見つめる俺に高瀬が、「川辺を散歩でもしようか」と言うので、頷いた。
 普段は互いによく会話する方だったけれど、その時は妙に口数が少なく。
 真っ暗な河を堤防から見下ろし、時折立ち止まりながら。ゆっくりと、歩く。

「いいな、こういう時間も」
 冷たくも、静かで穏やかだった。
 沈黙の中、小さく俺は呟く。
「そう? なら、誘ってよかったかな」
 振り返った高瀬はほっとしたように胸を撫でおろした。
「ああ、ありがとな」
 それは本当に何気なく洩らした。
「今日みたいな、こんな風にのんびりとゆっくり景色を眺めてると、なんだか、俺にも何かが表現できるような気がしてくる……」
 なぜ、そう思ったのか、口をついたのかもわからない。ただの思いつきだった。
「なにか?」
 貴瀬は言及するように問う。
「絵……とか? いや、あんまり得意じゃないけど」
 言いながら、自分でもガラにもないと笑ってしまう。
 少し間を置いて、高瀬が口を開く。
 無表情にも見える、不思議な――だけど時折ふと、高瀬が見せる大人のような表情だった。
 どこか、別の人間のような。
 顔に暗く落ちた影。瞳の中、小さく灯った光でじっと俺を見る。
「……文章、は?」
 俺は思わず息を呑む。
「――考えてみようか……」
 僕はその瞬間、すかさず「嫌だ!」と。
 そう、口を開いたはずだった。
「それもいいかもな」
 僕ではない喉から出た声は、そう言葉となって河川に満ちる空気の中へと溶けていった。
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