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海へ出る

「縁がある気がして」

 どうして俺と?
 俺が問うと、高瀬は言い難そうな、少し照れたような複雑な表情を浮かべた。
 問いの返答として、高瀬はそう言ったのだ。

「縁」
 とオウム返しに発した俺に、高瀬は真顔で頷く。
「高瀬川の下流が流れる辺りに、【竹田】という地名があるんだ」

  ――お互い、レポートにするにはいい題材じゃないかと思ったから。

 そう締め括って、高瀬は「少し考えておいて」と手を振って別れた。
 俺は、その背に思わず追い縋るようにして、
「行く」
 と答えたのだ。



 京都までは在来線を乗り換えて、所要時間はざっと約二時間。
 なるべく乗り換えの少ない行き方を調べ、朝一番に市内の駅で待ち合わせ、二人で電車へと乗り込んだ。
 15分もかからず一度電車を乗り換える。
 連休日の初日の朝。人は多かったけれど、何とか窓際の向かいの席に二人で腰を落ち着けた。
「一緒に来てくれてありがとう」
 電車に揺られること、数分。
 隣の席に座った老婦人の二人は、通路を挟んだ隣の四人席と同じグループらしく、上半身をそちらに向けて談笑している。
 喧騒の中でぽつりと落とされた声は、聞き逃しそうな声量だったけれど俺の耳にきちんと届いた。
 移り替わる景色の中、若葉が萌える山とその山々の間にぽつりぽつりと建つ家々。田んぼと畑。
 時折思い出したように飛び出す看板。
 見覚えのある店の名前。
 そんなものに目を向けながら、首を振る。
「あんまり家にもいたくなかったから、ちょうどいい」
 俺が浮かべた表情は自嘲に似ていた。
「昨日も、あまり寝てなさそうだね」
 向けられた視線。心配の色の濃い瞳が、真っ直ぐに俺を映している。
 変な気分だった。
「そうだな」
 俺は窓枠にを置き、壁に頭を預ける。
 流れる景色を見ながら、ゆっくりと目を閉じた。 


「しゅう、お前の作品は、人の目に触れれば必ず評価されるはずだ」
 見知ったような、全く知らないような、男が激しく自分に語り掛ける。
貴瀬たかせ、それは……多くの人の目に触れ、評価されたことがある人間だけが言える戯言だ……」
 俺は、自分の体がそう気弱に答えるのを聞いていた。 
 名前を呼んだ瞬間、何故だか脳裏に、“貴瀬”という文字が浮かんだ。そしてそれが、目の前の人間のことだと理解する。
 夢の中、ぼんやりとしていた彼の――“たかせ”の輪郭が見えた気がした。


「熱心に書き続けられる。その情熱がある。……俺は、お前が羨ましい」
 熱く語り掛けられ、浴びせられる過大評価でしかない称賛に、嬉しいのか悔しいのか、あるいはそのどちらでもあるというのか。それでもただ、酷く僕の心を抉った。
「君こそ、どうして書かない」
「書けないんだ。もう……」
「あんなに期待されていて、どうして……!」
「………わかるだろう? 「売れるもの」は、書きたいものじゃないんだ」
 わからない。
 そんな言葉が、僕にわかるはずがなかった。



 遠くで、彼の声が聞こえた。
「竹田、次降りるよ」
 重苦しいものを抱えてぼんやりとしながら、彼の動作と後に続き、ホームに降りて次の電車を待つ。
 待っている間も、目は空いていて高瀬の声を聞いているはずなのに、俺は――いや、僕は、まだ夢の中にいた。


沢木さわきくんはすごいな」
 子供の頃の、僕と貴瀬たかせだった。
 僕は貴瀬たかせに向かって、呼びかける。
 沢木と呼ばれた貴瀬たかせは首をこちらに傾けた。
「なんでもできるだろう? 勉強も、運動も」
「そうでもないよ。それに、俺はシュウよりも歳が上だからね。きっと、君は俺なんかすぐに追い越してしまうよ」
 ――そう。そうだ。
 子供の頃の、僕は彼を名前じゃなくて苗字で呼んでいたんだ。


 僕はぼんやりとした視界に、薄く青く、遠く煌めく水面が見えた。
「うみ………?」
 向かいに座った貴瀬は、穏やかにゆるく、首を振る。
 その広く広がる水溜まりが、それとは違うとは僕にはとうてい思えなかった。
 ――海に………。
 太陽の光を反射して輝くそれを眺めながら、僕は静かに目を閉じる。
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